第8章 第十二話:愛による上書き、浸食する誘惑(第8章最終話)
週末の夜。
浩紀は逃げるように杏奈の部屋を訪れていた。
部屋に入り、ドアが閉まった瞬間、浩紀は糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
「ヒロ!? どうしたの、そんなに震えて……」
駆け寄る杏奈。その温かな手に触れられた瞬間、浩紀の目から熱い涙が溢れ出した。
もう、自分一人では抱えきれない。
この「毒」を吐き出さなければ、心が壊れてしまう。
「……アン、助けて……っ。俺、最低なんだ。裏切りたくないのに、もう、頭がおかしくなりそうなんだ!」
浩紀は顔を覆い、嗚咽とともにすべてを白状した。
薫を拒絶したこと。
けれど、あの瞬間に触れた彼女の肌の感触が呪いのように離れないこと。他の男と歩く彼女を見て、どす黒い独占欲に震えたこと。
「誠実でありたいと思えば思うほど、あの日の光景が甘い毒のように沁み込んでくるんだ。アン……俺、俺はどうしたらいい……っ?」
浩紀の震える告白を、杏奈は静かに聞き届けた。
愛する人が妹に本能を揺さぶられている事実は杏奈の胸を刺したが、それ以上に、自分にすべてをさらけ出して泣き叫ぶ浩紀の痛みが、彼女を突き動かした。
「……そっか。ヒロ、そんなに一人で苦しんでいたんだね」
杏奈は立ち上がると、震える手で、けれど迷いなく自分のブラウスのボタンに手をかけた。
「アン……?」
「ヒロ。私を見て。……私が、薫とのことを忘れられるように上書きをしてあげる」
月明かりの下、杏奈はすべてを脱ぎ捨て、柔らかな素肌を晒した。
「ヒロの中に、私の知らないあの子の記憶があるのが……正直、すごく悔しくて悲しい。なら、その毒を、私の体温で全部、溶かしてあげるから」
杏奈は膝をつき、浩紀を強く、壊れそうなほど優しく抱きしめた。
「……もう、どこにも行かないで。私だけを見て」
杏奈の唇が重なる。
それは愛する男を救い出し、自分のものとして刻印し直すための、決死の愛の儀式だった。
杏奈の温もりに包まれる中で、浩紀を苛んでいた薫の影は、圧倒的な愛の熱量によって真っ白に塗りつぶされていく。
二人は寄り添うようにして同じベッドに身を横たえた。
杏奈は浩紀の頭を胸にじかに抱きしめ、優しく頭を撫でていた。
浩紀は杏奈の柔らかな胸の感触と暖かく優しいぬくもりを感じながら、穏やかな顔で眠りにつくのであった。
ーーー
翌朝、杏奈のベッドの上で目を覚ました浩紀。
今日は朝ごはんを河合家で杏奈と一緒に頂くことにする。
食卓にはすでに薫が座っていた。
「おはよ、お兄ちゃん! 昨日はお姉ちゃんの部屋でぐっすりだったみたいだね」
薫は無邪気な笑顔で話しかけてくる。
最近、帰りはいつも別々で、薫は佐々木と一緒に帰ることが多かった。
浩紀は一瞬心臓が跳ねたが、隣でそっと膝に置かれた杏奈の手のぬくもりを頼りに、静かに息を吐いた。
「……ああ。おかげで、よく眠れたよ。ありがとう、アン」
微笑み合う二人。
そこへ杏奈がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば薫、ここのところ一緒に帰ってる佐々木君とはどうなの? お似合いだと思ったけど」
「えー、お姉ちゃん、気が早すぎだよ。彼は転校してきたばかりだから、学校や部活の話を教えてあげてただけだよ」
薫は無難に答え、トーストを口に運ぶ。その瞳の奥では、二人には決して見せない冷徹な計算が完了していた。
(……あは。お姉ちゃん、必死すぎて可愛い。……それに佐々木君? 当然、お兄ちゃんに見せつけるために彼を利用しただけですよ。誰が彼なんか選ぶもんですか)
薫は、二人には見えない角度でわずかに口角を吊り上げた。
(お幸せに、お兄ちゃん。……でも、私の感触を思い出すたびに、お姉ちゃんを抱きしめて上書きしなきゃいけないなんて。それって、一生私を意識し続けるってことですよね? それになにより、お姉ちゃんに縋らなきゃならないぐらい追い詰められてたってことは……それだけ私に『女』を感じてたってことだよね)
「あ、お兄ちゃん。口の端についてるよ?」
薫は身を乗り出し、ごく自然な手つきで浩紀の口元へ指を伸ばした。
浩紀がビクンと肩を震わせる。その微かな反応を、薫は見逃さない。
「あ、ありがと……薫ちゃん」
「ううん。ね、お姉ちゃん。今日からはまたお兄ちゃんと三人で帰ろうね?」
幸せな朝食が終わり、学校の準備のために浩紀が一度自分の家に戻ろうと席を立った。
杏奈が食器を片付けるためにキッチンへ向かい、二人の視界から消えた、その刹那。
玄関先で見送りに立った薫が、音もなく浩紀の背後に忍び寄った。
「……!」
振り返る間もなく、耳元に熱い吐息が触れる。
「安心してね、お兄ちゃん。佐々木君とは、なんでもないから」
心臓が跳ね上がる。
薫の声は、先ほどまでの「可愛い妹」のものではない、あの資料室の時の濡れた響きだった。
「今でも、私が好きなのは……ひ・ろ・き・さんだけだから」
一文字ずつ、愛を刻み込むような囁き。
浩紀の背筋を痺れさせるような、甘い悪寒が走り、 「ぞくり」と身体の芯が震えた。
「じゃあ、また後でね、お兄ちゃん!」
いつもの笑顔に戻り、手を振る薫。浩紀は返事もできないまま、逃げるように玄関を飛び出した。
幸福な朝食の風景のすぐ隣で、彼女という「甘い誘惑」は、次の隙間を見つけるその時まで、静かに、優しく、微笑み続けていた。
第8章第12話をお読みいただきありがとうございます。
薫によって精神的に追い詰められた浩紀が杏奈にすがり、その杏奈によって救われるお話になります。
そして最後に浩紀に対して誘惑の言葉をかける薫。
次の章が第2部の最終章になります。
次の第9章で物語の本編を終える予定です。
正直言うと第3部「三年生編」を書くことを考えなくもないのですが……。
これからも、もっとこの話を読みたいと考えてくださる方はブックマーク及び【評価☆☆☆☆☆】をつけて頂いた上で感想欄に希望をお書きください。参考にさせて頂きます。
明日も夜19時15分ごろに投稿しますので、よろしくお願いします。この後、第2部は第9章を残すのみとなります。是非最後までお付き合いください。




