第8章 第二話:太陽と影
「じゃあ、行ってくるね」
放課後。杏奈に笑顔で見送られ、浩紀は薫の待つ三階の教室へと向かっていた。
背中に感じる杏奈の視線は、どこまでも温かく、純粋だ。
「ヒロが私の嫌がることをするなんて、これっぽっちも思ってない」その信頼は、浩紀にとって最大の誇りである。
しかし、浩紀自身はまだ気が付いていなかったが、それは彼の心臓をじわりと締め付ける鎖にもなっていた。
(アンは、俺を信じてくれてる。だから、絶対にその期待を裏切っちゃいけない。アンの前では、完璧なヒロでいなきゃ……)
階段を一段登るたびに、浩紀は無意識に背筋を伸ばし、呼吸を整える。
それは、彼女の理想であり続けたいと願う「愛」ゆえの自律だった。
一年の教室に着くと、薫は窓際の席で一人、頬杖をついて待っていた。
クラスメイトたちは既に帰り、夕日が差し込む教室内は、どこか現実離れした静寂に包まれている。
「遅かったですね、浩紀さん。……お姉ちゃんに、引き止められてたんですか?」
薫は振り向かず、窓の外を眺めたまま言った。
「いや、アンは快く送り出してくれたよ。……早速始めようか」
浩紀が薫に近づくと、薫はゆっくりと立ち上がり、浩紀の顔をじっと覗き込んだ。
その瞳は、杏奈のような眩しさではなく、冷たく澄んだ水底のように静かだった。
「お姉ちゃんは、本当に『いい人』だよね。浩紀さんを信じて、疑わなくて。……でも、浩紀さん。今の自分の顔、鏡で見たことありますか?」
「え……?」
「すごく……疲れた顔をしてますよ。お姉ちゃんの『絶対的な信頼』に応えるために、全身の筋肉を強張らせて。……今、息をするのも苦しいんじゃない?」
薫の一言に浩紀は初めて自分の状態を認識した。
「そんなこと……。アンと一緒にいるのは、俺の幸せだから」
「幸せでしょうけど。でも、幸せと『楽』は違うよ。……お姉ちゃんは太陽なんです。近くにいれば温かいけれど、ずっと照らされ続ければ、いつか干からびて死んじゃうかも」
薫は一歩、浩紀に歩み寄った。
彼女からは、杏奈の瑞々しい花の香りとは違う、落ち着いた、どこか眠気を誘うような甘いアロマの香りがした。
「浩紀さん。お姉ちゃんの前では、これからもずっと『光』でいてあげてください。それが浩紀さんの望みなら。……でも、ここで私といる時だけは、無理に笑わなくていい。……完璧でない、素のあなたを見せても、私は幻滅なんてしませんから」
薫の細い指先が、浩紀の強張った肩にそっと触れた。
「……薫ちゃん」
「今の浩紀さんに必要なのは、眩しい『太陽』じゃなくて、光を遮り安らげる『影』なんじゃないですか?」
その言葉を聞いた瞬間、浩紀は自分でも気づいていなかった「重荷」の存在をはっきりと自覚し、それをそっと救い上げられたような気がした。
杏奈の隣にいる時の、誇らしくも高揚した気分とは違う、深海に沈んでいくような安らぎに、肩の力が抜けていくのを感じる。
「……勉強、始めようか」
浩紀の声は、先ほどよりも少しだけ低く、力が抜けていた。
薫は満足そうに微笑み、浩紀の隣に椅子を引いた。
「ええ、お兄ちゃん。……ちゃんと、教えてね」
二人きりの教室。 教室で「信じて待っている」杏奈の知らないところで、浩紀の心の天秤が、ゆっくりと、けれど確実に傾き始めていた。
第8章第2話をお読みいただきありがとうございます。
ここでは少しずつ薫が本性を出して浩紀の心に侵食していこうとするさまを書いています。
杏奈の前で「完璧なヒロ」でいようとする自分と、肩の力を抜いた「浩紀お兄ちゃん」でいいという薫。
これからこの三人の関係がどうなっていくのかこの後のお話をお待ちください。
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明日も19時15分ごろに1話投稿予定です。




