第4章 第十五話:憧れと焦燥、揺れる境界線【加筆&修正】(26年6月9日)
「博康さん、お待たせしました!」
校門が見えた瞬間、杏奈は大きく手を振りながら駆け寄った。
秋の柔らかな日差しを背負って立つ博康の姿は、ネイビーのチェスターコートにインナーは白いタートルネックのニットを着ており、着こなしも洗練されていて、彼女の憧れそのものであった。
けれど、その胸の高鳴りに混じって、先ほど教室で自分を送り出してくれた浩紀の顔が不意に脳裏をよぎった。
あの一瞬だけ彼が見せた、寂しげな、何かを諦めたような瞳。
(……ダメ、今は博康さんとの時間を楽しまなきゃ)
杏奈は小さく首を振ってその残像を振り払い、弾む息を整えて博康の前に立った。
「全然大丈夫だよ。忙しいのに無理を言ってごめんね。そういえば、弟は生徒会?」
「はい。ヒロは……生徒会の待機当番に向かいましたよ。今は教室で待機しているはずです。一応浩紀は生徒会長ですしね」
「浩紀も生徒会長とはね。待機当番とか懐かしいな」
博康はかつて自身も生徒会長を務めていた頃を思い出すように、目を細めて笑っていた。
「あれ、ホントやることないんだよね。俺も現役の頃は、一緒に当番だった友達とずっとお喋りして時間を潰してたっけな。そういえば、あの当番で一緒になった男女がそのまま付き合いだした、なんて話もよくあったよ。密室だし、意外と距離が縮まるのかもね」
その言葉を聞いた瞬間、杏奈の胸の奥がちくりと痛みを感じた。
「密室」「二人きりの当番」。
その不穏な響きに、杏奈の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
昨夜、自分が浩紀の部屋で彼に唇を重ねたのは、誰にも邪魔されない「密室」だったからだ。
だとすれば、今まさにあの教室で浩紀と二人きりになっている薫にとっても、そこは「何でもできてしまう場所」に他ならない。
(……待って。今の薫なら、本当にやりかねない……っ!)
最近の薫が浩紀に向ける、どこか熱を帯びた、それでいて射抜くような鋭い視線。
それが脳裏をよぎり、杏奈の指先がかすかに震える。
昨夜、必死の思いで手に入れた「上書き」という優位性。
それが今、自分の目の届かない場所で、実の妹によって無残に塗り替えられてしまうのではないか。
一度芽生えた疑念は、猛烈な勢いで杏奈の胸を焦がしていった。
隣を歩く博康への憧れさえ、今はその焦燥感の影に隠れてしまうほどに。
「……まぁ、浩紀は杏奈ちゃん一筋だから、そんな心配は無用だろうけどね(笑)」
博康の茶化すような言葉に、杏奈は反射的に声を張り上げた。
「ちょっと、博康さん! だからいつも言ってるじゃないですか。私とヒロは、単なる幼馴染だって!」
「ははは、ごめんごめん。君たちが仲良しなのは昔から見てるから、ついね」
博康は快活に笑い、杏奈の背中を優しく促して歩き始めた。
憧れの人と並んで歩く文化祭。
それは杏奈がずっと待ち望んでいたシチュエーションのはずであった。
しかし、隣で楽しげに展示の説明を聞く博康の声の裏側で、杏奈の心には言いようのない不安が芽生えていた。
(私はなんでこんなに不安になってるの……。私が好きなのは博康さんなのに……)
あの静かな教室で、今頃浩紀は薫と見つめ合って、笑っているのではないか。
もしかしたらもっと深い部分でつながってしまっているのではないか……。
考え出すときりがなかった。
振り払ったはずの「幼馴染」の寂しげな横顔が、彼女の心に冷たい影を落とし始めていた。
第15話をお読みいただきありがとうございます。
憧れの博康さんと文化祭デート!……のはずが、杏奈さんの頭の中は「密室のヒロと薫」でいっぱいに。
博康さんの「ヒロは杏奈ちゃん一筋だから」という言葉も、今の杏奈には「だからこそ、今の無防備なヒロが狙われたら……!」という逆効果なプレッシャーにしかなっていません。
「杏奈、デートしてる場合じゃないでしょ!」
「薫ちゃんの怖さを一番知っているのは、やっぱり実の姉ですね……」
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杏奈の博康と文化祭デートはどうなってしまうのか、次回をお楽しみに!
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