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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
怪物少女の夢想偽譚 第一章 叫喚地獄篇

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叫喚地獄 11

 血文字の『四』が刻まれた鉄の扉を乱暴に押し開き、その向こう側の闇へと長身を滑り込ませた瞬間、ドロテアの足裏を支えていた叫喚地獄の硬い大地は、唐突にその感触を失った。


 一歩を踏み出す直前まで自らの網膜に焼き付いていたのは、せいぜい人間が数人入れば呼吸すら窮するような、無機質で手狭なコンクリートの塊に過ぎなかったはずである。しかし背後で重厚な扉が自重で閉じる金属音が響いたとき、彼女の金色の双眸は、丸いサングラスの奥で信じ難い空間の歪みを捉えていた。


 そこには、天井という概念すら存在しないかのように錯覚させる、薄暗く広大なセピア色の空間が果てしなく地平を広げていた。物理的な体積の辻褄を根底から嘲笑うかのような異常性。外界の空気をそのまま切り取って強引に閉じ込めたかのようなその場所は、見通しの極めて悪い、寂れた遊園地の残骸であった。


 色褪せた塗料が皮膚のように剥がれ落ちた巨大な観覧車が、澱んだ空に向かって錆びた鉄の腕を力なく伸ばしている。ひび割れた顔面を持つ回転木馬の死骸や、レールが歪に折れ曲がったジェットコースターの軌道が乱雑に配置され、歩を進めるための視界の自由を容赦なく奪い去っていた。


 何処からともなく鼻腔を突くのは、古びた鉄錆の匂いと、幾星霜を経て蓄積した乾いた埃の匂い。つい先ほどまで彼女の肺を焼いていた、亡者たちの酸化した血液や腐敗した内臓の臭気は、この隔絶された境界に足を踏み入れた途端、綺麗さっぱりと掻き消えている。代わりに鼓膜を支配し始めたのは、不可視の音源から絶え間なく垂れ流される、原型を留めないほどに歪んだ旋律であった。

 劣化した磁気テープを無理やり再生しているかのような、音階の破綻した不協和音。壊れたラジオから漏れ出るそのバックグラウンドミュージックは、廃園の沈黙をより一層不気味に際立たせ、神経の奥底に薄ら寒い不快感をねっとりと塗りつけていく。


 生命の熱が完全に欠落したその迷宮において、人間の姿はどこにも見当たらない。代わりに空間の余白を埋め尽くしていたのは、あまりにも場違いで異様な、徘徊する影の群れ。

 人間サイズに肥大化した、無害なマスコット型の人造怪異たち。彼らは鮮やかな色彩のゴム風船を細い手で握り締めながら、生気のない足取りであてもなく闊歩している。縫い目が綻び、中身の綿が飛び出した歪な頭部を左右に揺らすその動作には、一切の知性も意思も感じられない。さらに上空を見上げれば、重力を喪失したかのように空中を漂う別のマスコット型怪異たちが、まるで舞台の吊り物のように意味もなく漂流していた。


「へェ……なんだかテーマパークに来たみたいだぜい。テンション上がるなァ」


 ジャケットの裾を翻しながら、ドロテアは張り詰めた空気をわざと弛緩させるような呑気な言葉を、その不協和音の海へと放つ。

 顔面に深く刻まれた薔薇と茨の刺青が、彼女の好戦的な笑みに連動して生き物のように蠢いた。耳や鼻、そして唇に穿たれた無数の金属装飾が、廃園のくすんだ光を受けて鈍い反射を返す。首に下げたロザリオを太い指先で軽く弄びながら、彼女は筋肉質な両腕を広げ、視線の通らない遊具の死骸を見渡した。

 決して警戒を解いたわけではない。むしろ死角の多すぎるこの視界の悪さに対し、全身の筋肉は弾金のように収縮し、いつでも跳躍できるだけの熱を孕んでいる。


『你好~♡ 凰苗ファンミャオちゃんのお部屋にようこそ~♡』


 その緊張の空気は次の瞬間、空間全体を震わせる駆動音によって容易く引き裂かれた。

 遊園地の随所に設置された錆び付いた拡声器から、放送案内を模した幼女の甲高い声が全方位から反響する。


『あはっ♡ 見るからに弱そうなやつ来た~♡ 此処はお前みたいなよわよわ怪異が来るところじゃないよぉ♡ どうしてこんなところまで来ちゃったのかなぁ?♡』


 無邪気さを装いながらも、その奥底に粘着質な悪意をたっぷりと含んだ音波。どこに発信源があるのかも特定させないその声は、鼓膜を撫でるように甘く、同時に神経を逆撫でするような鋭利な棘を隠し持っていた。


『あ、もしかして迷子ぉ?♡ ママはどこかなぁ?♡ 迷子のお知らせ、放送してあげよっかぁ?♡』


「あァ……? なんだァ、手前テメエ――」


 顔面の刺青を怒りに歪ませながら、ドロテアは思わず咆哮を上げて首を巡らせる。強靭な首の筋肉を収縮させ、金色の瞳がサングラスの奥で周囲の影を射抜こうとした、正にその刹那であった。

 背中の皮膚を、冷たく薄い金属の塊が滑り込むような、鋭利な感覚が貫く。痛覚が脳髄に到達するよりも早く、革ジャケットと修道服の厚い布地を突き破り、熱を持った自身の血液が背中を濡らしていく感触が急速に広がる。


「はい、隙だらけ♡ やっぱ雑魚じゃん♡ ざぁこ♡」


 刺された。そう理解するよりも速く、すぐ耳元で甘ったるい吐息を伴うような嘲笑が囁かれる。ドロテアは即座に脚部の筋肉を爆発させ、黒い革ジャケットの裾を翻して猛然と真後ろへ振り返る。視界を暴力的な速度で回転させた彼女の目に映ったのは、色褪せたマスコットが鈍重な足取りで遠ざかっていく背中だけであった。そこには、彼女の肉を深く裂いたはずの刃物を持つ者の影も形も存在しない。


「どこ視てんのぉ?♡ ほら、ウスノロ♡ こっちだよ♡」


「チッ……痛ッてェなァ……! オラァッ!!」


 嘲るような声は、再び彼女の完全に死角となる真後ろから投げかけられる。ドロテアは、獣のような雄叫びとともに豪腕を虚空へ向けて振り抜いた。空気を叩き潰すような凄まじい衝撃波が発生し、近くを漂っていた風船が耐えきれずに破裂する。


「はい、また外れ♡ おっそーい♡」


 しかしその拳が捉えたのは、やはり虚無の空間。振り抜いた直後の無防備な背中には、再びあの冷たい刃の感触が残酷に食い込んだ。


「ぐッ……なんだァ……!?」


 ドロテアの漆黒の肌に冷たい汗の粒が滲み出る。どれほど筋肉の反射速度を極限まで高め、風を切り裂く勢いで身を翻そうとも、視界の端にすら敵の輪郭を捉えることができない。


『きゃはっ♡ ねぇねぇ、今どんな気持ち?♡ 一方的に痛めつけられて♡ 手も足も出ない♡ くそざこ怪異♡ かわいそう♡ 惨めだねぇ♡』


 空間全体に配置された拡声器が、またも一斉に幼女の耳障りな笑い声を吐き出し始める。幾重にも重なり合うその狂気的な反響音は、どこに実体があるのかという空間認識の機能を容赦なく破壊していく。自らの血液の匂いが鼻腔を突き、冷静な思考が少しずつ削り取られていくのを感じた。


「このクソガキ……! 出てきやがれッ!」


「はーい♡ 言われなくても今お前の後ろにいまーす♡」


 ドロテアが堪らず声を荒げたその直後、やはりその幼い声はドロテアの背後から突然聞こえてくる。そして次の瞬間、ドロテアの背中を刺し穿つ激痛が容赦なく襲い掛かる。咄嗟に振り返るが、そこに敵の姿は既に無い。この繰り返し。


 敵の姿を視界に収めることさえできれば、異能の発動すら中断させ肉体の自由を奪い尽くす『邪視』の異能。しかし影すら見せない相手を前にして、ドロテアの異能はその真価を完全に封殺されていた。瞳に呪いを込めて対象を射抜くという手順が、視界に誰も存在しないという物理的な壁に阻まれ、ただ虚しく眼球の奥を熱く焼くのみである。見えない敵に対して、彼女の持つ強大な暴力は行き場を失い、ただ不格好に空を切るばかり。


 対して敵の攻撃、その一撃ごとの刃の進入は決して深くはない。骨を断ち切るような致命傷をあえて避け、皮膚と浅い筋肉の層だけを薄く削ぎ落とすような、悪趣味な遊戯の痕跡。しかしジャケットを貫き修道服を赤黒く染め上げる傷口は確実にその数を増し、滲み出す血液は彼女の体力を静かに、確実に奪い去っていく。


「チッ……面倒クセェなァ……!」


 最初は単なる不快感でしかなかった背中の傷が、度重なる奇襲によって神経を直接焼かれるような激しい痛覚へと変貌を遂げる。呼吸が荒くなり、吸い込む埃っぽい空気が肺の奥で焼け焦げるような感覚を齎す。


「(考えろ……こいつァ……妙だぜ。だってよォ……()()()()()()()()()()()()……)」


 肺の奥まで侵食するような古びた鉄の匂いと、自身の背中を伝い落ちる温かい血液の生臭さ、その逆境がドロテアの思考を極限まで研ぎ澄まさせていた。

 幾度となく虚空を切り裂いた太い腕を下ろし、彼女は荒ぶる呼吸を意識的に制御する。修道服の下に隠された屈強な筋肉群が、微細な痙攣を繰り返して痛覚の信号を脳髄へと送り続けている。しかしその顔面に刻まれた薔薇と茨の刺青は苦悶に歪むどころか、獲物を狙う猛禽類のような冷徹な光を帯びていた。


「(ああそうだ……やっぱりおかしいぜ。この己等が『視線』を感じないってのが、まずおかしな話なんだ。攻撃の瞬間まで『視線』を感じない……なのに突然背後に『視線』を感じる瞬間がある。そしてその時にはもう既に攻撃は終わっている……)」


 ドロテアは金色の双眸をサングラスの奥で細め、廃園の澱んだ空気を舐め回すように観察する。敵の姿が見えないという物理的な不可視性よりも彼女の闘争本能を粟立たせていたのは、気配の完全な欠落であった。ドロテアが持つ機能は、自身を標的に定める殺意や観察の眼差しを皮膚感覚で捉えることができる。しかし、この遊園地を支配する凰苗を名乗る怪異からは、その前提となる視線すら一切感じ取れない。


 思考の海を深く潜行する彼女の脳裏に、これまでの被弾の記憶が秒刻みで再生されていく。刃が肉を裂くほんの一瞬前、背中に張り付くような冷たい悪意の顕現。それは空間を移動して接近してきた気配ではなく、虚無の中から突然発生したかのような不自然な断層であった。


「(視線を感じないってことは、攻撃するその瞬間まで己等のことを視てすらいないってことだ。視てもいないのに、どうやって己等の位置を特定している……? しかも必ず背後に現れやがる……)」


 額に滲んだ冷や汗が、金属のピアスを伝って顎の先から床へと滴り落ちる。視覚という情報源を介さず、対象の背後というピンポイントの座標へ到達する術。その矛盾を紐解くためのピースを探し求めた彼女の聴覚が、空間の全方位から反響する壊れた不協和音を拾い上げる。


「(……待てよ。確かに視えてはいねぇが……聞こえてはいる。さっきから己等達は会話をしているじゃあねェか。そうか……つまり……敵は音で己等の位置を特定してやがるんだなァ……! 会話でこっちの反応リアクション……声を引き出す。恐らくそれが発動条件……自動で相手の背後に瞬間移動する異能……! そういうことかァ……!)」


 散らばっていた情報の破片が、一つの明確な輪郭を伴って結合する。姿無き幼女の執拗な挑発は、単なる悪趣味な遊戯ではなく、ドロテアの声を誘発するための引き金だったのだ。そう理解した瞬間、ドロテアは自らの唇を引き絞るようにきつく閉じる。


「(へっ……なんでェ。からくりが分かれば大したこたねェなァ。ようは反応しなけりゃあいいんだろォ。余裕だぜい)」


『やーい♡ お前の父ちゃん、でくのぼう♡』


「あ゛ァ!? てめえ今開闢王(オヤジ)のこと馬鹿にしたかァ!?」


「ちょろすぎ♡」


「しまったーッ!!」


 とは言え、声とは反射的に口を衝いて出てしまうもの。彼女の性分においては尚更。解っていてもつい反応を示してしまうのがドロテアという人間であった。


 しかし何度目かの失敗うっかりの末、ようやく冷静さを取り戻し始めたドロテア。一度気合いを入れ直すように己の両頬を強く叩いてみせてから、以降その口が迂闊に開くことは無くなっていった。


「(落ち着けェ……冷静になれ……! 探すんだ……この園内のどこかに本体が隠れているはず……! 探してブン殴ってそれで終いだァ……!)」


 厚い胸板を静かに上下させながら、彼女は金色の瞳を動かし、視界の悪い遊具の残骸や、徘徊する人造怪異たちの群れを無言で睨み据える。本体はこの空間のどこかに身を潜め、彼女の反応を待ちわびているはず。もうその手は乗らないぞと言わんばかり、彼女は黙ったまま園内を練り歩く。


「ねぇ、急にだんまりになっちゃってどうしたのぉ?♡ もっと凰苗ちゃんとおしゃべりしようよぉ♡」


 虚空の至る所から、幼女の甘ったるい声が再び空間を震わせる。悪意の滲むその響きは鼓膜を直接撫で回すような不快感を伴っていたが、ドロテアは鉄の意志で沈黙を貫く。彼女は慎重な足取りでコンクリートの地面を踏み締め、空間の余白を埋め尽くす異形たちの隙間を縫うようにして、見えざる本体の探索を続けた。


「(……くすっ♡ やっと分かってきたみたいだね♡ そうだよ、凰苗は『メリーさん』の怪異♡ その異能は……凰苗の『声』に反応した標的の背後に瞬間移動する能力……♡)」


 廃園の死角に身を潜めた凰苗の深層で、ドロテアの沈黙を嘲笑う粘着質な愉悦が渦を巻く。

 メリーさん。都市伝説として語り継がれる恐怖の象徴、通話越しに背後へと迫る怪異の性質。その概念を自己の異能として確立させた彼女にとって、対象が口を閉ざす程度の抵抗は、遊戯のスパイスにしかならない。


「(でも、わかったところでどうしようもないよ♡ だって此処は……凰苗のホームなんだからね……♡)」


 凰苗の悪辣な意志が、空間全体に張り巡らされた見えざる糸を弾く。その瞬間、ドロテアの視界の端を漂っていた無害なマスコット型の人造怪異が、突如として首を不自然な角度にねじ曲げた。


『きゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははは』


 縫い目が綻びた巨大な頭部から、金属が軋むような耳障りな駆動音と共に、極限まで増幅された甲高い奇声が爆発的に放たれる。


「うおっ……!?」


 その奇声は、あらかじめ録音されていた凰苗自身の音声であった。予期せぬ至近距離からの音響兵器に、ドロテアの屈強な肉体が反射的な驚愕に跳ね上がる。強靭な意志で封じ込めていたはずの声帯が、防衛本能の暴走によって短い叫びを外気へと漏らしてしまった。


 その声の振動が空気を伝播した刹那、背後の空間が再び歪む。


「やーい、引っかかった♡ ばぁか♡」


 一切の予兆を持たずに出現した極寒の気配が、ドロテアの黒い革ジャケットを容赦なく貫通した。分厚い僧帽筋と広背筋の隙間を縫うように、鋭利な刃物が深い位置まで食い込み、熱い血液が弾け飛んで周囲の埃を赤く染め上げる。


「クソッ……!」


 痛覚の奔流に耐え兼ね、ドロテアは顔面の刺青を歪ませて苦悶の声を漏らす。太い腕を背後に伸ばして傷口を押さえるが、指の隙間から溢れ出す鮮血の勢いは止まらない。大量の血液を喪失したことで体温が急激に低下し、視界の縁が僅かに明滅を始めていた。


「あはっ……ていうか頑丈すぎ♡ なにこいつ……きっしょ♡」


 引き抜かれる刃の冷感と共に、背後から吐き捨てられるような嫌悪の声が突き刺さる。常人であればとうに絶命しているか、痛みに狂って崩れ落ちているほどの執拗な斬撃の嵐。しかしドロテアは、筋肉の密度を極限まで高めることで内臓や骨格への致命傷を辛うじて防ぎ続けていた。


「(敵は……異能を発動していない間は必ず、どこかに隠れているはずだ。それなのに……全然見つからねェ……! 然程広くもねェこの空間のどこに……そんな隠れられる場所が……!)」


 荒い呼吸を繰り返しながら、ドロテアは霞みゆく思考を必死に繋ぎ合わせる。園内を隙間無く歩き回り、物陰を手当たり次第に覗き込み、感覚を極限まで広げているにも関わらず、凰苗の潜伏地点の気配すら掴めない。


「(いや……ちょっと待てッ!? まさか……!)」


 ただ無目的に徘徊し、空を漂うだけの奇妙な人造怪異マスコットたち。彼らは何の意味も持たず、ただ空間を埋め尽くしているだけだと認識していたが、不意に一つの仮説が彼女の脳裏に電撃のように閃いた。


「(()()()()()()()()()……!? この人造怪異マスコットどもの背後を転々として……逃げ続けているのか……ッ!?)」


 先程のジャンプスケアの罠。あの人造怪異が凰苗の声を放ったのだとしたら、それは凰苗自身が声を出したという擬似的な状況を作り出す。そしてその奇声に対しドロテアが驚きの声を上げたことで異能の発動条件は成立した。

 つまり人造怪異たちには『声』を使う術を持ち合わせているということ。もしも空間に配置されたこれら無数の怪異たちが、例えば無線機器などを利用して凰苗と何らかの『会話』を常時しているとしたら。

 人造怪異たちが与えられた『声』を使って凰苗にリアクションを返し続けているのだとすれば。凰苗はドロテアの反応を待たずとも、この人造怪異たちの背後を自由に跳躍し、永遠に逃げ隠れし続けることが可能となる。


「(だったらよォ……この人造怪異マスコットどもを手当たり次第にブッ壊せば、もう逃げも隠れも出来ねェってことだよなァ……!!)」


 推論が確信に変わった瞬間、大地を蹴り砕くほどの強烈な踏み込みが、彼女の漆黒の巨躯を砲弾の軌道で前方へ打ち出す。最も近くをあてもなく徘徊していたマスコット型の人造怪異へと跳躍し、その虚ろな巨大な頭部を目掛けて、鋼の質量を秘めた豪腕を無慈悲に振り下ろした。


『浅はか~♡』


 その時。空間のどこからともなく響いたのは、獲物が罠に掛かったことを嘲笑うかのような、甘ったるくも底知れぬ悪意を孕んだ声。

 そもそもの話。ドロテアがその程度の推論に至る可能性など、凰苗が計算に組み込んでいないはずがなかった。むしろドロテアのほうこそ警戒すべきだったのだ。この幼女の姿をした怪異が、なぜ獄卒四天王などと呼ばれているのか。その所以が、一万年以上を地獄で過ごした怪物であるという事実を。


「あ゛――――?」


 振り抜かれたドロテアの剛拳が、人造怪異マスコットの安っぽい布地の表面に接触した、まさにその刹那。人造怪異の内部に精巧に仕込まれていた致死量の爆薬が、一瞬にして臨界点を突破する。


 膨大な熱量と破壊的な衝撃波が、鼓膜を破る破裂音と共に発生し、ドロテアの巨躯を至近距離から一切の慈悲なく呑み込んだ。灼熱の爆炎が廃園に淀んでいた空気を一瞬にして焼き尽くし、発生した暴風が彼女の重い身体を枯れ葉の体裁で吹き飛ばす。


 空中で体勢を立て直す猶予すら与えられず、背後から錆び付いた鉄のレールに激突したドロテアの肺腑から、蓄えられていた酸素が呻き声と共に全て吐き出される。骨の軋む鈍い音が鳴り響き、彼女の身体は抵抗する力をすっかり失って、冷たいコンクリートの地面へと無残に崩れ落ちた。


「お~い♡ よわよわ怪異さ~ん♡ 死んじゃったぁ~?♡」


 硝煙と焦げた肉の不快な匂いが周囲の空間に充満していく中。拡声器を通さない生の声が、遠く離れた絶対的な安全圏から、小鳥の囀りに似た嘲笑となって降り注ぐ。


 ドロテアの彫像を思わせる引き締まった黒い肌は、至近距離で浴びた爆発の熱によって爛れを見せている。かつての威容を誇っていた修道服の残骸からは、絶え間なくどろりとした赤い血液が流れ出し、彼女の足元のコンクリートの窪みに黒々とした生々しい水溜まりを形成していく。

 視えざる敵は、最早微塵も動かなくなったドロテアの巨体をどこかの高みから見下ろし、自らの勝利を確信していたに違いない。


「……………………ッ!!」


 しかし。地面に這いつくばったままのドロテアの金色の瞳は、未だ生命の灯火を絶やしてなどいなかった。

 彼女の鋭い視線は、自身の肉体から流出した血によって形成された、生々しい水鏡たる血溜まりの表面にぴたりと固定されている。そこに反射して映り込む、血に塗れた自身の唇の端が、密かに不敵な弧を描いた。


 直後、ドロテアは死に体であったはずの身体を鞭打ち、突如としてすくっと起き上がる。鉛を背負ったかのような重い足取りで近くの壁のほうへと近付くと――彼女は突如、自身の頭部を硬質なコンクリートの壁面に向けて何度も乱暴に打ち付け始めたのだ。


 鈍い衝突音が連続して響き渡り、壁の表面には彼女の額から流れる新しい血がべったりと付着していく。自らを痛めつけるその異様な光景は狂気の沙汰以外の何物でもない。大量の血を流しすぎた代償として、その瞬間ドロテアの意識は限界を迎え、深い闇の中へと落ちていく。


 ◆


「なんだァ……昔の夢ェ、見てたのかァ……?」


 頭蓋骨の内側を直接重く硬い鈍器で殴打されるような強烈な痛覚が、ドロテアの意識を暗闇の底から強引に引き摺り上げた。


 鼻腔を容赦なく犯すのは、生暖かく粘り気のある、鉄が激しく錆びついたような強烈な血の匂い。己の額に穿たれた裂傷から流出したどろりとした赤い液体が、顔の起伏を伝い、視界の右半分を濃密な朱色に染め上げている。重力に従ってまつ毛の先端へと集約された血の雫は、やがて表面張力の限界を迎え、冷たい石の床へと音もなく滴り落ちていく。


 自身の呼吸が驚くほど浅く、そして乱れていることに気づく。肺に空気を送り込むだけの単純な動作すら、今の彼女には重労働であった。


 全身の筋肉が鉛の塊に変異してしまったかのように重く、指先一つ動かすことすらままならない。自身の肉体に対する制御権を完全に喪失している。壁にもたれ掛かるようにして血だらけの額を擦り付け、自身の生暖かい血液が作り出した赤い池に顔を沈めているという状況を、ドロテアの混濁した脳が少しずつ理解し始めていた。


「あはっ♡ なにしてんのぉ、お前♡ ほんと、ばっかみたい♡」


 ドロテアの喉の奥から絞り出された掠れた声が空気を震わせた直後、凰苗はその小さな身体を空間から掻き消し、瞬時にドロテアの背後の死角へと瞬間移動を果たす。


 立ったまま気を失っていたドロテアの背後から不意に鼓膜を打ったのは、この血生臭い惨状にはおよそ似つかわしくない、鈴を転がすような無邪気で可愛らしい声であった。


 しかしその可憐な響きの裏側には、他者の苦痛を極上の甘露として味わい尽くすような、底知れぬ悪意と冷酷さが孕んでいる。天使の羽音を模した致死量の猛毒。その声の波紋が空気を伝わるだけで、ドロテアの背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走る。


「ざぁこ♡」


 ドロテアの背後に立っていたのは、見知らぬ幼女の姿をした怪異であった。彼女の小さな身体を包むのは、この地獄の掃き溜めには不釣り合いなほど絢爛な意匠が施された衣服。愛らしいツインテールを揺らす彼女は、まるで路傍に転がる価値のない石ころを踏みつけたかのような尊大な態度で、冷ややかな視線をドロテアへと突き刺している。

 その幼く愛らしい顔立ちに浮かぶのは、圧倒的な強者だけが持つ残酷な嘲笑であった。弱者が這いつくばる姿を眺めることだけが、彼女にとって唯一の娯楽であるかのように。


「そんなに死にたいなら、お望み通り殺してやるよ♡」


 砂糖菓子に似た甘い囁きと共に、凰苗の小さな手の中に握られた鋭利な包丁が、ドロテアの無防備な背面目掛けて天高く掲げられる。勝利を確信した死神の一撃が、ドロテアの命を刈り取らんと押し迫る。


「……………………あれ?♡」


 その刹那であった。

 凰苗のそれまで淀みなかった動作が、突如として凍りついたまま停止する。


「よォ~……可愛い面ァ、してんじゃあねェか。やあっと拝めたぜい……」


 鉛の重さに抗いながら、ドロテアはゆっくりと首を巡らせて背後の凰苗のほうへと振り返る。その悠然たる動作の最中にも、凰苗は自身の誇るべき異能を発動させようと試みたはずであった。


「な……なんで……っ……?♡」


 しかし、彼女がどれほど意識を集中させようとも、周囲の空間には何の変動も生じない。ついに正面から互いの姿を視界に収め、向かい合う形となった両者。優位に立っていたはずの自分が、身動き一つとれないという信じられない現実を見せつけられているかのように、凰苗の愛らしい顔に焦燥と困惑の表情が浮かび上がっていた。


「己等の異能……『邪視』の発動条件はなァ~……己等が視たと認識するか、相手が視られたと認識するか……そのどちらか一方でも満たせばいい。己等の方から直接姿が視えなくとも、相手に『視られた』と認識させれば……己等の『邪視』は発動する」


 視界に収めた相手の動きを一方的に封じ、更には視線を交わすことでその異能すら封じ込める。それこそがドロテアの異能『邪視』の発動条件。しかし凰苗は常にドロテアの背後を取り続ける。正面から視ることすら叶わず、ドロテアはこの発動条件を満たせないでいた。


「だから作ったんだよ……この()をなァ」


 壁面に自身の顔面を何度も打ち付け、そこから流れる生暖かい血を塗りたくるようにして意図的に付着させ、形成した血の鏡。彼女は自らの肉体を壁に打ち付けてまで、自身の背後を映し出す水鏡を錬成したのである。鏡面に等しく滑らかなその血の反射を利用して、背後に迫る凰苗の姿をドロテアは捉えていたのだ。


「鏡越しによォ……視たよなァ。確かに眼が合ったよなァ~……己等の『邪視』とよォ~……」


 鏡面越しに互いの視線が重なった瞬間、凰苗の精神は『邪視』の放つ狂気によって捕食された。痛覚を無視して脳髄を直接貫く激痛が凰苗の全身を駆け巡り、振り下ろしかけた包丁を取り落とす。身動きを封じられた幼女は、糸の切れた操り人形の体裁で無様にコンクリートの床へと倒れ込んだ。


「お前……頭おかしいんじゃねぇの……っ♡」


「応ォ……よく言われるぜェ……」


 血だらけの顔面をゆっくりと下方へ向け、這いつくばる敗者を見下ろすドロテアの表情は、まさに地獄の業火の底から這い出た鬼神そのものであった。しなやかな黒い肌の表面に刻み込まれた、薔薇と茨の刺青の隙間にまで鮮血がこびりつき、彼女の持つ野性的な凄みを一層引き立てている。その顔の中央で爛々と輝く金色の双眸は、逃げ場を失った矮小な獲物を射竦める鋭さを放ち、冷酷な光を宿していた。


「頭おかしいからよォ……加減がよく解らねェんだよなァ。いつもよォ……やりすぎちまう……」


 恐怖と狂気の顕現を眼前に突きつけられ、凰苗の尊大で嗜虐的な態度はすっかり影を潜めていった。この狂気を前に自身の無力さを悟り、凰苗の小さな身体は生まれたての小動物のように激しく震え上がる。他者を蹂躙することしか知らなかった怪異が、今度は自身が蹂躙される側へと引きずり下ろされた絶望感。冷ややかな空気が二人の間を満たし、ドロテアの放つ重圧が凰苗の精神を最後の一片まで押し潰していく。


「え、えっとぉ…………ご、ごめんね…………?♡」


 顔面を引き攣らせながら無理矢理に愛想笑いを浮かべ、上目遣いで必死に命乞いの媚びを売る幼女。その浅ましい命への執着に対し、ドロテアの心には一片の同情も湧き上がることはない。ただひたすらに冷淡な眼差しを下へと向け、勝者としての揺るぎない事実だけを簡潔に突きつける。


「いいからさっさと鍵出せ」


 冷徹な声の響きに急かされるように、凰苗は震える手を慌てて懐へとねじ込み、精緻な装飾が施された重厚な鍵を取り出して、縋るようにドロテアの眼前へと差し出した。

 ドロテアの太い指がその冷たい金属の表面に触れ、鍵を確りと掌の中に受け取った、まさにその瞬間。空間のどこからともなく、硬質な金属の部品が重々しく噛み合い、固く閉ざされていた扉の封印が解かれる音が廃園の空気に反響したのだった。


 ◆


 斯くしてドロテアは四番目の部屋の主、獄卒四天王・凰苗に勝利した。

 残る部屋の主は、あと三人。

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