第3章 第五話:壊れかけの仮面
昼休みの屋上。
五月の風が吹き抜ける中、浩紀と杏奈は並んで弁当を広げていた。
選挙戦の話題が一段落したところで、杏奈がふと、いつもの「癖」のように博康の名前を口にした。
「ねぇ、ヒロ。博康さんって、やっぱり凄いわよね。昨日も、お父さんが言ってたわ。『博康君は東大でもトップクラスなんだろうな』って」
「……っ」
その瞬間、浩紀の胸の奥を、熱く鋭い錐で突き刺されたような痛みが走った。
最近、特にひどい。これまでは「アンが笑顔でいられるならそれでいい」と、その痛みを散らすことができていた。
けれど、彼女への想いが強くなり、いつもしていた偽りの笑顔ですらうまく隠せなくなってきている今の浩紀にとって、彼女の口から出る兄への賞賛は、もはや猛毒に近い。
「……ヒロ? どうしたの、変な顔して」
杏奈が覗き込む。浩紀の顔から、一瞬だけ表情が消えていた。
いつもなら即座に返ってくるはずの肯定がないことに、杏奈は微かな不安を覚える。
「……あ、いや。なんでもないよ。ちょっと、眩しかっただけだ」
浩紀は、慌てて口角を上げた。
けれど、その頬は微かに震え、目は笑っていない。これまでは完璧だった「作り笑顔」に、隠しきれない亀裂が入っていた。
(ダメだ。……俺の望みは、アンが笑顔でいられることだろ)
浩紀は心の中で、自分自身に何度も言い聞かせる。
もし俺がここで苦しい顔をすれば、アンは気を使う。アンを困らせたくない。
アンが楽しそうに兄さんのことを話している、その時間を壊したくない。
「……兄さんは、どこにいても兄さんなんだな。俺も負けてられないよ。……な、アン?」
数秒の沈黙の後、浩紀はいつもの、穏やかで優しい「幼馴染」の笑顔を完璧に作り直した。
それを見た杏奈は、胸の奥に澱のように溜まっていた昨夜の後悔を、衝動的に口にしていた。
「そういえば私……昨日、今年のバレンタインのこと思い出したんだよね。ヒロは覚えてる?」
(私は何を言っているの。なんで今さら、こんなことを……)
一瞬、虚を突かれたような顔をした浩紀が、静かに答える。
「うん。覚えてるよ。……それがどうかしたの?」
「あの時はヒロを散々に振り回しちゃって、ごめんね。私、博康さんのことしか頭になかったから……」
それを聞いた浩紀は、心臓を直接掴まれたような衝撃に、作り直したばかりの仮面が崩れそうになるのを必死で堪えた。
「アンが兄さんのことしか見てないのは、今更のことじゃないか……」
自嘲気味に、突き放すような優しさで返された言葉。
杏奈は胸が苦しくなるのを感じ、無意識に、服の上から三日月のペンダントに触れていた。
そして、逃げ出したい自分を押し殺し、意を決したように告げる。
「そうかも……。でも、今回の選挙戦では――ちゃんと浩紀のことを見て、応援するから! だから、一緒に頑張ろ?」
「……っ」
浩紀は目を見開いた。
「兄さんのため」という大義名分ではない、「浩紀を見て」という言葉。
たったそれだけで、彼が長年積み上げてきた「幼馴染」という名の防壁は、呆気なく崩れ去る。
「……うん。分かった。頑張るよ」
そう答えた浩紀は、いつもの作り物の笑顔ではない、子供のように無垢で、切ないほど素のままの笑顔をこぼしていた。
(……あ、。今の、ずるい……)
それは、杏奈が遠い日の記憶に置き忘れてきた、大好きだった子供の頃の浩紀を思い出させるような、そんな笑顔だった。
第3章 第5話をお読みいただきありがとうございます。
今回はタイトルの通り、二人が互いに被っていた「仮面」が揺らぐ回でした。
浩紀が必死に守りたかったもの。そして、杏奈がようやく見ようとし始めたもの。
子供の頃の浩紀を思い出した杏奈は、ここから推薦人としてどう浩紀を支えていくのか……。
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