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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
怪物少女の夢想偽譚 第一章 叫喚地獄篇

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叫喚地獄 9

 意識の浮上は、鼻腔を侵略する悪臭によって強制的に齎された。


 深い泥の底から無理やりに引き上げられるような感覚と共に、滅三川ジェーン瞳は重く張り付いた目蓋を押し上げる。背中に伝わるのは、水分を過剰に含んでぬかるんだ腐土の不快な感触。両腕は背後で強固な戒めによって縛り上げられており、指先を僅かに動かすことすら許されない完全な拘束状態にあった。

 覚束ない視界が徐々に焦点を結び始めると、滅三川の網膜に飛び込んできたのはおよそ地獄という概念から著しく逸脱した、極めて異常な光景であった。


 見渡す限りの広大な湿地帯がそこには広がっている。赤黒く濁った空の下、生温かい重風が淀んだ空気を撫でるように吹き抜けていく。その大地を埋め尽くしているのは、無数の生命体。本来ならば現世の牧場にしか存在し得ないはずの牛や豚、鶏に羊といったあらゆる家畜の群れが、放牧という言葉すら生ぬるいほどの異常な密度で犇めき合っている。

 獣たちの吐き出す熱気と糞尿の臭いが混ざり合い、蒸し暑い気候と相まって、呼吸をするだけで肺の奥底まで汚染されるようなむせ返る悪臭を形成していた。鼓膜を打つのは絶え間なく続く家畜たちの鳴き声と、泥を踏み荒らす無数の蹄の音ばかりである。


「あっ……メサガワさん起きた……」


 その時、家畜の群れの喧騒を縫うようにして、どこか自信の無さを孕んだ間延びした声が滅三川の頭上から降ってきた。

 声のした方へと首の筋肉を捻って視線を向けると、そこには太陽の光を遮るほどの巨大な質量が聳え立っている。圧倒的な威圧感を放つその輪郭の主は、滅三川の記憶の底に刻まれた千年前の姿と一致しながらも、より冒涜的な進化を遂げていた。


 油膜のように青黒い光沢を放つその髪の毛のような物体は、まるで生命を宿した積乱雲の如く空を覆い尽くしている。それは固定された形態を持たず、宙を漂う無数の触手として蠢きながら、呼吸に合わせるかのように緩やかな膨張と収縮を不気味に繰り返していた。

 見上げるほどの巨体を持つ彼女の肌は、夜の闇をそのまま切り取って凝縮したかのような純黒。豊満に過ぎる肉付きの良い身体を覆い隠す漆黒の修道服の隙間からは、決して人間のそれではない獣のような瞳孔が複数、外界の様子を蠢きながら覗き見ている。

 そして彼女の顔面には、玉虫色に妖しく煌めく四つの瞳が配置されていた。およそ人類の美意識を根底から破壊するような異形の怪物は、目醒めた滅三川の視線に気が付くと、その巨大な顔にどこか弱々しく、酷く余所余所しい笑みを浮かべてみせた。


「ふ、へへ……お、お久しぶり、です……」


 拷问教會の第六席、シスター・アポロニア。ヒトの形を超越した怪獣の容貌とは裏腹に、彼女の口から紡がれる声はひどく萎縮しており、威厳の欠片も存在しない。

 滅三川が彼女と初めて出逢ったのは、実に千年という途方もない時間を遡る過去の出来事である。しかし滅三川の記憶に焼き付いている姿よりも、目の前に立つアポロニアの異形たる巨体は、比較にならないほどに巨大化を遂げていた。


「……アポロっち。なんか……またデカくなってない?」


 死の危機に瀕している拘束状態にあっても、滅三川の軽薄な口調は微塵も崩れることがない。余裕すら感じさせるその問いかけに、巨大な悪魔は巨体を僅かに縮こまらせるようにして視線を彷徨わせた。


「ふひ……そ、そりゃあだって、会うの千年ぶりですし……大きくもなりますよ……」


「いやならねーし。怪異の肉体は成長も劣化もしないはずなんだけど。やっぱ規格外ねー、悪魔の怪異ってやつは」


 通常、地獄に堕ちて怪異と成り果てた者の肉体は、老化することもなければ成長の余地も与えられない。しかしアポロニアという存在は、その大前提となる法則を完全に無視して無限の拡張を続けている。その事実こそ、彼女が『恐怖の大王』と称される所以の一つであった。

 滅三川の呆れたような指摘を受け、アポロニアは照れ隠しのように四つの瞳を細め、巨大な手で自らの頬を掻くような仕草を見せる。


「えへ……そ、そういうメサガワさんは……千年前からあまり変わってないですね。えっと……こういう時、なんて言えば……えっとぉ……」


 気まずい沈黙を埋めるように、慌てて言葉を探し始めるアポロニア。その呼気だけで周囲の家畜たちが怯え、波を打つように後ずさっていく。


「あっ……! い、いつまでもお若くていらっしゃいます、ね……! う、羨ましい限り、ですな……! へへ……へへ……」


「みんなそうだろ。あんま面白いこと言うなよ、好きになっちゃうだろ敵同士なのに」


 滅三川の痛烈な突っ込みに、アポロニアの純黒の顔面が恥じらいに染まったかのように僅かな熱を帯びる。彼女は所在なげに触手の髪を蠢かせながら、申し訳なさそうに視線を地面へと落とした。


「ふへ……ごめんなさい……ヒトと話すこと自体、久しぶりで……て、適切な語彙が……」


「はぁ……デッカくなっても中身全然変わってねーし……」


 滅三川はわざとらしく深い溜息を吐き出す。外見は絶望を体現するような大王そのものであるにも関わらず、内面はコミュニケーションに怯える内気な少女のまま。その極端な落差が、状況の深刻さを不本意にも緩和させてしまう。

 しかし、そんな緩んだ空気を物理的な冷気で切り裂くように、地の底を這うような悪意に満ちた声が背後から割り込んできた。


「……オイ。なに敵と仲良さそうに喋ってんダ」


 ぬかるんだ泥を踏みしめる重い足音と共に、巨大なアポロニアの背後から一つの影が姿を現す。

 そこに立っていたのは、銀色の髪を血と泥で汚し、全身に痛々しい包帯を巻き付けたシスター・フィデスであった。ドロテアの暴力によって負わされた内臓の損傷や、自ら引き起こした催涙ガスの代償は、怪異の再生能力をもってしても未だ完全に癒えきってはいない。包帯の隙間からは生々しい鮮血が赤黒く滲み出し、彼女の荒い呼吸に合わせて修道服を僅かに上下させていた。


「わ、わわっ……ダメですよ、センパイ……! さ、さっき生き返ったばかりなんですから……あ、安静にしておかないと……!」


 満身創痍のフィデスを見たアポロニアは、慌てふためいて巨大な手を振り回し、過保護なまでに彼女を労わろうとする。だがフィデスはその手を煩わしそうに払い退け、憎悪の焔を宿した灼眼で真っ直ぐに滅三川を射抜いた。


「よお、フィデス。やってくれんじゃん」


 拘束され地面に転がった状態のまま、滅三川は一切の怯えを見せることなく不敵な笑みで迎え撃つ。未来を見通す『くだん』の怪異と、過去を読み解く『さとり』の怪異。互いの能力の本質を知り尽くした者同士の視線が、湿った空気の中で不可視の火花を散らして激突する。


「ねえ、どうして叫喚地獄なわけ? あーしのこと、如月真宵の人造階層に連れ込めば詰みだったっしょ。九十九っちには人造階層に行く手段が無いんだから」


 空間を繋げるカタリナの異能を用いれば、九十九の救出が絶対に不可能な隔離空間へと滅三川を転送することは容易かったはず。それにも関わらず、なぜ移動が可能なこの第五階層を舞台に選んだのか。


「それだと芥川九十九が時間を巻き戻すだけだロ。完全に詰みの状況を作るのは駄目なんダ。頑張れば手が届ク、その程度の希望はチラつかせておかないとナ」


 フィデスは唇の端を歪め、狡猾な計算を開陳する。芥川九十九が持つ時間遡行能力、その発動条件は自らの死。つまり自死という選択が叶うなら、いつどんな状況からでも時間を巻き戻せるわけで。フィデス達にとってはこれ以上ないというほど厄介な代物である。だからこそ、救出が不可能ではないという希望の糸をあえて垂らすことで、九十九をこの階層へと誘い込む必要があった。


「芥川九十九を『スクラントンボックス』に封じ込めル。それがアタシ達の勝利条件ダ」


「……あー。そういやそんなのあったねー……」


 時間という概念から対象を完全に切り離し、永遠の停滞へと幽閉する如月真宵の発明品。それこそが偽物ラプラスの悪魔を無力化するための唯一の対抗手段であり、芥川九十九にとっては唯一の負け筋。

 互いの条件を明確にしたところで、不意にフィデスはその掌中に黒い装丁の『閻魔帳』を具現化し、独りでに開かれたその中身へと視線を走らせた。その中の一頁、芥川九十九の思考が刻まれた紙面に目を留めると、九十九達の動向を文字通り確認する。


「やはり向かってきているナ。オイ、アポロニア。無駄話してねえでさっさと喰っちまエ」


 命令が下されたアポロニアは、その巨体をびくりと震わせた。彼女は命令に逆らうことなど考えたこともないという様子で、酷く怯えたように四つの瞳を瞬かせる。


「ふひ……わ、わかりました……」


 アポロニアは震える太い指先で、自身が纏う漆黒の修道服の裾をゆっくりとたくし上げ始めた。

 厚い布地の下から露わになったのは、およそ人型という概念を根本から否定する冒涜的な構造。アポロニアの腹部から下半身にかけての肉体そのものが、巨大な怪物の口腔を形成していたのである。深淵のようにぽっかりと開いた暗黒の口内には、獣のように不揃いで鋭利な歯が幾重にも生え揃っており、歯茎の隙間からは強酸性の唾液がとめどなく溢れ出し、地面の腐土を溶かして白い煙を上げている。

 理性では拒絶しながらも、怪異としての捕食本能に抗えないアポロニアのもう一つの口が、獲物を前にして卑しい舌なめずりを繰り返す。


「メ、メサガワさん……賢者の石、渡すつもりありませんか……? ぼく、メサガワさんのこと……できれば食べたくないです……」


 巨大な顎を開閉させ、悪臭を放つ涎を滝のように垂れ流しながらも、アポロニアの上半身の顔は泣きそうな表情で滅三川へと哀願する。そのあまりにも矛盾した振る舞いに、滅三川は呆れたように短く息を吐いた。


「……そんなヨダレだらだらでよく言うわ」


 このままでは生きたまま捕食される。そんな状況を前にして、しかし滅三川の紫と黒のオッドアイには一切の恐怖が宿っていない。


「喰うなら喰えよ。でも覚悟しな。あんた、これから死ぬより酷い目に遭うよ」


「ひえぇ……!?」


「落ち着ケ。嘘ダ。そんな未来は視えていなイ」


 フィデスは閻魔帳を通じて滅三川の思考の表面を撫で、滅三川の最後の足掻きとも言える発言をすら即座に否定する。事実として、滅三川には今の状況を、そしてこれからの状況を打開する明確なプランを持っているわけではなかった。しかし滅三川のこの強気な態度は、決してただの負け惜しみというわけでもない。


「(……『偽物ラプラスの悪魔』に賭けるつもりカ。ハッ……ここにきて運任せかヨ。ただの自暴自棄じゃねェカ……)」


 滅三川にも視えない、フィデスにも読めない、芥川九十九という変数が齎す新たな可能性。しかし謂うなればそれは、もはや神頼みといっても差し支えない代物で。過去と現在(エビデンス)に基いた論理(データ)のみを信じる魔女にとって、本来それは検討する価値すら無いほどの可能性――


「あう……で、でも……そもそもメサガワさん、今もまだ持ってるんですかね……? 賢者の石……」


「賢者の石は滅三川の胃袋の中ダ。いちいち解体して取り出すのも面倒クセェ。丸ごと喰っちまったほうが早イ」


 ――しかしその変数が、実際に一ノ瀬ちりの净罪という絶対的な未来を覆した事実もまた然り。その事実がフィデスの無意識に僅かな焦燥を滲ませて、アポロニアに捕食の実行を急がせていた。


「いいからさっさとヤレ」


「そ、それじゃあ……遠慮なく……いただきます。ふひ……」


 もはや躊躇う余地を失ったアポロニアは、その巨大な腹部の顎を限界まで大きく開く。その一瞬でどこまでも広大な闇が滅三川の視界を覆い尽くし、強酸と腐肉の悪臭が突風のように吹き付ける。

 抵抗することすら不可能な質量が落下し、巨大な牙が交差する。鋭い咀嚼音と共に、滅三川の身体は賢者の石を内包したまま、アポロニアの暗黒の胃袋へと丸呑みにされてしまう。


「(……頼んだぜー。九十九っち……)」


 外界の光が一切届かない暗闇の中、消化液が肌を焼く感覚を最後に、滅三川ジェーン瞳の意識は深い泥の底へと急速に閉ざされていったのである。


 ◆


 硬質な金属が軋む鈍い摩擦音を伴い、猿夢列車の分厚い扉が重苦しく左右へと開け放たれた瞬間、暴力的なまでに生臭い熱風が少女たちの柔らかな肌を容赦なく打ち据えた。肺の奥底まで汚染されるような不快な空気を吸い込みながら、彼女たちは暗澹たる異界の地へと静かに降り立つ。


 第四階層、叫喚地獄。荒涼たる岩肌に囲まれた駅の境界から外へ一歩、足を踏み出した先に広がるその絶望的な光景を一つの言葉で言い表すとするならば、正しく監獄という表現が最も相応しい。


 視界の果てまで埋め尽くすのは、赤黒く変色し干からびた大地の至る所から、重力に逆らい天を突く勢いで屹立する巨大な針の山である。その表面は長きにわたる流血によって赤錆が幾重にも層を成し、鋭利に尖った先端には数え切れないほどの亡者の群れが無残にも串刺しにされていた。

 自らの体重によって肉を引き裂かれながら、力なく虚空へと垂れ下がる罪人たち。肉を貫かれた彼らの口腔からは、底知れぬ絶望と果てしない苦悶に彩られた絶叫が、大気を不規則に震わせて絶え間なく吐き出されている。それらの悲鳴は重なり合って耳を劈く不協和音を形成し、血の色に染まった空を重苦しく覆い尽くしていた。

 血の酸化した鉄の刺激臭と、内臓が腐敗して泥へと還るような強烈な臭気が濃密に混ざり合い、呼吸器官を直接犯すような悍ましい環境がそこには広がっている。


 その地獄絵図の片隅へと目を向けると、太く冷たい鋼鉄で造られた堅牢な檻の内部にて、幽閉された異形の群れがとめどなく蠢いているのが確認できる。

 衆合地獄の境界でも見かけたあの首切れ馬と呼ばれる人造怪異を筆頭に、無数の濡れた触手を這わせる巨大な肉の塊や、もはや人間の原型を微塵も留めていない冒涜的な生命体たち。彼らは飢餓に狂う野獣の如き執念で、内側から鉄格子を何度も執拗に引っ掻いていた。硬い爪が金属の表面を削り取る不快な軋み音が、亡者たちの絶叫の合間を縫うようにして絶えず響いてくる。


 さらに視線を大地の至る所へと走らせれば、羅刹王の指揮下に置かれた強大な軍隊である獄卒たちが、一定の規則的な足取りを刻みながら巡回を続けていた。彼らの手には高出力の探照灯が固く握られており、そこから放たれる無機質な光の柱が暗闇を鋭く切り裂いている。潜む侵入者を逃さず炙り出そうと、その冷徹な光線は絶えず空間の隅々までを舐め回していた。

 周囲を底知れぬ深さを持つ三途の川に囲まれた、完全なる浮島であるこの地獄の階層に、安全な逃げ場などどこにも存在しない。とりわけこの叫喚地獄という厳重な管理下に置かれた領域において、外部からの侵入が一度でも獄卒の目に触れればそれが最期。階層中を徘徊する魑魅魍魎のすべてから執拗に追い立てられ、命をすり減らす逃走劇を強いられることになるのは明白であった。


 そんな監視の目が張り巡らされた監獄島に、九十九達はついに一歩を踏み込んだ。背後の軌道上では、乗ってきた猿夢列車が重い駆動音を響かせながら再び闇の中へと過ぎ去っていく。

 本来ならば鼓膜を震わせるはずの列車の汽笛すらも容易く掻き消されるほど、叫喚地獄の全域に響き渡る屍者たちの悲痛な叫び声は、正しく地獄そのものの狂った音色を奏でていた。


 ◆


「此処に滅三川がいるのか……?」


 駅の出口から外界へと足を踏み出してすぐ、巨大な岩の陰へと身を潜めながら、芥川九十九は遥か遠くの赤黒い空を突き刺す針の山を静かに見据えた。


「いや、確かに此処も叫喚地獄だが、滅三川がいるのは此処じゃねェ。この次、第五階層のはずだぜい。アポロニアの持ち場が其処だからなァ」


 背後に控えるシスター・ドロテアが、周囲の様子を油断なく窺いながら声を潜めて答える。

 叫喚地獄という名称は、第四階層および第五階層の二つの領域を指す総称としても使われている。まがりなりにも幹部であるドロテアは、拷问教會シスターの内部事情や階層の構造についても深い知識を有していた。


「……どうする? コソコソ隠れながら先に進むのもアリだが……」


 一ノ瀬ちりが鋭い視線を細め、規則的な足取りで巡回を続ける獄卒たちの隙間へとその眼光を走らせる。息苦しいほどの熱気を帯びた空気に当てられ、彼女の額には大粒の汗がじわりと滲み出していた。

 張り詰めた極限の緊張感が、赤い髪の隙間から覗くその険しい横顔に色濃く表れている。肺を満たす不快な空気をどうにか整えながら、彼女は安全に突破できる僅かな糸口を必死に模索し続けていた。


「……そんな暇はないな」


 しかし、芥川九十九の口から紡がれた返答には、迷いや躊躇いの気配が一切含まれていない。彼女の透き通るような赤い瞳には、世界の終焉という絶対的なタイムリミットが刻一刻と切迫している現実への、燃え盛るような焦燥感がはっきりと宿っていた。一刻の猶予も残されていないという確固たる認識が、彼女の思考から遠回りの選択肢を完全に排除している。


 その時であった。九十九のその静かな決断の言葉を合図としたかのように、おもむろに岩陰から外へと躍り出たのは、他でもない黄昏愛である。

 隠密行動の必要性など微塵も感じていないその足取りで、彼女は何の躊躇いもなく、巡回を続ける獄卒たちの正面へと自らの姿を無防備に晒した。

 一瞬、大気を震わせていた叫び声すら遠のいたかのような、奇妙な静寂が辺りを支配する。周囲を警戒して巡回していた軍服姿の怪異数匹は、突如として暗闇の中から現れたイレギュラーな存在を前にして、揃いも揃ってその場に硬直していた。

 何かの間違いではないか、あるいは幻覚でも見ているのではないかと確認を求めるように、一匹の軍服がゆっくりと手元の探照灯を持ち上げる。冷たい光の束が、立ち尽くす愛の華奢な輪郭を夜闇の中から鮮明に浮かび上がらせた。


「すみません。人を、探しているのですが」


 探照灯の無機質な光に全身を照らされながらも、黄昏愛はどこまでもマイペースな態度を崩すことなく、特有の繊細な声色を大気へと紡ぎ出す。

 もはや彼女の辞書には、およそ恐怖という概念が存在しないのだろう。その礼儀正しくもあまりに場違いな言葉が彼女の口から飛び出し、獄卒たちの耳に届いた直後、停滞していた時間が唐突に動きを見せる。


「――――侵入者だッ!!」


 事態の異常性をようやく正しく把握した軍服の一匹が、喉を引き裂かんばかりの轟くような声を張り上げた。その警告を皮切りに、一気に臨戦の警戒態勢へと移行した軍服の群れが、有無を言わさぬ暴力の意志を持って黄昏愛へと一斉に襲い掛かる。

 彼らは軍服という共通の衣服を纏ってはいるものの、その容貌はどれもこれも人間の形態を根本から逸脱した冒涜的な代物であった。

 腕の骨格が奇妙に捻じ曲がり、先端がぬめりを帯びた触手のようになっている者。頭部の至る所に不気味な四つの眼球を埋め込み、それぞれが別々の方向を睨みつけている者。背中の皮膚を突き破って歪な羽を生やしている者や、腰の付け根から太く強靭な尻尾を振り回している者。

 あらゆる異形を煮詰めたような魑魅魍魎たちが、殺意を剥き出しにして四方八方から飛びかかってくる。


 その迫り来る死の群れを真正面から見据えながら、黄昏愛は焦ることもなくそっと深く息を落とした。その瞬間、彼女の内奥に隠されていた冷酷な機構のスイッチが完全に切り替わる。常に無感情を保っていた彼女の黒い瞳孔が、太陽のようなギラギラとした黒い光を放ち始め、純粋な殺意を伴って怪しく輝き出す。


「はいはい。皆殺しますね」


 その短い死の宣告が唇から零れ落ちた直後、彼女の細い右腕の細胞が爆発的な速度で変異を開始する。

 白く滑らかな肌を突き破って茶褐色の剛毛が密集し、骨格が急激に膨張して、瞬時に巨大なヒグマの丸太のような怪腕へと変貌を遂げた。

 圧倒的な質量と筋力を獲得したその腕を、前方の退路を塞ぐ獄卒の群れに向かって、空気を叩き潰すような凄まじい速度で一気に振り下ろす。鋼鉄よりも硬い鉤爪が肉を裂き、骨格が原型を留めず砕け散る鈍い破壊音が周囲の空間に響き渡った。

 先頭を走っていた獄卒の身体は瞬く間に破砕され、ただの赤黒い残骸と化して虚空へと無惨に舞い散る。


 愛の放った一撃に追従するように、九十九もまた潜んでいた岩陰から弾丸を思わせる速度で飛び出した。疾風の如く敵陣の懐へと突入し、背骨の延長線上から生やした黒い悪魔の尾を鋭い鞭へと変化させる。

 空気を切り裂く鋭利な風切り音と共に、探照灯を構えて足が止まった獄卒たちの首を、次々と無慈悲に刈り取っていく。


「ま……こうなるよな」


 一ノ瀬ちりが短く息を吐きながら、自身の指先から赤いクレヨンの鋭利な爪を真っ直ぐに伸ばし、深紅の軌跡を残して戦場へと躍り出る。


「ハッハッハッ! いいねえ! そうこなくっちゃなア!」


 シスター・ドロテアもまた豪快な笑い声を轟かせながら、その巨体を存分に活かした暴力を遠慮なく振るい始める。

 ちりは敵の死角へと素早く回り込み、喉元を的確に貫いて致命傷を与え、ドロテアはその太い腕で立ち塞がる異形の全てを力任せに粉砕していった。


「愛! ここからずっと真っ直ぐ、駅っぽいのが見える!」


 半人半魔の姿へと変貌し、背中の黒い翼を羽ばたかせて宙に浮かび上がった九十九は、視界の開けた上空から遥か前方の景色を捉えた。

 彼女はその細い指先で遠くの建物を指し示し、地上で血肉を散らしながら暴れ回る愛に向かって的確な指示を飛ばす。


「わかりました。磨り潰しますね」


 背中の皮膚を裂いて無数のぬめりを帯びた触手を生やし、向かってくる獄卒の首を文字通り千切っては投げ捨てる作業を淡々と繰り返していた愛。

 彼女の聴覚が上空からの九十九の指示を捉えた瞬間、その呼応と共に彼女の下半身が劇的な変異を開始する。少女の細い脚の細胞が再構築され、瞬く間に昆虫特有の硬質な外殻を持った異形の多脚へとその造形を作り変えていった。


 ()()()()()という名の昆虫が存在する。

 全長約二十ミリメートルという極めて小さな体躯に伸びた六本の長い脚は、一秒間に十三歩前進するという驚異的な瞬発力を有している。その移動速度は時速に換算しておよそ八十キロメートルにも及び、これを人間の規格まで拡大した場合、実に時速六百キロメートルを超える計算となる。百メートルの距離を走るならば、およそ〇・五秒で完走できてしまうほどの圧倒的な機動力。

 それを自らの有する異能によって細胞レベルで完全再現した黄昏愛は、複数の強靭な怪脚を腰の下部から直接複製していた。それによって少女の可憐な上半身を空中に浮かせたまま支えるという、極めて異様で冒涜的な造形へと化していたのである。


 ただ前方に立ち塞がる敵を轢き殺すためだけに特化した、人殺しに最も適した異形。彼女の怪脚が大地を蹴り出した瞬間、爆発的な推進力が彼女の身体を弾丸の如く前方へと射出した。その途轍もない速度の暴力は、前方の獄卒たちを熱したナイフでバターを切るように次々と磨り潰していく。

 多脚が踏みしめるたびに大地は削岩機に穿たれたように深く抉り出され、天を衝く巨大な針の山すらも根元から無残に叩き折っていく。行く手を遮るあらゆる障害物を物理的に粉砕し、強引に自らのための血塗られた道を造り出していった。


「よし……征くぞッ!」


 九十九の声が響き、たった四人の百鬼夜行が、その破壊の道を突き進む。

 全てはほんの一瞬の出来事であった。敵地の中枢へと乗り込んで早々、彼女たちが嵐のように通過した跡には、原型を留めない瓦礫の山と、無数の屍体だけが静かに残されていく。もはや単純な物理的障害や数の暴力程度では、この怪物少女達の歩みを止めることなど到底不可能であった。


 故に此処、第四階層には――たとえ如何なる侵入者であっても必ずその足を止める、止めざるを得ないギミックが用意されている。その絶対的な防壁に彼女たちが直面することになるのは、この血生臭い突破劇のすぐ後のことであった。


 ◆


 血塗られた行軍の末に、やがて四人の前に一つの巨大な建造物が姿を現した。第五階層へと続く路線を管理する駅舎である。

 終わりの見えない殺戮の道を切り拓き、無数の亡者たちが形成する肉の壁を粉砕し続けた彼女たちの足元には、もはや原型を留めない残骸が泥濘のように広がっている。

 荒い呼吸を繰り返すたびに、肺の奥底まで酸化した血液と腐敗した内臓の臭気が容赦なく流れ込み、気管の粘膜を焼くような錯覚を齎していた。

 それでも足を止めることなく突き進んだ彼女たちの視界の先に、暗澹たる叫喚地獄の景色とは異質な、人工的で巨大な建造物がその威容を現す。


「あ……? なんだこりゃ……」


 後方を歩いていた一ノ瀬ちりが、疲労で微かに重くなった足取りを不意に止め、その朱に染まった視線を前方へと細めて訝しげな声を漏らした。

 その視線の先、駅舎の周囲には、まるで空間そのものを断絶するような、巨大な檻型の『結界』が張り巡らされていたのである。

 僅かに鈍い光を放つ、ほとんど透明の膜のような『結界』。それによって駅舎全体が覆われている。そしてそんな駅舎の前に立ち塞がる、門番の如く聳え立つ巨大な鳥居。しめ縄が巻きつけられたその鳥居には、複雑な意匠が施された特殊な錠前が四つ、重々しく掛けられている。


「透明の……膜? 結界か……?」


 その異様な光景を前にして、ちりは警戒心を露わにしながら、確認を求めるようにゆっくりと前へ歩み出た。自らの赤い爪が彩られた右手を静かに持ち上げ、その不可視の膜の表面構造を確かめようと指先を伸ばす。


「ちり、下がってて」


 透明の結界に触れようとしたちりの手を遮り、九十九が一歩前に出る。そうして九十九は即座に力任せの拳を結界に打ち込むが、金属の衝突を思わせる反発が生じただけで、結界は傷一つ負わずにそこに留まっていた。駅の中には既に列車が停留しているが、そこに近付くことすらできない。この結界が物理的な破壊を無効化する呪術的防壁であることは明白だった。

 拳を伝って跳ね返ってきた物理的な衝撃が九十九の骨格を微かに軋ませ、彼女は顔を顰めて腕を下ろす。


「この鳥居が、結界を発生させている人造呪物オブジェクトと見て間違いなさそうだ」


 打撃の痺れが残る右手を軽く握り込みながら、九十九は目の前に立ち塞がる鳥居の異様な装飾へと再び視線を向けて推測を口にする。


「見てください」


 周囲を観察していた愛が何かに気付いて声を上げる。愛の指差す方を視ると、駅舎の周辺、四角に配置された小屋の存在に気が付く。小屋にはそれぞれ重厚な扉が備え付けられている。それ以外には窓すらない、巨大なコンクリートの塊のような簡素な造形である。

 ただそれらの扉には、それぞれ『一』『二』『三』『四』までの番号が、血のような赤い塗料で書き殴られていた。まるで儀式的な意味を持つかのように配置されたその空間は、生々しい赤色と冷たいコンクリートの対比によって、不吉な圧迫感を放っている。


「駅を守る鳥居には、四つの錠前。そしてその周辺に、四つの部屋。これはつまり、そういうことでは?」


 愛は漆黒の瞳に理知的な光を宿し、目の前の状況と与えられた情報を即座に結びつけて、一つの論理的な仮説を提示する。


「……そりゃまぁ、そういうことではあるんだろうけどよ。だからって、確証も無しに飛び込むのはどうなんだ」


「これも、如月真宵の造り出した『部屋』……何らかのギミックかもしれないってことだよね」


 時間が限られているこの状況において、またもや立ちはだかる如月真宵の特殊な『部屋』。この『部屋』という存在には、愛も九十九もちりも、酩帝街で散々苦しめられてきた。扉の向こう側に何が待ち受けているのか予測できない以上、九十九達が極端に慎重になるのも当然の帰結である。


「……………………あッ!!」


 その時だった。突如ドロテアが大きく声を張り上げる。その巨大な身体が微かに震え、隠された金色の魔眼がサングラスの奥で大きく見開かれているのが気配として伝わってくる。


「悪い、今思い出したッ! これ『()()()()』だッ! 滅三川から聞いてたやつだこれ!!」


 ドロテアは自らの太い指で額を勢いよく叩きながら、記憶の底から引き摺り出したその名称を確信に満ちた声で叫んだ。


「何か知っているのか?」


 ちりが焦燥感を隠し切れない声で、事態を打開する手がかりを求めて即座に問い質した。


「四方結界。如月真宵が造った呪物オブジェクト。こいつを解除するには、まずその鍵を開けなくちゃならねえ。鍵を持っているのは、この駅を管理する獄卒――『()()()』とか呼ばれてる連中だぜい」


 ドロテアはかつて滅三川ジェーン瞳から聞かされていた情報を反芻し、自信に満ちた低い声でその事実を突きつける。


「四天王は普段、駅舎近くの収容所の中に居るって話を聞いたが……ってことは、あれがきっとその収容所だなァ。あの中に四天王がそれぞれ一人ずつ待機してるんだってよォ」


「あの中に……?」


 彼女は太く逞しい腕を前方に突き出し、血文字の番号が刻まれた四つのコンクリートの小屋を順番に指差していく。


「……そんな大事なこと、忘れないでいただけますか?」


「だから悪かったってェ!」


 黄昏愛は冷え切った視線をドロテアへと向け、深い溜息を交えながら心底呆れたように刺々しい言葉を放つ。流石のドロテアも自身の失念を棚に上げることはできず、ばつが悪そうに顔を顰めながら大きな声で言い訳がましく応じる。


「それじゃあ、あの収容所の中に居る獄卒四天王を倒せば、鍵が手に入るってことか」


 敵を倒し、鍵を奪い、扉を開く。その明快な道筋が見えたことで、ちりの表情に微かな光明が差したかに見えた。


「おうッ! あ、いや……ちょっと待て! そういやァ……」


 ドロテアは一度は力強く頷いたものの、その直後に何か重大な要素を拾い上げたように言葉を濁し、再び記憶の迷宮へと深く潜り込んでいく。


「そうだ……思い出してきたぜ。あの収容所、入室制限があるんだよ」


「入場制限?」


 ちりが怪訝な表情でオウム返しに問う。


「一つの部屋につき、一度に入室できる人数は一人だけ。一度入ると、部屋の主である四天王を倒すか、降参を宣言するか、あるいは二十四時間が経過して強制退出させられるまで、外に出ることはできねえ」


 ドロテアから語られたルールの全容は、要するに多勢に無勢という有利な状況を完全に封じ込めるもの。つまり、四対一の集団戦で確実に各個撃破していくという手段は封印され、必ず一対一の闘いを強いられるということである。


「さらに厄介なのは、一度部屋から退出すると、次の入室まで二十四時間のインターバルが発生するところだ。もしその部屋の主を倒して鍵を手に入れても、二十四時間待たないと次の部屋には入れない。降参を宣言してすぐに部屋から出ても、ペナルティの時間はきっちりカウントされる……って言ってたぜ! 滅三川が!」


 不条理なルールの全容を語り終えると、後には重苦しい沈黙だけが残された。突きつけられた現実は、あまりにも時間的余裕を削り取る悪辣な罠。七日間というタイムリミットが迫る中、一つの部屋を攻略した者が次の部屋に向かうためには、丸一日のインターバルを消費しなければならない。それはつまり、誰か一人が連続して四天王を倒すという強行策が事実上封じられたことを意味していた。

 四人の少女たちの脳裏に、突きつけられた現実の過酷さが冷たい鉛のように沈み込んでいく。


「……最も効率的なのは」


 張り詰めた空気を切り裂くように、不意に一ノ瀬ちりが口を開いた。


「ここに居る四人全員が、四つの部屋に同時にそれぞれ入って、それぞれが四天王を倒して鍵を手に入れることだ。これならインターバルの制約も関係ない」


 ちりの提案は、まさに合理的な決断だった。四人が四つの部屋に分かれて、それぞれ四天王に勝利する。それならばインターバルの制約に縛られることなく、最短の時間で四つの鍵を同時に揃えることができる。


「その四天王とかいう怪異は強いのか?」


「そこまでは知らねェ。ま、こんな場所で門番を任されてるような連中だ。それなりには手強いだろうなァ」


 ドロテアの返答は曖昧なものであったが、その言葉の裏には、決して油断のならない強敵であるという共通認識が含まれていた。

 その不確定な要素を多く孕んだ状況と、ちりの無謀にも思える提案の意図を察し、九十九の顔色が変わる。


「ちり……大丈夫だ。私と愛が二人で二部屋ずつ攻略すればいい。無理に最短で攻略する必要は……」


 九十九は微かに声を震わせ、ちりの肩に手を伸ばそうとする。失うことへの恐怖が、彼女の冷静な判断を鈍らせていた。


「無理じゃねえ。こういうのは合理的って言うんだ。心配すんなって。オレだって無駄死にするつもりは毛頭ねえ。ヤバいと思ったらすぐに降参を宣言するさ」


 ちりは伸びてきた九十九の手を自らの手で優しく包み込み、その言葉を穏やかに、しかし確固たる意志を持って遮る。


「オレたち四人が手分けしてそれぞれの部屋に向かう。運が良けりゃ一発クリア。仮に誰かがやられたとしても、情報を持ってかえることが出来れば次に繋がる。これがベストだ。違うか?」


 ちりの口から紡がれた言葉は、周囲を取り巻く叫喚地獄の熱気を一瞬だけ押し留めるような、研ぎ澄まされた冷たさを帯びていた。かつてのように自らを罰するためではなく、ひたすらに合理的で冷静な判断だけがそこには存在している。


「……分かりました。それが最も効率的な手段であることは確かです。それに、私たちが負ける道理もありません」


 黄昏愛が静かに同意を示し、その漆黒の瞳に冷ややかな闘志を燃え上がらせる。視線は既に手元の空間を通り越し、自らが向かうべき堅牢なコンクリートの扉の奥深く、見えざる敵の喉元を正確に捉えているようであった。


「ハッ、面白いじゃねえか! 誰が一番早く首を獲ってくるか、競争と行こうぜい!」


 二人の少女が下した決断を歓迎するように、シスター・ドロテアもまた不敵な笑みを浮かべる。重い革のジャケットが筋肉の膨張によって鈍い摩擦音を鳴らし、その巨体から発散される暴力的な歓喜が、物理的な威圧感となって周囲の空気を歪ませていた。


「……ていうかあなた、強いんですか? 足手まといにはなってほしくないんですけど」


 その野蛮な威勢を鼻で笑うように、愛が冷ややかな視線をドロテアの巨躯へと向けて挑発の言葉を投げ放つ。


「ハッハッハッ! 安心しなァ、一対一(タイマン)じゃあ負けねェよ。手前テメエにもなァ、怪異殺し。いずれ決着つけてやるぜ」


 愛の突き刺すような言葉に対し、牙を剥き出しにして応酬するドロテアの態度は、共闘という枠組みを容易く踏み越えるほどの好戦的な熱を孕む。


「は? なんなら今ここで殺ります?」


「おォ? 己等は別に構わねェぜ?」


 売り言葉に買い言葉、愛の瞳孔が一瞬にして限界まで収縮し、細い指先がかすかに痙攣を始める。彼女の足元の影が僅かに変形し、肉体を動物のそれへと造り変える異能の発動準備が、無意識の領域で開始されようとしていた。


「落ち着けバカども」


 一触即発の空気を物理的に断ち切るように、ちりの低く鋭い声が両者の間に割って入る。彼女は赤い爪を隠した両手を軽く広げ、互いの視線が交錯する射線上に自らの身体を割り込ませた。

 その有無を言わさぬ迫力と、目的を見失うことへの強い苛立ちを込めた眼差しに射抜かれ、愛とドロテアは舌打ちを交わしながらも渋々といった様子で互いの殺気を収める。


「ちり、無茶はしないでね」


「おう」


 短い返答と共に、ちりは九十九の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。視線と視線が絡み合い、互いの体温を錯覚するほどの短い沈黙が二人の間で静かに流れる。もはやそれ以上の言葉は必要なく、斯くして方向性は定まり、少女達は動き出したのだった。


「……おいドロテア。この部屋、なんで番号が振られてんだ?」


 駅舎の周囲に配置された無機質なコンクリートの塊、窓一つない四つの小屋。各位どの部屋に入ろうか、適当に選別していたその最中。扉の前に立ったちりがふと疑問を漏らす。


「さァ? 知らねェ。別にどれ選んでも一緒だろ?」


「……そうか」


 ドロテアの無頓着な返答に、ちりは鼻の頭にしわを寄せて短く息を吐いた。釈然としない思考の靄を振り払うように、ちりは小さく頭を振って目の前の扉へと向き直る。


 そうして九十九は一番、愛は二番、ちりは三番、ドロテアは四番。それぞれに割り振られた番号の前に立った。冷たいコンクリートの表面から立ち昇る死の気配と、背後から絶え間なく押し寄せる亡者たちの悲鳴が、彼女たちの背中を容赦なく打ち据える。

 九十九は深く息を吸い込み、肺を満たす灼熱の空気をゆっくりと吐き出した。そして、自らが対峙すべき扉へと向かって、力強い一歩を踏み出す。

 叫喚地獄の悍ましい悲鳴が遠くで響く中、少女達は一斉に扉を押し開き、それぞれの死線へとその身を投じていったのである。

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