第9章 第三話:夕日差す図書室で、愛を誓う
薫が去った後の生徒会室から、浩紀は逃げるように図書室へと向かった。
口内に残るあの異常な甘みと苦みを消したくて、何度も唾を飲み込むが、喉の奥に張り付いた感覚は容易には消えてくれない。
図書室の奥、西日に照らされた窓際の席で、杏奈は一人静かに彼を待っていた。
「お待たせ、アン」
「ううん、今来たところだよ。……ヒロ、なんだか顔色が悪いけど大丈夫?」
杏奈が心配そうに顔を覗き込んでくる。その瞳のあまりの清らかさに、浩紀は胸を締め付けられるような罪悪感を覚えた。
「いや、ちょっと疲れただけだよ。……それより、さっき沙織に会ったんだ。『杏奈が少しでもヒロを不安にさせたら、その隙に私がかっさらっていくから。ちゃんと伝えておいて』って。……あいつ、本当に堂々としてるよな」
浩紀が苦笑混じりに沙織の言葉を伝えると、杏奈は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにクスクスと楽しそうに笑った。
「ふふ、沙織らしい。……でも、あの子にそう言わせちゃうくらい、私が頼りなかったのかもね。ヒロに甘えてばっかりで、ちゃんと言葉にしてなかったから」
杏奈は椅子から立ち上がると、机の上に置いていた、ひと際丁寧にラッピングされた箱を手に取った。
「沙織には、明日私から言っておくよ。『ヒロは絶対に渡さない。不安にさせる隙なんて、一秒も作らないから』って」
自信に満ちたその声は、迷いなく図書室の静寂に響いた。
彼女は一歩踏み出し、浩紀の目を真っ直ぐに見つめて、大切そうに抱えていた箱を差し出す。
「これ、受け取って」
杏奈が差し出したのは、震える手で精一杯可愛くラッピングされた、彼女の魂そのもののような箱だった。
「ヒロ。今年のは、義理チョコじゃないからね。……男性には、ヒロにしかあげないし。……これからは、ずっとそうするから」
「アン、ありがと。とっても嬉しいよ」
浩紀は愛おしそうにその箱を受け取った。
だが、その指先がわずかに震える。
彼は少しだけ視線を落とし、ずっと胸の奥に燻っていた、けれど今まで怖くて聞けなかった問いを口にした。
「……その、だれにもって、博康兄さんにも?」
浩紀の脳裏には、かつて杏奈が憧れ、恋い焦がれていた実の兄の姿が浮かんでいた。
自分にとっては一生追いつけない背中。
そんな兄にすら、もう贈ることはないのか。
杏奈は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにふんわりと、けれど一点の曇りもない澄み切った微笑みを浮かべて首を振った。
「うん。博康さんには、もうあげない」
杏奈は一歩、浩紀に歩み寄る。図書室を包む夕陽が、彼女の決意を祝福するように輝いていた。
「博康さんへの気持ちは、すごく綺麗な『思い出』として、心の奥にちゃんと鍵をかけて仕舞ったの。今の私の心を温めて、私を一人の女の子にしてくれたのは……ヒロ、あなただから」
杏奈の手が、そっと浩紀の手に重なる。薫の指が残していった冷たい残響とは違う、柔らかくて、確かな生命感に満ちた温もり。
「博康さんの代わりじゃない。世界でたった一人の、私の愛する人として。……ヒロにだけ、私の全部を受け取ってほしいの」
「……アン。ありがとう。俺、アンの気持ちを、絶対にはなさない」
浩紀がその箱を強く抱きしめると、杏奈は幸せそうに目を細め、彼の胸にそっと頭を預けた。
浩紀の胸に顔をうずめていた杏奈のかおが夕日に照らされ赤くなっている。
杏奈が恥ずかしそうに浩紀を見上げる。
「でも……将来、私たちの間に男の子ができたらその子には上げてもいい?」
「駄目、アンは僕だけのアンなんだから」
「もう、ヒロったら。……なら、ヒロは私だけのヒロなんだからね」
夕日の赤く照らされた二人は、お互いを求めるように強く抱きしめ合う。
沙織の宣戦布告も、薫の仕掛けた毒も、そして博康への劣等感も、すべては二人の純粋な想いの中に溶けて消えていく。
二人の間にあるのは、もはや幼馴染という名の甘えではない。
一人の男と女として、互いだけを一生守り抜くという、静かで熱い「純愛の誓い」だった。
二人のことを沈みゆく夕日変わるように昇ってきた三日月の淡い光が祝福していた。
杏奈が浩紀の背中に回したその指には、月の光を受け、銀色の三日月が静かに輝いていた。




