叫喚地獄 7
回想。二百年前。
芥川九十九が地獄に落ちてきて、最初に辿り着いたのは廃棄場だった。
地獄には人間しか落ちてこない。例外として、その人間が生前所有していた物が本来の役割を失った状態、壊れた状態で一緒に落ちてくることがある。衣類や装飾品などはその代表的な例だと言える。
等活地獄の廃棄場は、そんな役立たずのがらくたが様々な要因から流れ着き、一箇所に集まった場所。使用に耐え得る衣類などが稀に落ちていることもあるが、基本的には物が少ない地獄という環境においてでさえ投棄されるような塵の集まる場所。余程の事情でも無い限り好んで寄り付く者はいない。
そんな場所に、まるで誘われるように芥川九十九は辿り着いた。高く積み上がった塵の山、その頂上を目指して、彼女は壁のように反り立つ急斜をよじ登る。
天辺に突き刺さった鉄パイプを掴み、自身を引き上げるようにして頂上を踏破した彼女は独り、血のように赤い空と死屍累々の黒い大地を静かに一望する。その地獄の風景を暫し眺めていた彼女は、ふと微かにその身を震わせた。自分という存在が如何に孤独であるかを自覚したのか、全身に異様な寒気が走り抜ける。
その時彼女が視界の端で捉えたのは、鉄パイプに引っかかって風に靡く黒い襤褸切れ。よく見るとそれは学生服のジャケットであった。芥川九十九はそれを躊躇いがちに手に取ると、既に身に纏っていた黒いジャージの上からそれを羽織り、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。寒さに震える身体を自ら抱き締め、白い息を吐く。
寂しい。
彼女がこの地獄に産まれ落ちて、一番最初に抱いた感情がそれだった。
◆
エントランスホールは無人。天井高は三メートル程。壁に埋め込まれた、部屋の空き状況が解る液晶モニターだけが薄暗い空間の中で淡く主張している。
中央のモニターから右隣にはエレベーターのような自動開閉の扉が設置されていた。それ以上の特筆すべき物は何も無い、現世のそれと遜色ない、至ってシンプルな造り。しかし現世と遜色ない造りという時点で、地獄においては異常だという事は最早言うまでもない。
其処はラブホテル、ノアの箱舟。つい最近、愛とちりは二人で此処に訪れた事がある。今回は九十九を交えた三人で、彼女達は再びこの場所にやってきたのだった。
「なにそれ?」
「タッチパネルです。まずはこうやって部屋を選ぶんですよ」
タッチパネルのモニターを慣れた手付きで操作する愛。モニターに映った部屋の番号を指で押すと、その部屋の間取りと簡単な説明文が表示される。そして表示された間取りの下には、決定とキャンセル、二つのボタンもまた表示される。愛はその決定ボタンを何の躊躇いも無く指で突いた。
モニターが切り替わり「エレベーターをご利用ください」という文字が表示されてすぐ、小気味良い鐘のような音が鳴り響く。突然開け放たれたエレベーターの自動扉に、九十九は少し驚いた様子で目を丸くする。
「……本当に入るのか?」
その開かれたエレベーターを前にして、ちりがどこか躊躇いがちに口を開いた。後ろめたさを滲ませる瞳で、隣に立つ愛のことを横目に一瞥する。
「ええ。一応言っておきますが、選んだのは普通の部屋ですよ。『あの部屋』ではありません」
「…………」
静かに言葉を交わした後、箱舟の中へ乗り込む愛とちり。そんな二人の背を追って九十九もまたその中へ足を踏み入れる。扉は三人が収まると再び自動で閉じ、重い駆動音と共に上昇を始めた。
「二人は、此処に来たことがあるの?」
「はい。ノアの箱舟。私達が調査した、例の暗号の隠し場所ですよ」
「あ、そっか。暗号。そういえばそんな事もあったね。懐かしい」
「……懐かしいか。オレ達にとっちゃ、つい最近の出来事なんだけどな」
ささやかな言葉を交わす彼女達を乗せたエレベーターは、数秒後にはその動きを止めていた。再び鐘のような音が鳴り、扉が自動的に開かれる。エレベーター内を出てすぐ、真っ直ぐに通路を進むと、左右の分かれ道へと突き当たる。壁に張り付けられた右矢印の看板が点灯しており、その通りに進むと目的の部屋の前まですぐに辿り着くことが出来た。
「ここですね」
先陣を切る愛が歩みを止め、眼前に立ち塞がる冷ややかな金属のドアノブに躊躇いなく手を伸ばし、固く握り締める。微かな力を込めて手首を捻り込んだ瞬間、重厚な見た目とは裏腹に予期していた物理的抵抗は全く発生せず、扉は呆気ないほどの軽快さを伴って内側へと滑らかに開かれた。
乾き切った蝶番が擦れ合う微小な金属音が重苦しい静寂を唐突に切り裂き、開かれた暗闇の奥底から正体不明の生温かい空気がゆっくりと漏れ出してくる。その未知の領域で容赦なく足音を踏み鳴らす愛の背後で、やはりどこか重い足取りのまま一ノ瀬ちりは息を殺すようにその中へ入っていく。そんな彼女の様子に首を傾げながら、九十九もまた一歩を踏み出した。
「へえ……?」
玄関から続く短い廊下を抜け、張り詰めた緊張感の中で視界が一気に開けたその直後、九十九の口から感嘆の声が漏れ出た。四方の壁面、床に敷き詰められた柔らかな絨毯、頭上の天井に至るまで、視界に飛び込んでくる全ての面積が狂気的なまでの鮮やかなピンク一色によって完全に塗り潰された空間。壁面の等間隔に配置された装飾過多なランプシェードからは、爛れた桃色の光が空間全体へと粘着質に降り注ぎ、本来ならば薄暗いはずの室内を毒々しく、どこか淫靡な雰囲気で彩っている。
部屋の重心を占める中央部分には、周囲の強烈な色彩から完全に浮き上がった純白のシーツが眩しい、過剰なまでに巨大で豪奢なダブルベッドが圧倒的な存在感を放ちながらどっかりと鎮座していた。安価な人工芳香剤の甘ったるい香りと、微かに混じる消毒液の匂いが鼻腔の奥を強く突き刺す。
それはどこからどう見ても何の変哲もない、ただの俗悪なラブホテルの一室。かつて愛とちりが利用した『433号室』と内装自体は殆ど変わりない。違いがあるとすれば、その空間にはきちんと窓があり、シャワールームがあり、後ろを振り返っても出入り口が消えてなどいなかったこと。如月真宵の手が及んでいない、普通の部屋である。
「なんだか、不思議な雰囲気のお部屋だね?」
「実家のような安心感がありますよね。結界を張ります、少々お待ちを」
忙しなく視線を泳がせながら無邪気な感想を口にする九十九の傍ら、愛は自らの異能で糸を編み出し、空間のあらゆる余白にそれを張り巡らせていく。やがてその部屋は全体が繭のように白く覆われ、カタリナが『穴』を作り出す余裕の無い安全地帯と化していった。
白く染まった部屋の中、九十九は深い溜息と共に覚束ない足取りでベッドの傍まで歩み寄り、そのまま自身の体重を支えることを放棄した崩れ落ちる動作を伴って、豊かな弾力を持つダブルベッドの縁に深々と腰を沈めたのだった。
「はあ……! 疲れた……」
ところで此処は酩帝街。ほんの一瞬でも『休みたい』と心の底から思ったなら、その気持ちにすら反応して堕天王『酒呑童子』の異能はその効果を発揮する。
沈み込むスプリングの柔らかい感触に体重を預けながら、九十九の口から安堵と疲労を伴う声が溢れ出した瞬間、空気中を漂っていた盛者必衰の酒気はその色と香りを一層濃くしていった。酩酊の霧がその場に居る者達の肌に纏わり付き、抗いようのない酩酊感に頬が朱を帯び始める。
「あっつ……」
不意に感じた身体の熱に、九十九は堪らず学生服のジャケットを脱ぎ捨て、ジャージをも床に捨て去る。汗の滲んだ肌着一枚の姿になった九十九の姿から、ちりは露骨に視線を逸らして、静かにその頬を紅く染めていた。
「……それで? 何があったんですか?」
そんなちりのどぎまぎしている様子を横目に伺っていた愛が、満を持して口を開く。愛は当然、あの『净罪』の地下室で九十九とちりの間に何があったのか、その詳細を知らない。ただ何か大きな転機があったことだけは流石に勘付いていた。
「伝えたんだ。ちりに。好きだって。私の気持ち」
その問い質すような視線を受けた九十九は、とは言えわざわざ隠すようなやましい事があったわけでもないので、ありのままあった事を当然のように言い放つ。その言葉にちりの頬は更に赤く染め上がり、愛はその黒い瞳を一際大きく見開かせる。
「まあ」
愛の表情は見る見る内に明るく晴れ渡っていき、綻んだ頬は隠し切れない高揚を滲ませていた。その視線を九十九とちり、両者の間を忙しなく行ったり来たり。
「おめでとうございます」
「ありがとう。愛のおかげだよ」
「私の? ですか?」
思いがけない言葉にきょとんとした表情浮かべる黄昏愛。そんな彼女にふっと柔らかな微笑をこぼして、九十九は軽く頷いてみせる。
「想いは言葉にしないと伝わらないって。愛にそう言われて、それでやっと気付けたんだ。自分の気持ち」
自らの内に芽生えていた感情の正体。それを明確な形として認識できたのは、愛から与えられた言葉が道標となったからに他ならない。九十九の赤い瞳には、過去の光景を愛おしむような温かな色が宿っていた。
「私、そんなこと言いましたっけ」
ただし当の愛本人は、自身の記憶の引き出しをいくら漁っても該当する言葉が見つからず、困惑に眉をひそめるばかりである。
「うん。別の世界線でね」
前回。一ノ瀬ちりが拐われて茫然自失に陥っていた九十九の頬を引っ叩き、奈落の底から掬い上げたのは他でもない黄昏愛である。その出来事があったからこそ、芥川九十九は精神的に成長することができた。自覚すらできないほど当たり前に根付いていた、自分のほんとうの気持ちをその一件で、九十九は自覚することができたのだ。
「あぁ……そうなんですね。なるほど……私がそんなことを……」
無論そんな経緯など知る由もない黄昏愛は、不思議そうに小首を傾げる。それでも九十九の確信に満ちた声色を受け入れ、自身の与り知らぬところで誰かの救いになっていたという事実を彼女なりに反芻しているようであった。
「うん。それでさ、ちり」
九十九はそのまま自然な流れを装って、話題の矛先をちりへと移す。突如指名されたちりは人知れず静かに心臓を跳ね上げさせ、喉の奥が一気に干からびるような感覚に襲われる。ずっと床に向けられていた視線を、恐る恐る、針のむしろに座るような心地で九十九のほうへと向ける。ようやく重なった視線を絶対に逃さないよう、九十九は目元を細め、満面の笑みを浮かべた。
「返事。まだだよね」
「え゛」
それはまさに、悪魔の笑顔。弧を描く唇の隙間から突如放たれたその直球な言葉に、肺の空気を一気に搾り取られたちりは、思わず蛙が踏み潰されたような素っ頓狂な声を上げるのだった。
「私、ちりのことが好き。ちりは? 私のことどう思ってる?」
恐ろしいほど柔らかな口調で、悍ましいほど穏やかな微笑で。一切の敵意なく、ただ純粋な好意で以て追い詰める。気圧され言葉詰まらせる一ノ瀬ちりは、助けを求めるように愛のほうへと慌てて視線をやるが――そこには「あらあらまあまあ」と目を輝かせる愛の姿。前門の九十九、後門の黄昏愛。当然逃げ場など無い。
「……っ。あぁ……わかった……わかったよ……!」
数巡の呼吸ののち、ようやく観念したちりは肺の奥に溜まった空気を深く深く吐き出した。もはや熟れた果実のように真っ赤に染まった顔を上げ、開き直ったように声を張り上げる。
「オレも……好きだ。九十九のこと……」
肺の奥底から強引に絞り出されたその告白は、静寂に支配されていた空間に確かな熱を伴って溶け込んでいった。張り詰めていた空気が僅かに弛緩し、言葉を発した一ノ瀬ちりの頬には朱色の熱が名残として貼り付いている。
「……でも」
しかし彼女の表情から、長きにわたって心を縛り付けていた苦悩の色が完全に払拭されたわけではなかった。九十九と愛が歓喜の声を上げそうになった矢先、ちりの口からすかさず重苦しい声が紡がれる。その短い接続詞には、彼女が抱え続けてきた罪悪感が凝縮されているようだった。視線は再び床へと落ち、その声を微かに震わせる。
「やっぱりまだ……オレはオレのことが許せない。この先、未来永劫……許すつもりは無い」
「ちり、それは……」
「勘違いしないでくれ。だからって、この身を犠牲にしようだなんてもう思わない。これ以上ぐだぐだ言うつもりもねえ。ただ……それはそれとしてだ。純粋に疑問なんだよ。どうして、こんなオレのことを……好きでいてくれるのか」
ちりは顔を伏せたまま、まるで血を吐くように、自身の内側で渦巻く感情を必死に言語化しようと試みる。どれほど肯定されようと、多くの過ちを犯してきた自身に向けられる無償の愛情の根拠が、ちりにはどうしても理解できなかった。生前より他者から愛情を注がれた経験に乏しい彼女にとって、裏表の無い純粋な好意を正面から向けられるのは、これが生まれて初めてのこと。愛情という概念そのものが、彼女にとっては触れれば火傷を負う未知の劇物と同義である。
「九十九は優しい。だからオレを見捨てないでいてくれる……そう思ってた。けど……きっと、それだけじゃないんだよな……?」
だからこれは、必要な儀式だった。縋るごとき響きと、答えを聞くことを恐れる感情が、脆く揺らぐちりの声に混ざり合う。
「――最初に生き方を教えてくれたのは、ちりだった」
その痛切な問いかけに対する九十九の返答は、どこまでも澄み切った清らかなものであった。淀みのない赤い瞳が、遠い過去の光景をありありと映し出している。果てしなく広がる血のような赤い空と、絶望の象徴として世界を睥睨する黒い太陽の下で交わした、二人の最初の記憶。
「……でも、その生き方は間違っていた」
「違うよ、ちり。そういう話じゃない」
ちりが即座に否定の言葉を被せる。その上から更に被せるように、九十九は静かに首を振り、ちりの言葉を優しく遮った。
「私は何も知らなかった。もし最初にちりと出逢っていなかったら、今頃どうなっていたかわからない。ちりが生き方を教えてくれたおかげで、私は今日まで生きてこれたんだ」
かつて虚無の淵をあてもなく漂っていた己に、存在意義という確かな輪郭を与えてくれたのは、他でもないちりの存在である。最初の出逢い――その事実だけは、たとえ当の本人が否定しようとも、決して変わることのない不変の真実。
「……もっと良い生き方があったはずだ」
「無いよ」
拭いきれない後悔がちりの口を衝いて出るが、それ以上悩む暇すら与えない速さで、九十九の言葉はそれを容赦なく遮る。
「たとえ時間を巻き戻せるとしても、その生き方を、最初の出逢いを、やり直したいとは思わない。確かに等活地獄で過ごしたあの日々は、辛くて、苦しくて、大変だった。でもさ、そんな大変な日々を……どうして私は続けてこれたんだと思う?」
九十九の脳裏を、地獄での過酷な記憶が凄まじい速度で駆け抜けていく。悪意に満ちた視線。無責任な期待の声。悪魔化の代償によって肉体が幾度も引き裂かれる感覚。再生のたびに精神が鋭く摩耗する限界の状況下にあって、それでも決して心が完全に折れることなく、両足で大地を強く踏みしめて立ち続けられた理由。
「ちりがいたからだよ。ちりが傍にいたから、私は生きていけた。ちりじゃなきゃダメだったんだ」
はっきりと、力強く。薄暗い室内に、芥川九十九の凛とした声が反響する。外界から切り離された空間にあって、間接照明の毒々しい光が彼女の眼差しを強調していた。対峙するちりの顔には動揺が浮かび、赤い瞳は焦点を探して震えている。九十九は相手の狼狽から目を逸らさず、真実のみを真っ直ぐに叩きつける。
「そして、その生き方を続けてきたおかげで……私は愛と廻り逢えた。愛のおかげで、私は自分の気持ちに気がついた。新しい生き方を見つけることができた。その人生を、三人で一緒に歩みたいと願うようになったんだ。今の私がいるのは、愛とちりがいてくれたからなんだよ。ほんとうに、感謝してる」
九十九の視線は、立ち尽くすちりから、傍らで見守る愛へと静かに移り、そして再び二人を包み込むように柔らかく広がっていく。部屋を満たすのは清潔なシーツの匂いと、互いの熱を帯びた呼気のみ。愛の漆黒の瞳には喜びの光が宿り、対するちりは未だ音声を処理しきれずに呆然と立ち尽くしていた。
「ちりと過ごした時間の中で、愛と過ごした時間の中で、私は今の私になった、ふたりのことを好きになった。ちりは私に引け目を感じていて、愛は……他に好きな人がいる。それでも……諦められない」
ちりの罪悪感も、愛の胸に秘められた別の想い人も、九十九はすべて理解した上で引き受ける覚悟を決めていた。常識という名の脆弱な枷を容易く打ち砕くほどの、途方もなく純粋で巨大な愛情の奔流が彼女の全身から溢れ出しているのがまるで目に見えるようで。もはや周囲の空間を僅かに歪ませるほどの熱量がそこには存在した。
「好きだ。ふたりのこと、まとめて私が幸せにしてみせる。だから……お願いします。私と一緒に生きてください」
一切の退路を断ち切る、真っ直ぐで不純物のない想いの吐露。それは表面上、懇願の形をとりながらも、有無を言わせぬ迫力を伴っていた。悪魔の如き幻葬王とはよく言ったもので、今の彼女からは正しく王者の風格が漂っている。
「……いいかな?」
そうして静かに発せられた最後の問いかけは、もはや相手の意思を確認するものというより、宣告に近かった。空間が呼吸を忘れ、刻まれる時間が完全に静止したかのような錯覚が、場を温かく覆い尽くしていく。
「……………………」
永遠にも似た重い沈黙が、三人の間にゆっくりと降り積もっていく。ちりの内側で無意識に探し求めていた否定の言葉、その思考の空回りはやがて限界を迎え、完全に停止した。全身を強張らせていた無駄な緊張が、足元から音を立てて崩れ落ちるように抜け落ちていく。
抗うことなど最初から不可能であったのだ。この圧倒的な熱を伴う純白の光を前にしては、己の内に巣食う罪悪感や自己否定など、真夏の太陽に炙られた薄氷の如く、為す術もなく溶け去るほかに道はなかった。
やがて、すべてを諦め完全に観念したような、それでいてどこか心の底からの深い安堵を含んだ小さな吐息が、ちりの乾いた唇からそっと零れ落ちた。
「…………よろしく、おねがいします…………」
それは、彼女達が新たな未来へと歩み出す為に必要な、誓いの言葉。
運命の歯車が噛み合い、前進を始めたという確かな手応えが共有された、決定的瞬間。
斯くして少女達は、ようやくほんの少しだけ――相互理解を深めたのである。
◆
さて。これにて一件落着、めでたしめでたし――とはならないのが、この物語。
むしろある意味で、本題はここからなのだった。
「それじゃあ、しましょうか。セックス」
黄昏愛の両手が軽く打ち鳴らされ、乾いた破裂音がそれまでの空気を一瞬にして粉砕した。彼女の至って端的に放たれたその一言は、余韻に浸る余裕すら与えないほどの破壊力を伴って投下される。
「……………………」
ちりの表情はすべての機能を停止させた機械のごとく固まり、わずかに開かれた口からは声にならない掠れた息が漏れ出ている。脳髄に直接叩き込まれた情報が処理能力の限界を突破し、彼女の理性は一時的な思考の放棄を選択せざるを得なかった。
「なんて顔してんですか。両想いのカップルが今ラブホテルに居るんですよ? だったらヤることは一つでしょ」
愛は呆れたように小さく首を傾げ、一切の恥じらいを持たない漆黒の瞳で二人を交互に見つめる。その白く細長い指先が、先程から九十九が鎮座している無駄に広く豪華な装飾が施されたベッドへと向けられた。
「おまッ……オマエ……オマエさあッ!? マジッ……頭おかしいんじゃねェの!?」
一瞬にして限界に達したちりの声帯が、引き裂かれる類の絶叫を空中に放たれる。首元から耳の先まで一気に朱に染まった彼女は、激しい身振りを交えながら愛の狂気を正面から非難する。
「何を今更。それよりほら! 練習の成果を見せる時ですよ!」
「バッ……!? テメ……ッ!!? このッ……あほ!! あほッ!!!」
非難を浴びた愛は悪びれる様子を見せるどころか、無邪気な笑顔でガッツポーズまでしてくる始末。休憩先にラブホテルを選定した時点で、むしろこうなる展開をある程度見越していたのだろう。『練習』という名目で交わした秘密の協定、共犯関係にあるはずのちりを、愛はここぞとばかりに窮地へと追い詰めていく。
「セックス? ってなに?」
二人が繰り広げる激しい攻防の傍らで、芥川九十九はぽつりと純粋な疑問を音にする。修羅場と化した空間に投じられたその一言に、ちりは卒倒しそうになる身体を根性だけでどうにかその場に踏み留まらせていた。
「愛し合う者同士が行なう神聖な儀式ですよ」
「そうなんだ。じゃあやらなきゃ」
絶好の機会とばかりに愛は踵を返し、九十九の正面へと滑り込む。悪魔の囁きは、容易く九十九の理性を染め上げた。与えられた偽りの知識を微塵も疑うことなく受容した彼女は、そのままの勢いでちりの正面へと向き直る。
「ちり、セックスしよう?」
「な、な……ッ!!? そっ……!!!! …………~~~~っ!?!?」
ちりの声帯は意味のある言語を紡ぐ機能を完全に喪失し、肺から絞り出される奇声だけが空気を震わせた。自らの両頬を強く押さえ込み、靴底を引きずりながら後ずさる足取りは致命傷を負った敗者のそれである。頭頂部から熱が噴き出しそうなほどの羞恥が思考回路を焼き切っていた。
「セックスって、何をすればいいの?」
「簡単です。自分がされて気持ちいいことを、相手にもしてあげればいいんですよ」
九十九のどこまでも純粋な問い掛けに、愛の助言が横合いからすかさず差し込まれる。しかしそれでもいまいちピンときていない様子で、九十九の整った眉間には深い皺が刻まれていた。
「きもちいいこと……? よくわからない……」
「……ん? もしかして九十九さん……おひとりでシたことすら無い……?」
「当たり前だろッ!!!!」
「なんであなたが答えるんですか???」
前方の激しい口論を余所に、九十九は暫し無言のまま考え込む。逡巡ののち、九十九はベッドに鎮座したまま上体を前に屈め、言い争う二人の顔を覗き込んだ。その凪いだような赤い瞳は依然として、未知に対する旺盛な探究心に輝かせている。
「ちりは知ってるの? セックスのやりかた」
「――――――――」
まさに無垢なる残酷さを体現したような問いかけ。もはや完全な思考停止に陥る一ノ瀬ちりだったが――長い硬直の末、閃いた。
「……………………いや。知らねえ」
もとい、理性のたがが外れたとも言う。
「は? 何言ってんですかあなた。練習したでしょ」
「いーやオレは何も知らねえ。だから……コイツに教えてもらおうぜ、九十九」
窮鼠が猫を噛む体裁で、ちりの口元に自暴自棄の入り混じった獰猛な笑みが浮かび上がる。そうして彼女はおもむろ、隣に立つ愛の手首を強引に掴み寄せたかと思えば、共に九十九の前へ一歩、自ら踏み出したのだった。
「知ってんだろ? オマエ。セックスのやりかた。なァ?」
「えっ」
その一瞬何が起きたのか理解が追いつかず、愛の口からは反射的に呆けたような短い音を漏らした。その表情から余裕の笑みが剥がれ落ちる。
「そうなんだ。愛は何でも知ってるね。じゃあ教えてもらおうかな」
ちりの言葉を真に受けた九十九が、その目の輝きをより一層強くさせる。その瞳が齎す引力に吸い込まれるように、ちりは愛の手を取ったまま九十九の目の前まで前進した。目の前までやってきた二人の手首を片方ずつ、九十九はそっと掴み取る。
あっという間に両手の自由を失い、こうなってようやく自分の置かれた状況を把握した黄昏愛。滲み出た汗が頬を伝い流れ落ちる。
「いやいや……私、お邪魔虫でしょ?」
「何言ってんだ今更。逃さねえぞ。こうなった責任、取ってもらうからな」
「お、落ち着いてください。九十九さん、初めてなんですよ? 初めてでいきなり3Pはちょっと……刺激が強すぎるのでは?」
退路が完全に絶たれたことを悟った愛は、最後の抵抗として常識的な配慮を口にするが、当然なんの説得力も無い。そも小手先の理屈など、芥川九十九という存在の前ではただ吹き飛ばされる塵芥に過ぎなかった。
「よくわかんないけど、私なら大丈夫だよ! 三人でしよう、セックス!」
これから何をするのか全く知らないまま、それでもこの三人なら大丈夫だという確信を以て、彼女は満面の笑みと共に最強の結論を叩きつけた。無邪気な王の宣言が、この場の空気を一つの方向へと収束させる。
「ほら、九十九がこう言ってんだ。観念しろ」
「えぇぇ……」
こうなったら道連れだと言わんばかり、意地の悪い笑みを浮かべるちり。その真っ赤に染まった彼女の顔を間近に捉えた愛は、誂いすぎたことを些か後悔するように、脱力し切った深い吐息を漏らすのだった。
◆
世界の滅亡がかかった七日間。
その幕間、確かにあった幸福のひと時。
少女達の夜は更けていく。




