叫喚地獄 10
降り頻る冷雨が、体温を容赦なく奪い去っていく。アスファルトに這いつくばる視界の端で、赤黒い水溜まりが際限なく広がっていた。
身寄りもなく、路地裏の泥水を啜るように生きていた孤児の自分を拾い上げてくれたのは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった極道の親分。生きる術を持たなかった泥舟朧にとって、その男は法律であり、神であり、唯一の家族であった。
だからこそ、応えなければならなかった。男の瞳に宿る期待の光を曇らせないために。その視線が、冷たい失望へと変貌する瞬間を何よりも恐れた。泥舟朧は自らの命を削り、理不尽な暴力の渦中へと身を投じ続けた。鉄の錆びた匂いと硝煙の立ち込める裏社会で、どれほどの無茶を強いられようとも、ただ親父の肯定だけを求めて走り続けた。
その忠誠の対価として与えられた末路は、見下すような軽蔑の眼差し。
都合の良い手駒として利用され尽くし、最後には全ての罪を被せられて切り捨てられる。鉛の弾丸が内臓を食い破る熱量よりも、親父の瞳に浮かんだ無関心な冷気が、朧の心を深く抉り取った。
無惨に路地裏に打ち捨てられ、意識が暗い泥底へと沈んでいく最中。朧の脳裏に焼き付いたのは、自分を値踏みし、利用し、そして見限った数多の邪悪な視線。何よりも期待に応えられなかったという失意の念が、絶命するその瞬間まで彼の意識を苛んでいた。
◆
次に目蓋を持ち上げた時、泥舟朧を囲んでいたのは、果てしなく続く荒涼とした黒い大地と、不気味に赤く染まり上がった天空。肺に吸い込まれる大気は灰の味を帯びており、肌を撫でる風は乾燥し切っている。
身体を起こした朧は、自らの肉体に起きた不可逆の変化に気付き、硬直した。傷だらけだった男の肉体は消え失せ、代わりに周囲の光を全て吸い込むような漆黒の肌を持つ、筋肉質で高身長の女の姿へと変貌を遂げていた。腕を動かせば、見知らぬ筋肉の束が力強く脈動を打つ。
それが地獄という異界の理であり、怪異として新たな生を受けた証左であることを理解するまでに、そう多くの時間は必要としなかった。
しかし、肉体がどれほど強靭なものへと作り替えられようとも。魂に刻み込まれた恐怖は消え去らない。地獄に蠢く有象無象の亡者たちが交わす視線。それは生前と同じように、他者を値踏みし、利用価値を計り、隙あらば貪り喰らおうとする欲望に満ちた眼差し。その視線が自らの肌に突き刺さるたび、朧の背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。
失望されたくない。利用されたくない。もう二度と、誰の目にも触れたくない。
泥舟朧は巨大な漆黒の身体を丸め、瓦礫の陰から陰へと隠れ潜むように生き延びていた。他者の視線から逃れることだけが、この終わらない地獄における唯一の目的となっていた。誰とも関わらず、ただ息を潜めて永遠の時間を消費していく。その孤独な逃避行は、魂の摩耗を静かに促すだけの作業であった。
そんな暗闇の中を這いずるような日々に、唐突な終止符が打たれたのは、赤い空から黒い雨が降り注ぐ日のこと。
等活地獄の廃棄場。あらゆる価値が剥奪され、ただ腐朽していくことだけが許されたこの寂寥の地において、動くものといえば重力に従って落下する黒い雨滴だけであった。雨粒が硬質な廃材の表面を間断なく打ち据える冷たい不協和音が、周囲に立ち込める静寂をより一層際立たせている。
朧の分厚く硬質な皮膚の表面を伝い落ちる黒い雫は、過去に積み重ねてきた罪過を洗い流すどころか、魂の底のほうに沈殿している絶望の念をさらに濃く塗り込めていく重苦しい感覚をもたらす。誰の目にも触れることのないこの陰惨な巨大な墓場こそが、今の自分にとって唯一許された安息の領域であった。
その停滞し切った空気に微かな異物が混入してくる気配、何者かの視線を、朧の鋭敏な機能が感じ取る。
規則的な足音が、水たまりの広がる濡れた大地を静かに踏みしめて近づいてくる。その一歩が地面に刻まれるたびに、周囲の空間が目に見えない凄まじい密度を持って膨張を開始し、朧の肺の奥底から無理やり呼吸を押し出していく。それは単に物理的な質量を持った何者かが接近してくるという次元の出来事ではない。
朧の魂の奥底、本能の最も深い部分でけたたましい警鐘が鳴り響き、決して逆らうことなど許されない絶対的な上位存在の接近を強烈に告げていた。周囲の気温が一瞬にして急激に低下した錯覚に陥るほどの大気の重圧。それに耐えかねて、朧は身を隠す瓦礫の隙間から、恐る恐る視線を外部へと向けた。
薄暗い視界の先、網膜に飛び込んできたのは、荒涼たる世界の中心をたった一人で独占しているかのような堂々たる立ち姿を見せる、黒い魔女の姿。
雨風を受けて濡れた黒衣がはためくたび、周囲に存在するわずかな光の粒すらも、その衣服が形成する深淵の奥底へと吸い込まれていく感覚を覚える。ドロテアに匹敵する大柄な彼女が背負う圧倒的な存在感は、背後にそびえ立つ巨大な廃棄物の山を容易く凌駕していた。たとえペストマスクに顔面を覆われていようと、一目見ただけで理解させられる。
彼女こそが、この地獄において数々の噂に彩られた神秘貪る開闢王、その人であると。
「おや。先客ですか」
薄暗い廃材の山に響き渡ったのは、朧の悲観的な予想を根底から覆す、あまりにも穏やかな声色。他者をひれ伏させるための威圧感も、弱者をいたぶるための嘲りも、一切の毒を含まない澄み切った音色が、冷たい雨の降る廃棄場の空気を震わせる。
「っ……己等に……何か用か……」
長きにわたる逃亡生活の中で魂の奥底まで染み付いてしまった卑屈な反応が、脳の思考回路を介するよりも早く言葉となって口からこぼれ落ちていた。他者の領域を侵してしまった無価値な存在として、己を徹底的に底辺の座に置くことで無用な衝突を回避しようとする悲しい防衛本能である。
漆黒の巨体をさらに小さく丸め、後ずさりを始めようとする朧の怯えた態度を見て、開闢王はそれ以上追及することなく、静かに踵を返す。
「失礼。すぐに出ていきます」
相手を言葉で追い詰めることもなく、ただ自身の宣言通りにこの場から立ち去ろうとするその後ろ姿。それは、常に他者からの悪意と搾取に晒されてきた朧にとって、あまりにも予想外で理解の及ばない行動であった。
「あ、いや……! 別に……そっちが出ていく必要はねェだろ。此処は誰の居場所でもねェ。好きにすりゃいいさ……」
気がつけば、自らの意思とは無関係に制止の言葉を背中へと投げかけていた。自分自身でもその理由を明確に理解できない、突発的な衝動。相手はあの神秘貪る開闢王、これ以上関われば命すら危ういかもしれないという生存本能からの恐怖よりも、彼女がこのまま自分から離れていってしまうことへの名状しがたい喪失感のほうがわずかに勝った結果である。喉から絞り出した声は微かに震え、強がって乱暴に飾った語尾とは裏腹に、その響きには相手に縋りつこうとする弱さが明確に滲み出てしまっていた。
「ありがとうございます。では遠慮なく」
開闢王は再びゆっくりと振り返ると、黒い雨が絶え間なく降りしきる中、足元に広がる泥濘を気に留める様子もなく、無造作に積み上げられた廃棄物の山を静かに散策し始めた。赤茶けた古い金属片を拾い上げては指先の感覚でその質感を確かめ、あるいは視線を暗い空に向けては落ちてくる黒い雨滴の軌跡を静かに観察する。その一挙手一投足は、世界のすべての事象を新鮮な驚きをもって受け入れている、純粋な探求者のそれであった。
「な……なァ。何か、探し物かい……?」
永遠にも等しい沈黙の時間に耐えきれなくなった朧は、喉の奥から絞り出すようなかすれた声で尋ねていた。相手の目的を少しでも知らなければ、この異常に張り詰めた空間の均衡を精神的に保つことができないと感じたからである。不安げに視線を泳がせながら、朧は廃材の傍らに立つ開闢王の横顔を注視した。
「ええ。世界を救いたいのですが、その方法を探しています」
降り注ぐ激しい雨音すらも凌駕して耳に届いたのは、そんな突拍子もない言葉だった。
「……はァ……? そいつは……どういう意味だ……?」
無価値な廃棄物が墓標の代わりに立ち並ぶこの絶望の掃き溜めで、世界を救う方法を探しているなどという戯言。常軌を逸した狂人の妄言か、あるいは底辺を這いずる無力な者への高度な嫌がらせの類か。朧は突然もたらされたスケールの大きすぎる言葉に混乱を極め、思考を停止させたまま立ち尽くすことしかできない。
「言葉通りの意味です。僕は世界を救いたい」
開闢王がゆっくりと歩みを止め、真っ直ぐに朧を見据えた。その視線が交わった瞬間、周囲を流れていた時間が凍りついたかのような錯覚に陥る。黒い雨の軌跡が空中で静止し、鉄を叩く雨音も、吹き抜ける風の音すらも意識の彼方へと遠のいていく。
開闢王の瞳の奥には、相手に何かを期待する熱も、意に沿わない結果に対する冷ややかな失望も存在していなかった。相手の力を己のために利用しようとする打算的な光も、独自の善悪の基準で対象を切り分ける評価の天秤すらも見当たらない。ただ目の前にある世界を、そこに確かに存在するひとつの命を、あるがままの姿として見つめる澄み切った水面。どこまでも透明で、底が見えないほどに深いその眼差しに真正面から射抜かれた瞬間であった。朧の魂の表面に分厚くこびりつき、長きにわたって心をがんじがらめに縛り付けていた恐怖と猜疑心の泥濘が、春の暖かな陽射しを受けて崩れ落ちる雪解けの現象を思わせるほどに、跡形もなく溶け去っていくのを感じた。
どれほどの年月、他者の顔色を怯えながら窺い、利用され、最後には見捨てられる恐怖に苛まれ続けてきただろうか。しかし、目の前に立つこの魔女は違う。
「僕は嘘を吐きません」
飾ることも偽ることもないその短い響きの中には、巧妙な言葉を用いて他者を己の望む方向へと操作しようとする不純な企みが微塵も含まれていない。
「あなたは何を望みますか?」
幾度となく他者の悪意に晒され、裏切りの果てに機能不全へと陥っていた心の奥底の凍土へ、その問いかけは温かい血液となって隅々にまで染み渡っていった。
「……救われたい。赦されたい。居場所が欲しい。家族が欲しい……」
長く暗いトンネルを這い進んだ果てに、ようやく求めていた真実の光を見出した巡礼者のように、朧の口からは長年封じ込めていた切実な渇望が血を吐くように溢れ出る。
「独りは嫌だ……」
その言葉の端には、これ以上誰からも見捨てられたくないという恐怖の残滓が、細かな震動となって張り付いていた。
「そうですか。ならば今日、その全てを叶えましょう」
頭上から降り注ぐその答えは、慈愛に満ちた神の宣告のように、朧の抱える絶望の全てを柔らかく包み込んでいく。
「救いましょう。赦しましょう。与えましょう。成りましょう。その代わり――」
一時的な同情などではなく、互いの存在を根底から縛り付ける強固な契約の提示。そこには微塵の哀れみもなく、対等な個としての明確な意思と覚悟が満ちていた。
「――共に、同じ夢を視ていただけませんか」
雨粒が廃棄された鉄屑を打ち据える冷ややかな打音の向こう側から、水面に広がる波紋のように静かに届いたその嘘偽りのない誠実な音声は、泥舟朧の分厚い皮膚を容易く透過していく。他者に何かを乞うことすら恐れ、冷たい泥水の中で怯えていた魂が、差し出された真実の光に向かって微かな震えを伴いながら手を伸ばそうと試みていた。
この人になら、己の全てを委ねることができる。水鏡のように澄み切ったその瞳の持ち主になら、二度と裏切られて絶望の淵に突き落とされることはない。
それは小賢しい論理を完全に超越した、魂の根源からの確信であった。長きに渡る孤独の苦しみから解放され、ようやく帰るべき場所を見出した深い安堵感が、朧の胸の内に静かに、しかし力強く広がっていく。冷たい泥水に腰まで浸かり、他者からの攻撃を恐れて身を竦ませていた漆黒の巨躯を、泥舟朧は確かな意思を持ってゆっくりと持ち上げた。
長年放置された巨大な金属の関節が限界を超えて擦れ合うような鈍い音が、雨の降りしきる廃棄場の隅々にまで低く反響していく。その重々しい動作の内に、先ほどまで彼女を完全に支配していた迷いや恐れの感情は、もはや一切存在していなかった。
堂々たる体躯を現した朧は、降り注ぐ雨を一身に受けながら、己を静かに見上げる開闢王の真正面へと進み出た。そして、無骨で巨大な膝を濡れた大地に深く折り、その凶悪な容貌を隠すようにして、深く、深く頭を垂れる。
それは単なる服従を示すポーズではない。己の命運を、行き場を失っていた魂の在り処を託すに足る、新たな『親父』を遂に見出した歓喜の瞬間。残りの生涯をかけて仕えるべき絶対の主君に対する、混じり気のない忠誠の誓いであった。
◆
それからの泥舟朧の生き様は、ただひたすらに峻烈を極めた。
開闢王の描く途方もない理想と、その大業を成し遂げるための礎となるべく、己の身を粉にして働き続けた。赤茶けた地獄の荒野を休むことなく駆け巡り、立ち塞がる敵対勢力をその漆黒の剛腕で次々と粉砕していく。骨が砕け肉が裂ける感触にも顔を顰めることなく、自分を泥沼から拾い上げてくれた開闢王の役に立ちたいという純粋な願いだけが、朧の巨躯を突き動かしていた。
その血の滲むような忠誠と武功の数々は、やがて正当な評価を下されることとなる。
重厚な石造りの大聖堂。天井高くに掲げられた色鮮やかなステンドグラスから、地獄の赤い光が神聖な模様を描いて静かに降り注いでいる。外の喧騒を完全に遮断した、冷ややかな空気が満ちる荘厳な空間の中央で、泥舟朧は静かに膝をついていた。
周囲を円形に取り囲むのは、開闢王に絶対の忠誠を誓う選ばれた強者たち。彼らの視線は、かつて朧が恐れたような値踏みの目ではない。同じ王を戴く同胞としての、静かなる歓迎の眼差しである。
「今日から貴女を十二席の幹部、その末席――ドロテアとして名を連ねることを赦しましょう」
王の威厳に満ちた透き通るような声が、大聖堂の冷たい石壁に心地よく反響する。
ドロテア。その与えられた響きを脳内で反芻するたび、腹の底から湧き上がるような熱情が全身の血管を巡っていく。過去のしがらみから完全に解放され、真の居場所を獲得した揺るぎない証。
彼女は鋭利な針を用いて顔面に、薔薇と茨が複雑に絡み合う刺青を深く刻み込んだ。鼻や唇の皮膚を引き裂き無骨な金属の装飾を幾つも貫通させ、流れる血の温かさと鋭い痛みと共に、己の新たなアイデンティティを肉体へと確実に定着させる。黒い修道服の上から着古した革のジャケットを羽織り、丸いフレームのサングラスで金色の双眸を隠した。
「ありがてェ。己等は今日から、ドロテアだ」
喉の奥から血液を絞り出すように発した低く唸るような声。それは、拷问教會という組織が、自分にとって家族と同義の存在となったことを高らかに宣言する産声であった。
◆
「ほら、また動きが雑になってきた。考えなしに大振りすんなー。隙だらけ。そんなんじゃ前線は任せらんないぞー」
大聖堂の裏手に広がる広大な修練場。足を踏み出すたびに乾いた土煙が舞う中、ドロテアは肺の底から荒い息を吐きながら膝をついていた。頭上から容赦なく降り注ぐのは、血生臭い戦場にはおよそ似つかわしくない、軽薄で間延びした声。
「へっ……うるせェなァ。もういっちょ、頼むぜい」
ドロテアは顔面に浮かんだ汗を太い腕で粗雑に拭いながら、鉛のように重い身体を再び立ち上がらせる。
見上げれば、そこには純白の修道服に身を包んだ小柄な女が立っている。その顔面は分厚いシスターベールによって完全に覆い隠されており、感情の揺らぎや表情を窺い知ることはできない。しかしその立ち姿には一切の隙がなく、これほど激しく動き回った後だというのに呼吸の乱れすら見受けられなかった。
彼女こそが、当時の拷问教會第七席にしてドロテアの教育係。シスター・ウルスラを名乗るその女は、今日も太陽の照りつける中でドロテアの戦闘指南をしていた。
ウルスラは幹部の中でも一際異彩を放つ存在ではあった。誰もベールに包まれたその素顔を見た者はいない。加えて掴み所のない飄々としたその言動に、最初こそ戸惑いを覚えたドロテアであったが、幾度となく拳を交えるうち、その真価を骨の髄まで理解させられていた。
「はいはい。かかってきな」
ウルスラが挑発するように軽く手招きをする。その瞬間、ドロテアは大地を大きく蹴り砕いて猛牛のように突進した。漆黒の剛腕から力任せに繰り出される連撃は、空気を強引に切り裂き重い風切り音を発生させる。しかし、ウルスラはその猛攻を紙一重の距離で躱し、流れるような滑らかな動作で足を引っ掛け、ドロテアの堅牢な体勢を容易く崩していく。
ベールに隠された彼女の動きは、精密機械のように正確で、悪魔のように容赦がない。言葉の軽さとは裏腹に、その実力は紛れもなく本物であった。
ウルスラにはドロテアのように恵まれた巨大な体格も無ければ、かと言って身体能力を劇的に向上させる類の異能や機能を持ち合わせているわけでもない。
それなのに、誰もウルスラには指一本触れられない。その身のこなしはどこか機械的で、まるで未来の軌道でも視えているかのように無駄のない完璧な精度を誇っている。相手の筋肉の動きを完全に読み切った上で、必要最小限の動作で水が流れるように急所を突く。
体格の上では圧倒的、さらには他者の自由を奪う『邪視』の異能を持つという怪異の中でも間違いなく上位の戦闘力を誇るドロテアが、非力なウルスラに全く歯が立たなかった。
そんな彼女に容赦のない戦闘指南を受け、実力の差をまざまざと見せつけられながらも、ドロテアの胸中に惨めな屈辱は湧き上がらなかった。むしろ心地よい充実感が、汗に濡れた全身を温かく満たしている。
手加減のない厳しい指導は、自分を一人前の幹部として引き上げようとする彼女なりの愛情表現であると。単なる利用価値だけを見るのではなく、同じ盃を交わした家族として、共に残酷な世界を戦い抜くための技術を叩き込んでくれているのだと。ドロテアはウルスラのことを深く信用していた。
やがて厳しい修練が終わり、大聖堂の冷たい石段に並んで腰を下ろす。見上げる赤い空が少しずつ暗さを増し、二人の影が地面に長く伸びていく。
「お疲れー。うん、やっぱ筋は悪くないね。持ってる異能的にも肉弾戦がメインになるだろうし、これからも鍛錬は続けてくよ」
「応ォ! いつもありがとなァ、ウルスラの姉貴ィ。これからも夜露死苦頼むぜい」
「あはっ、姉貴って……まあ、悪くない響きじゃん。こちらこそ、末永くよろしくね。どろろっち」
「ど、どろろっちィ? 己等のことかァ?」
「かわいいっしょ?」
「はっはッ! 悪くねェ!」
石段に並んで見上げる地獄の空は、どこまでも血のように赤く淀んでいる。しかしドロテアにとっては、今のこの世界は生前のどの記憶よりも美しく、満ち足りたものであった。
絶対の信頼を寄せる親父と、背中を預けられる強き姉貴分。何があっても命を懸けて守るべき家族がいる。
ドロテアはサングラスの奥の金色の双眸を細め、顔の刺青を誇らしげに歪ませた。拷问教會の幹部としての生業。それは、孤独に怯え逃げ惑っていた泥舟朧が、真の強さを手に入れ、自らの意志で選び取った誇り高き生き様であった。
◆
「ウルスラが……賢者の石を奪って逃走! 下位六席が……裏切りましたッ!」
深夜の冷え切った大気が支配する大聖堂の門前。単独で外部の警備を任されていたドロテアの鼓膜を、その悲鳴にも似た絶叫が情け容赦なく叩き据えた。石造りの外壁に反響する甲高い声は、夜の静寂を無惨に引き裂いていく。
一瞬、己の聴覚が幻聴を拾い上げたのではないかと疑うほど、その報告は現実離れしていた。全身の血液が一気に足元へと下っていくような悪寒に襲われながら、ドロテアは無意識のうちに祭壇へと続く重厚な樫の木の扉へと駆け出していた。真鍮の取っ手を両腕の力で強引に押し開けると、蝶番が摩擦で悲鳴を上げ、堂内の淀んだ空気が外へと溢れ出す。
鼻腔を突いたのは、日常的に焚かれている神聖な乳香の匂いと、それに混じる微かな血の気配であった。色鮮やかなステンドグラスから差し込む蒼白い月光が、祭壇の周囲を不気味なほど克明に照らし出している。
その中央には、喉元を押さえて幾度も浅い呼吸を繰り返し、ひどく狼狽した様子を見せるアポロニアの姿があった。さらにその傍らでは、フィデスが己の髪を苛立たしげに掻き毟り、額に脂汗を滲ませて焦燥し切っている。そして何よりもドロテアの目を引いたのは、祭壇の一番奥で、彫像のごとき静謐を保ったまま周囲を見渡している開闢王の姿だった。
今宵は、賢者の石をシスター・アポロニアに取り込ませるという公開実験がこの大聖堂で執り行われる記念すべき日。万が一に備え、戦闘部隊の精鋭である下位六席が大聖堂周辺を警備する手筈であった。しかしドロテアが駆け付けたそこには、共に教団を支えてきたはずの下位六席の姿は影も形も見当たらない。この異常事態において、である。
「ど……どういうことだァ、こいつは……」
乾き切った喉から絞り出した声は、ひび割れた楽器のように掠れていた。視界に広がる異常な光景に思考が追いつかず、ドロテアの屈強な両腕は行き場のない戸惑いに震えている。
「下位六席が裏切りました。正確には貴女一人を除いてですが」
唖然と立ち尽くすドロテアに対し、開闢王は一切の感情を削ぎ落とした平坦な声で告げた。激怒するでもなく、嘆き悲しむでもない。ただ純粋な事実だけを述べるその冷徹な響きが、大聖堂の冷たい石畳を這うようにしてドロテアの足元へと絡みつく。
「シスター・ドロテア。命令です。下位六席を全員、粛清しなさい。貴女自身の手で」
絶対的な王の宣告。その言葉が持つ質量はあまりにも重く、ドロテアの呼吸器官から酸素を根こそぎ奪い去った。粛清。つまりは、昨日まで同じ釜の飯を食い、背中を預け合ってきた家族同然の仲間たちを、この手で屠れという死の勅命に他ならない。
「だ……だけど、己等ァ……」
反射的に唇が拒絶の言葉を紡ごうとする。しかし、王の双眸がドロテアを射抜いた瞬間、心臓が凍りつくような畏怖が全身の筋肉を硬直させた。
「彼女達は敵です。もう家族ではない。解りますね?」
有無を言わさぬ冷酷な眼差し。そこには微塵の慈悲も介在していない。ドロテアはただ深く頭を垂れ、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めることしかできなかった。拳を握り込む指の隙間から、行き場のない絶望が血の滲むような痛みとなって皮膚に食い込んでいく。
◆
その日も雨が降っていた。空を覆い尽くす分厚い暗雲から降り注ぐ冷たい水滴が、ドロテアの頬を伝い、纏った修道服を重く濡らしていく。暗い路地裏の湿った空気に、むせ返るような鉄の匂いが充満していた。
開闢王の命令は絶対である。どれほど心が引き裂かれようとも、彼女にとって王の言葉は法であり、世界の理そのもの。だからこそドロテアは、かつて共に笑い合った下位六席の同胞たちを次々と暗がりに追い詰め、その両拳を血に染め上げていった。
両眼に呪わしい熱を宿した『邪視』の異能を解放する。ドロテアの視線と交わった対象は、見えない鎖に肉体を縛り付けられたかのように一切の自由を奪われる。身動きが取れず、恐怖と絶望に顔を歪めるかつての家族たち。何故だと問う声も、許しを乞う悲鳴も、全ては彼女の振るう無慈悲な剛拳によって強制的に断ち切られた。
骨が砕け、肉が潰れる生々しい感触が拳を通して脳髄に直接響く。返り血が顔面に飛び散るたび、ドロテアの胸の奥底で何かが決定的に壊れていく音がした。溢れ出す涙は冷たい雨に紛れて地に落ちるが、手の平にこびりついた同胞たちの血の温もりだけは、どれほど雨に打たれても洗い流されることはなかった。
そして最後の一人。最も長く共に時を過ごし、軽口を叩き合った相手。等活地獄への直通列車が発着する駅の薄暗い構内で、ドロテアはとうとうウルスラの背中を視界に捉えた。
噴出する白煙と、車輪が鉄の軌道を擦る鋭い摩擦音が鼓膜を震わせる。硫黄と錆びた鉄の入り混じった異臭が立ち込めるプラットホームの端で、ドロテアは躊躇うことなく邪視の力を発動させた。網膜が焼き切れるような熱と共に、不可視の重圧が空間を飛礁し、逃走を図っていたウルスラの肉体を強引に石畳へと縫い留める。激しい負荷に耐えきれず、ウルスラは両膝を乱暴に地面へと打ち付けた。
「おい……何考えてんだよ、手前さんは……ッ!」
血を吐くようなドロテアの咆哮が、駅の空洞に虚しく響き渡る。怒り、悲しみ、そして理解不能な事態に対する強烈な困惑。あらゆる感情が混ざり合い、ドロテアの表情は無惨なほどに歪んでいた。対するウルスラは、邪視の圧力に全身の筋肉を痙攣させ、額から滝のような汗を流しながらも、その口角を微かに持ち上げてみせた。
「……強くなったねー、どろろっち。ま、そうでなくちゃ困るんだけどさ……」
軽薄な響きを残したその声には、死を目前にした者の恐怖など微塵も含まれていない。むしろ、全てを悟ったかのような穏やかさすら漂っていた。
「聞きな、どろろっち。開闢王は騙されている」
絞り出されたその言葉は、ドロテアの思考回路を激しくショートさせた。開闢王が騙されている。その事実を脳が処理するよりも早く、ウルスラはさらに致命的な言葉を重ねる。
「いや……開闢王だけじゃない。上位六席全員が、あいつに利用されている。このままじゃ……世界が滅ぶぞ」
プラットホームの明滅する赤い信号灯が、ウルスラの真剣な瞳を照らし出す。呼吸を荒らげながらも、その視線は真っ直ぐにドロテアの奥底を射抜いていた。
「あいつ……今はシスター・カタリナとか名乗ってるあの女。あの女の未来はもう、あーしには視ることが出来ない。あいつが何を考えて何をしようとしているのか……どうすればこの未来を変えられるのか……正直なんもわかんねー。けど……少なくとも今、あーしがこうしなきゃ……世界は滅ぶ。それでも、寿命を千年延ばすのが精一杯だけどさ……」
次々と投げかけられる不可解な単語の羅列に、ドロテアの頭痛が激しさを増していく。
「待ってくれよ……何の話をしてんだ……ウルスラ……!」
懇願するように叫ぶドロテア。論理的な思考など彼女の領分ではない。ただ、目の前で静かに語るウルスラの姿が、狂気に陥った裏切り者のそれには到底見えなかったことだけが、彼女の拳の狙いを無意識のうちに鈍らせていた。
「……ねぇ、どろろっち。あーしの本当の名前、教えてあげる。あーしの名前は……滅三川ジェーン瞳」
そうして唐突に明かされた彼女の真名は、ウルスラという聞き慣れた響きとはあまりにも異質なものだった。何故今その情報を開示する必要があったのか、今のドロテアには理解が及ばない。及ばないながらも、耳を傾けることしか彼女には出来なかった。
「ここであーしを見逃して、あーしの本当の名前をフィデスに伝えろ。それだけでいい。それだけで世界の寿命が千年延びる」
邪視の圧迫によって皮膚の血管が浮き上がり、限界が近いことは誰の目にも明らかだった。それでも自らを滅三川と名乗った彼女は、自身の命ではなく、世界の存続を口にしている。
「なあ、どろろっち。開闢王が望んでる世界の救済ってどういうことだと思う?」
「……己等、馬鹿だからよォ。正直……よく解ってはいねェよ。でもきっと、みんなが平等に、幸せに生きていける……そんな世界を目指してんだ。あの人はそういう人だぜい」
「……そうだよな。あーしもそうだぜ。世界を救いたい。これはその為に必要なことなんだ。だから……頼む。これ以上は聞かないで。あーしを信じてくんないかな」
静かな懇願。それは、幾度も死線を共に潜り抜けてきた戦友に対する、最後にして最大の賭けであった。ドロテアの脳裏に、冷徹に粛清を命じた開闢王の姿と、自らの手で命を奪った仲間たちの顔がフラッシュバックする。正義とは何か。忠誠とは何か。千々に乱れる思考の果てに――ドロテアはきつく瞼を閉じる。
「滅三川……いつかちゃんと、説明してくれるんだろうなァ……」
瞳に宿っていた邪視の熱が、急速に冷却されていく。対象を縛り付けていた絶対的な呪縛が霧散し、冷たい空気が二人の間に再び流れ込み始めた。
「……もち。それまで鍛錬は怠るなよ。どろろっち」
自由を取り戻した滅三川は、痛む身体を庇いながらゆっくりと立ち上がる。背後に停車していた等活地獄行きの猿夢列車の扉が、重々しい金属音を立てて開いた。彼女は一度だけ肩越しにドロテアを振り返り、悪戯っぽく笑みを浮かべた直後、立ち込める高熱の蒸気の中へとその身を投じた。
轟音を立てて発車する列車の風圧が、ドロテアの濡れた髪を激しく揺さぶる。遠ざかる赤い尾灯を網膜に焼き付けながら、彼女はただ一人、血に塗れた両手を力強く握り締め、静かに立ち尽くしていた。
今から千年前の出来事である。
◆
そして千年後の現在。
頭蓋骨の内側を直接重く硬い鈍器で殴打されるような強烈な痛覚が、ドロテアの意識を暗闇の底から強引に引き摺り上げた。
鼻腔を容赦なく犯すのは、生暖かく粘り気のある、鉄が激しく錆びついたような強烈な血の匂い。己の額に穿たれた裂傷から流出したどろりとした赤い液体が、顔の起伏を伝い、視界の右半分を濃密な朱色に染め上げている。重力に従ってまつ毛の先端へと集約された血の雫は、やがて表面張力の限界を迎え、冷たい石の床へと音もなく滴り落ちていく。
「なんだァ……昔の夢ェ、見てたのかァ……?」
自身の呼吸が驚くほど浅く、そして乱れていることに気づく。肺に空気を送り込むだけの単純な動作すら、今の彼女には重労働であった。
全身の筋肉が鉛の塊に変異してしまったかのように重く、指先一つ動かすことすらままならない。自身の肉体に対する制御権を完全に喪失している。壁にもたれ掛かるようにして血だらけの額を擦り付け、自身の生暖かい血液が作り出した赤い池に顔を沈めているという状況を、ドロテアの混濁した脳が少しずつ理解し始めていた。
「あはっ♡ なにしてんのぉ、お前♡ ほんと、ばっかみたい♡」
立ったまま気を失っていたドロテアの背後から不意に鼓膜を打ったのは、この血生臭い惨状にはおよそ似つかわしくない、鈴を転がすような無邪気で可愛らしい声であった。
しかしその可憐な響きの裏側には、他者の苦痛を極上の甘露として味わい尽くすような、底知れぬ悪意と冷酷さが孕んでいる。天使の羽音を模した致死量の猛毒。その声の波紋が空気を伝わるだけで、ドロテアの背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走る。
「ざぁこ♡」
ドロテアの背後に立っていたのは、見知らぬ幼女の姿をした怪異であった。彼女の小さな身体を包むのは、この地獄の掃き溜めには不釣り合いなほど絢爛な意匠が施された衣服。愛らしいツインテールを揺らす彼女は、まるで路傍に転がる価値のない石ころを踏みつけたかのような尊大な態度で、冷ややかな視線をドロテアへと突き刺している。
その幼く愛らしい顔立ちに浮かぶのは、圧倒的な強者だけが持つ残酷な嘲笑であった。弱者が這いつくばる姿を眺めることだけが、彼女にとって唯一の娯楽であるかのように。
いつから、どうしてこのような状況に陥ってしまったのか。まがりなりにも拷问教會第七席、強力無比な『邪視』の使い手であるシスター・ドロテアが。なぜ見ず知らずの幼女の姿をした怪異に、これほどの致命傷を負わされたのか。
理解の及ばない現実に対する強烈な拒絶反応が、麻痺した肉体の奥底で微かな熱を生み出す。しかしその熱も、絶え間なく体外へと流出していく血液と共に冷えていく。
流血によって急速に失われていく意識を必死に繋ぎ止めながら、ドロテアの思考は時間を巻き戻し始める。ここに至るまでの過程を。錆びついた蝶番が軋む重い扉を両手で押し開け、この薄暗く冷たい『四番目の部屋』へと足を踏み入れた、あの直前の記憶の深淵へと。彼女の意識は深く沈み込んでいった。




