第3章 第八話:『桐谷浩紀』の宣誓【加筆&修正】(26年6月3日)
体育館には、全校生徒の熱気と独特の緊張感が充満していた。
壇上に並ぶ候補者たちの中で、浩紀はただ一人、眼を閉じて静かにその時を待っていた。
やがて、推薦人としての杏奈がマイクの前に立つ。
「推薦人の河合杏奈です。……彼、桐谷浩紀は、誰よりも身近で『理想のリーダー』を見てきました。けれど、彼が今ここに立っているのは、誰かの影を追うためではありません……!」
杏奈の声は震えていた。浩紀のために書いたはずの「博康の意志を継ぐ」という原稿。
けれど、今朝見た浩紀の研ぎ澄まされた表情を前に、彼女は直前で言葉を書き換えずにはいられなかった。
「……彼自身の誠実さを、どうかその目で見てください!」
拍手の中、杏奈と入れ替わるように浩紀がゆっくりと登壇した。
ーーー
マイクの前に立った浩紀は、用意していた原稿を、一度も開くことなく演台に置いた。
ざわついていた全校生徒が、その異様な気迫に静まり返る。
「……俺はずっと、ある一人の背中を追いかけてきました」
浩紀の声は、低く、けれど体育館の隅々まで驚くほどよく響いた。
「桐谷博康。俺の兄です。彼は完璧な会長でした。俺も、そしてここにいる皆さんの中にも、その残像を今でも追いかけている人がいると思います」
一呼吸置き、浩紀は全校生徒をゆっくりと見渡した。
「でも、今日。俺はこの場所で、『桐谷博康の弟』という立場をやめ、桐谷浩紀として会長を目指します」
体育館に衝撃が走る。隣で控えていた杏奈が、目を見開いて浩紀の背中を見つめた。
自ら書き換えた推薦文。浩紀ならきっとこう言うはずだと信じて送り出した。
けれど、実際に放たれた言葉の重みと、兄という絶対的な存在を真っ向から否定してみせた彼の覚悟は、杏奈の想像を遥かに超えていた。
(本当に……言った……。ヒロ、自分の力だけで、あの人の影を……!)
驚きと、それ以上の高揚感に杏奈の胸元が激しく上下する。
制服の下で、月のネックレスが彼女の心音を刻むように激しく跳ねた。
それは、博康を追っていたこれまでの「偽りの時間」が終わり、本物の『桐谷浩紀』が誕生したことへの、魂の震えのようでもあった。
「俺は、兄さんの代わりにはなれません。そして、なるつもりもありません。……俺は、桐谷博康の弟としてではなく、『桐谷浩紀』として、皆さんと向き合いたい。不器用かもしれない。兄さんのようなカリスマ性はないかもしれない。けれど、目の前の一人ひとりと対話し、共に歩むことで、俺にしかできないやり方で成し遂げてみせます!」
ーーー
「俺に、皆さんの声を聴かせてください。俺と一緒に、新しいこの学校の形を作らせてください……。お願いします!」
浩紀が深く頭を下げた瞬間。
一拍の静寂の後、体育館が割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「博康の弟」というレッテルを自ら引き剥がし、一人の男として立ち上がった浩紀の姿は、生徒たちの心を強烈に揺さぶった。
ーーー
壇上から降りる浩紀を、沙織は涙を浮かべながら見つめていた。
「……かっこいい。あんなの、惚れないわけないじゃない……」
彼女の中にある「桐谷君への好意」は、もはや抑えきれないほど大きな熱量へと変わっていた。
そして、体育館の壁際に立っていた薫は、恍惚とした表情で兄を見つめていた。
「あぁ……やっと脱いでくれた。博康さんという偽物の皮を。……それでこそ、私の選んだお兄ちゃんです」
彼女の瞳には、狂気にも似た深い愛着が灯っていた。
一番近くにいた杏奈だけが、立ち尽くしていた。
「……ヒロ……?」
拍手の中で、杏奈だけが恐怖を感じていた。
浩紀が「博康」という呪縛を自ら断ち切った。
それは、浩紀が独り立ちし杏奈の存在自体を必要としなくなってしまうのではないかという恐怖を杏奈に与えるのに充分であった。
浩紀の宣誓は、選挙の結果だけでなく、三人との関係性をも決定的に変えようとしていた。
第3章 第8話をお読みいただきありがとうございます。
今回は浩紀の決別、そして三者三様のリアクション。
誰よりも近くで支えてきたはずの杏奈だけが、彼の成長を「置いていかれる恐怖」として捉えてしまう……幼馴染という関係の難しさを描いてみました。
浩紀の宣誓が、この四人の関係をどう変えてしまうのか。
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