いーけないんだー、いけないんだー②
「あぁ……朝から散々な目に遭ったぜ……」
朝、俺の友人である牧が疲弊しきった表情で教室へと入ってきた。元気だけが取り柄の牧にしては珍しいことだ。
「おはよう、牧。そんなに朝練やばかったのか?」
「いや、違うんだ才木。廊下走ってたのを先生に見られてな……」
「あぁ、説教食らってたのか」
「怒鳴られすぎて耳がイカになるかと思ったぜ……」
どうやら牧の耳はたまにイカに変形するようだが、それはおいといて。
この桂岡高校は変なところで規則に厳しいところがあり、廊下は走ってはいけない、という小学校にありそうな……言い換えれば小学生にでも出来そうな当たり前のことが規則になっている。
「もう高校生だってのに、あんなガミガミ怒らなくても良いだろうによ……」
「まぁ規則は規則だからな。しかし、そんなこっぴどく叱られたのか?」
「いや俺さ、先生に言い返しちゃったんだよ。俺がいつ廊下を走りましたか~? 何時何分何秒~? 地球が何回周った時~?って」
「先生を煽るな。小学生かよ」
「そしたら天動説がどうとか地動説がどうとか、わけのわかんない説教をだらだら食らう羽目になったぜ……」
もしかしたら、その先生は天動説支持者だったのかもしれない。
先生によっては軽い注意で済むこともあるが、やはり常習犯だと説教が長くなりがちである。俺はまだ先生に怒られたことはないものの、先生にバレないようにこっそり走っていることもある。
廊下は走るために存在するんだろ、と牧は言いたげだったが、そんなバカな小学生みたいな話をしていると、登校してきた小日向が隣の席へとやって来た。
「おはよ、才木君」
「あぁ、おはよう小日向」
「あと伊達巻君もおはよう」
「おうおはよ……あれ!? なんか違う気がするけど!?」
小日向は正解を知ってて牧のことをいじっているのだろうが、小日向に名前を知ってもらえてるだけで感謝しろよ、伊達巻君。
そして一人困惑する牧を放って、小日向は天使のように俺に微笑みかけてきて──。
「なんだか今日は、廊下を走りたくなるような温かさだね」
この世界ではピクニックの代わりに廊下を走ってチルさを感じるのだろうか?
「お、小日向さんも廊下を走りたいって思う?」
「最近は走らなくなっちゃったけどね」
「なら是非走ってほしい。本当はダメってわかってても、その背徳感と先生にバレるかもしれないというスリルを感じながら走る廊下は最高だぜ……!」
俺は牧が将来的に重大なヘマをやらかさないか不安でしょうがない。そういう小さな罪を重ねていくと罪を犯すことに慣れてしまいそうで恐ろしいものだ。
「才木君は、廊下を走りたくなる時ってないの?」
「え? まぁ、あるにはあるが……」
「マジ!? あの才木が廊下を走ってるところなんてお目にかかれたら何かご利益ありそうじゃね?」
「お前は俺をなんだと思ってやがる」
「人助け妖怪」
「もっとマシな例え方なかったのか」
俺だって廊下を走ることはあるが、先生にバレないように上手くやっているつもりだ。牧や小日向にも俺が廊下を走っているのを見られたことはないと思うが……誰かが廊下を走っているのを見かけて、そんな特別感を感じることがあるだろうか?
まぁ、腰の曲がったおばあちゃんが物凄いスピードで廊下を走っていたら度肝を抜かれるかもしれないが、多分牧が言っているような物珍しさとは違うものだろう。
すると、そんな話を聞いていた小日向は何故かニヤニヤしながら口を開く。
「私、見てみたいな。才木君が走ってるところ」
……小日向まで一体何を言っているのだか。
「わかった。もうこうなったら観戦料とるからな」
「じゃあ俺は屋台出店するし」
「商売しようとするな」
「いつかオリンピックに出られると良いね」
「そんなレベルで廊下を走るバカがいるか!」
そんなに見たいというのなら見せてやりたいぐらいだが、やはり先生にバレてしまうというリスクもあるし、そもそもとして俺はあまり自ら進んで規則を破りたくはない。
しかし……人は心のどこかに悪魔を飼っているのか、やはり魔が差してしまうものなのである。
◇◇◇
「次は美術かぁ~。またあのバカ遠い教室まで行かないといけないのかよ~」
「自分で選んだんだろ、文句を言うな」
この学校の芸術系の科目は選択式で、俺や牧は美術の授業を受けている。確か小日向も一緒のはずだ。
そして、牧が溜息をつきながらうんざりした様子で言うように、この教室から美術室までは結構な距離である。
そのため、油断していると授業に遅れてしまいそうになる危なさもあるのだが……。
「牧、先に行ってていいぞ。俺は少しトイレに行ってくるから」
「なんだ、便所で早弁か?」
「何が悲しくて便所で早弁しないといけないんだ。少し腹が痛いんだ、ちょっと籠もってくる」
「マジか。気をつけてな~」
何か悪いものでも食ってしまったのか、俺の腹は結構悲鳴を上げていたので、牧を先に行かせて俺はトイレへと駆け込んだのだった。
そして、腹痛と格闘すること数分。俺はようやくトイレから脱出することに成功したのだが……。
「まずいまずいまずいまずい!」
思いの外長時間トイレに籠もってしまっていたからか、俺は次の授業に遅れそうになってしまっていた。廊下の時計を確認するとかなりギリギリで、しかもよりにもよって移動に時間がかかる美術室まで行かなければならない。
急がなければ授業に遅れてしまいそうだが、早歩きで間に合うかどうかも怪しいぐらいだ。
だがかといって、廊下を走るのは……いや。
授業に遅れてしまうぐらいなら、俺は廊下を走ってみせる!
と、俺は意気込んで走り出したのだが──。
「あ、こら和海!」
俺が廊下を駆け出してすぐ、階段を登ってきた先生に見つかってしまった。
しかも、よりにもよって俺の姉貴である。きっと、どこかのクラスの授業に向かう途中だったのだろう。
「な、なんだよ姉貴……じゃなくて、才木先生」
「今、廊下走ってたでしょ~?」
怒っている、というよりは何故か愉快そうにニヤつきながら姉貴は俺に詰め寄ってきた。
「授業に遅れそうなんだよ。ほら、美術室メチャクチャ遠いだろ」
「だからって廊下を走って良いって理由にはならないわ! 大体ね、小学生とか子どもでも守れそうなルールを破っちゃうようじゃ……」
本当の原因は俺が腹痛で苦しんでいたからだが、俺が弁解する前に姉貴は待ってましたと言わんばかりにクドクドと説教を始める。
怒っているはずなのにやけに嬉しそうな表情の姉貴を見るに、きっと学校で弟を合法的に説教できる機会を待ち遠しく感じていたに違いない。
魔が差したとはいえ、こんなすぐに先生に見つかってしまうとは運がない、いやそりゃ出してしまったばかりだから……と、くだらないことを考えながら姉貴の説教を聞いていると──。
「待ってください、才木先生」
俺と姉貴の間に割って入る、一人の女子生徒。
思わず目を奪われる煌めく銀色の髪と可愛らしい顔立ちの少女──小日向雪歩がどうしてここにいるのか俺が戸惑う中、小日向は姉貴と対峙する。
「才木先生。才木君は美術の授業に遅れまいと急いでいただけなんです」
「で、でも小日向ちゃん。だからって廊下を走るのを正当化しちゃ……」
「じゃあ、廊下を走るのと授業に遅れるのと、どちらが重罪ですか? 普段の才木君が廊下を走るような生徒ではないことは先生もご存知のはずです。才木君はただ、自分達のために日々緻密な準備の上で授業を担当してくれている先生のことを大切に思ってそれを天秤にかけた上で、例え先生に怒られるリスクがあったとしても、授業に遅れまいと廊下を走っただけなんです。勿論注意も必要だとは思いますが、そんな時間を割いてまでする必要があることでしょうか?」
と、普段は物静かな小日向が、本当にあの小日向かと信じられないぐらい話し続けていた。
……こ、小日向が、俺を庇ってくれている?
小日向が俺のことを弁護してくれているのは嬉しかったが、それよりも小日向がこんなベラベラと饒舌になっているのは初めて見た。確かに小日向はコミュ障とか無口というわけでもないが、普段は黙って本を読んでいることも多い、物静かでそんなに口数も多くない性格のはずだ。
俺はそんな小日向の珍しい姿に驚いて言葉を失っていたが、一方で姉貴はというと──。
「……グスンッ」
今にも泣きそうなぐらい、目をウルウルと潤ませていたのであった。
いや、何も言い返せなくて泣いてしまってるじゃないか。論破されて泣きそうになってるんじゃないよ、大の大人が。
「あ、あね……いや、才木先生? ど、どうしちまったんだ?」
「私……一度はこういうのをしてみたくて……廊下を走ってる生徒を叱ってみたかっただけなのに……でも高校じゃあまりそういう機会なくて……」
「そんなもんに憧れんな!」
「確かに小日向ちゃんの言う通りだわ……そうね、そんなつまらないルールが青春を止められるはずがないのよ! 素晴らしき哉、青春! 二人とも、存分に廊下を走りなさい! 授業に遅れないように!」
と、俺は小日向と一緒に姉貴に送り出され、美術の授業に遅れないよう廊下を駆け出したのだった。
「ありがとな、小日向」
廊下を小走りで移動しながら俺が礼を言うと、俺の隣を走る小日向が小さく微笑んだ。
「ううん、別に。でも、才木君が授業に遅れそうだなんて珍しいね」
「あぁ、ちょっとトイレに行っててな。小日向は?」
「私はお茶を摘みに行ってたの」
「あぁ、お茶を……お茶を!? お花じゃなくて!?」
「紅茶を飲みたい気分だったから」
それは小日向なりの誤魔化し方なのだろうか。あまり深く追及しない方が良いだろう。
「それよりも、良いものを見れた気分」
「何だよ。俺が廊下を走ってるからか?」
「うん。今日は良いことありそうだね」
「だと良いな……」
まぁ、俺にとっては良いことがあったかもしれない。
小日向と一緒に廊下を走るなんて経験は、今後ないかもしれないからな……。
……小日向が走るスピードが信じられないぐらいスローペースで、授業に間に合ったのが本当にギリギリだったのは、また別のお話。




