第4章 第十話:三日月の誓い、十秒間の上書き【加筆&修正】(26年6月9日)
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「……ッ」
廊下を渡る夜風が、火照った肌を撫でていく。
浴衣の袖を強く握りしめたまま、杏奈は玄関の前で立ち尽くしていた。
「事故なら、ノーカンなんだ」
先ほど自分の口から吐き出した冷たい言葉が、耳の奥で呪いのようにリピートされている。
本当は、その場で泣き叫びたかった。
ヒロの胸ぐらを掴んで、「私の知らないところで勝手に唇を汚さないで」と喚き散らしたかった。
けれど、そんなことをすれば「幼馴染」という今の恋人でないのに一番近くにいる特別な関係が壊れてしまう。恋人になりたいのは博康だが、同時に、浩紀にとっての特別な存在であり続けたいという矛盾した欲求を抱えていた。
(認めない。絶対に認めないわ。……あんなの、ただの事故。カウントする価値もないゴミみたいな出来事よ)
杏奈は荒い呼吸を整え、震える指先で浩紀の家のチャイムを鳴らした。
数秒後、扉の向こうから、重苦しい足音が近づいてくる。
ゆっくりと開いたドアの隙間から顔を出したのは、まだあの執事服を脱げずにいる浩紀だった。
「……アン。……やっぱり、来たんだな」
浩紀の声は微かに震えていた。
その表情には、覚悟を決めたような、それでいて今にも逃げ出したいような、複雑な色が混じっている。
彼も分かっていたのだ。
文化祭の浮かれた空気の中で犯した「あの事故」が、彼女にとって決して許されるはずがないことを。
「ヒロ、あなたの部屋で話しましょ」
氷のような、けれど奥底でドロドロとした熱を孕んだ声。
浩紀は杏奈と目を合わせることができず、逃げるように体を引いて、彼女を自らの部屋へと招き入れた。
カーテンの閉まった部屋。
文化祭の喧騒が嘘のように静まり返った密室で、二人は向き合った。
浩紀は、今日実際に起きた出来事を、逃げ場を失った子供のように包み隠さず話した。
施錠されたドア、バランスを崩した沙織、そして重なってしまった唇。
「……なら、あんたに沙織とキスする意思はなかったのね?」
「それは絶対に嘘じゃない。俺がキスしたいのは……」
「……なによ」
「……なんでもない」
浩紀が言葉を飲み込むと、杏奈は膝を抱えて、吐き出すように強がりを言った。
「それにしても、まさか沙織がヒロのファーストキスの相手とはね。沙織、可愛いし。あの子が相手でよかったじゃない」
(違う! やだ! ヒロは全部、私だけのものなのに……っ!)
本音とは裏腹な言葉。これまで浩紀に「応援する幼馴染」という仮面をかぶらせてきたことが、彼女の喉を締め付ける。
(ほんとは私にヒロを責める資格はないのかもしれない……。でも!)
それに対し、浩紀は感情を爆発させた。
「違う! 俺のファーストキスは、アンだよ!」
「えっ……?」
「ネックレスを渡したときにも話したけど。小2の時、地元の神社のお祭りに一緒に行っただろ? 縁日で売ってた、小さな三日月の飾りが付いたおもちゃの指輪を指にはめて、『お嫁さんになってください』って言った時に……アンがしてくれたキス、あれが俺のファーストキスだから。俺にとって、とても大切な思い出なんだ。誰にもその思い出は奪わせない」
胸に秘めていた大切な記憶。
感情が高ぶった浩紀の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……ごめん。目にゴミが入ったみたいだ」
そう言って、情けなく目をこする浩紀。
彼の言葉を聞き、ネックレスをもらった時には少しぼやけていた記憶が急激に鮮明さを取り戻した。その時の記憶を大切にしてくれていた浩紀、そして、ネックレスの煌めきが、小学二年生のあの夏に浩紀がくれた小さなおもちゃの三日月の指輪と重なり、全てが繋がった瞬間、彼女の胸の中にあった嫉妬は、激しい愛おしさへと一気に反転した。
「……ちょっと目を見せなさい」
杏奈は浩紀の顎を震える指で持ち上げ、上を向かせた。
そして、何も言わずに流れるような動作で、自分の唇を浩紀の唇に重ねた。
沙織との「5秒」を、この世から消し去るために。
重なる唇の熱さに頭が真っ白になりながらも、杏奈の右手は無意識に、制服の襟元にある「月のネックレス」を服の上から強く握りしめていました。
(これは、ヒロがくれた私だけの月……誰にも、沙織にも渡さない……!)
いつも浩紀のことで不安を感じると無意識に握っていたその銀色の三日月は、今や彼女の指の中で、浩紀に対する執着と独占欲の象徴としてはっきりとし、手に食い込むほど強く握り込まれていた。
杏奈は約10秒もの間、心臓が破裂しそうな鼓動を感じながら、決して唇を離すことはなかった。
ようやく顔を離した杏奈は、耳まで真っ赤にしながら、逃げるように背を向けた。
「……これは幼馴染としてのキスだから。……勘違いしないでよね!」
そう強がりを言うと、彼女は転びそうになりながら自分の家へと帰っていった。
一人残された浩紀は、頭が完全にフリーズしたまま、指先で自分の唇をなぞった。
一方、自分の部屋に戻った杏奈は、ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。
(上書き……できたよね。ヒロの頭の中、私のことでいっぱいになったよね……?)
心臓の音が大きすぎて、夜の静寂がうるさい。
杏奈の心臓は、隣りの家の浩紀にまで聞こえてしまうのではと心配になるほど大きく鼓動を打っていた。
彼女は日が昇り始めて眠りに落ちるまで、自分の唇に残った浩紀の「熱い感触」を、何度も何度も確かめ続けていた。そのころ浩紀も同じように眠れない夜を過ごしていた。
第4章第10話をお読みいただきありがとうございます。
ついに、杏奈が「上書き」を強行しました!
浩紀がずっと大切に守ってきた「小2の時の三日月の思い出」。
その純粋すぎる想いに触れたとき、杏奈の中の独占欲が「幼馴染」という枠を完全に突き破ってしまったようです。
「上書き成功、おめでとう!」
「杏奈の10秒キス、最高に熱かった……!」
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明日はいよいよ文化祭2日目。この夜を境に、二人の距離感はどうなってしまうのか……。19時にお会いしましょう!
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