叫喚地獄 6
次に九十九が閉ざされた重い目蓋を押し上げたとき、視界の枠を埋め尽くしたのは、既視感のある天井を這う不規則な木目の文様であった。
視神経がその情報を脳に伝達するよりも早く、鋭い痛みが依然としてこめかみの裏側で脈打ちながら赤い火花を散らし続けている。血液が血管の壁を内側から叩く微小な衝撃すらも、今の異常に過敏となった神経には深く響いてくる。
「……! 九十九……大丈夫か?」
いつの間にかベッドの上に寝かされていた九十九は、すぐ目の前で木製の丸椅子に腰掛けているちりの姿を捉えた。ちりは焦燥と安堵が入り混じったような表情を浮かべており、そんなちりの隣で静かに寄り添っていた愛もまた、そっと胸を撫で下ろしたように息を吐いている。
九十九は身体を半分だけ起こし、無意識に辺りを見回していた。重い頭部を巡らせた部屋の中に、あの白金色の髪を気儘に揺らし、不敵な笑みを浮かべていた少女の姿はどこにも見当たらない。滅三川ジェーン瞳。彼女の欠落した室内の空気は、どこか冷え切っているように感じられる。
「……ごめん。私が……もっと早く動けていれば……」
状況を完全に理解した瞬間、九十九の口は起床して早々に力無い贖罪の言葉を微かに溢れ出していた。その乾き切った薄い唇を、彼女は無意識に強く噛み締める。自らの無力さが引き起こした結果を前に、胸の奥底から込み上げる感情の波を必死に押し殺すことしか、今の彼女にはできなかった。
「もともと『禁后』の後遺症で弱ってたんだ。仕方ねえよ」
傷ついた九十九を気遣うように、ちりは温かな声色を静かに投げかける。それでも未だ拭い去れない自身の不甲斐なさに力なく視線を彷徨わせていた九十九の鼓膜を、唐突に部屋の空気を切り裂くような無遠慮な足音が容赦なく叩き打つ。
「おッ! 目ェ醒ましたかァ」
その時、リビングの奥から不躾な気配と共に現れたのはシスター・ドロテアであった。部屋の中にぬっと顔を出してきた彼女は、サングラスの奥に潜むその金色の魔眼を九十九達の居る方へと一切の遠慮無く真っ直ぐに向ける。
「早速で悪ィが、状況が状況だ。させてもらうぜい、今後の話をなア」
ドロテアは部屋の壁に背を預けながら腕を組み、室内に漂う沈痛な空気を意にも介さない様子で、口元に不敵な笑みすら浮かべながら淡々と告げる。
「手前さん等も知っての通り、ついさっき滅三川が連れ去られた」
ついさっきという口振りからして、どうやら九十九が気を失っていたのはそう長い時間でも無かったらしい。一刻を争う状況において、九十九はそっとを胸を撫で下ろす。しかし問題はその後に続く言葉。
「てな訳で、これから叫喚地獄に向かうぜい。タイムリミットは七日間。それまでに滅三川を助け出さないと世界が滅ぶ。解ったなァ?」
「……は? いや……ちょっと待ってください。状況の理解が追いついていません」
飛躍しすぎた論理展開に対し、愛が怪訝な表情を隠すことなく露わにして鋭く問い返す。あまりにも唐突に告げられた次なる目的地と、その背後にあるはずの不可解な因果関係が、愛の論理的な思考回路を激しく摩擦させていた。彼女の眉間には深い皺が刻まれ、怒りにも似た苛立ちがその声の端々に明白に滲み出ている。
「そもそもどうして、あの滅三川とかいう女は連れ去られたんですか? それがなぜ世界の滅びに繋がるんですか?」
「あァ? どうしてって……『賢者の石』が奪われたからに決まってンだろ?」
「は? 賢者の……なに? なんですかそれ。順を追って説明してください」
愛は両手を苛立たしげに腰に当て、相手の要領を得ない説明を真っ向から遮るように語気を荒げる。目の前で繰り広げられる理解を超えた事象の連続に、彼女の限界を超えつつある忍耐力が軋みを上げていた。それでもドロテアは全く悪びれる様子を見せず、むしろ理解の遅い子供を諭すかのような大仰な身振りを交えながら、自身の主張を一方的に展開し続ける。
「だからよォ、アポロニアが賢者の石を食っちまうと世界が滅亡するだろォ? 千年前もそうなりかけたけど、そん時は滅三川が阻止したんだよ。だから今回も阻止する。簡単な話じゃねえか」
「だからそれが意味わかんないって言ってんですけど!?」
「あァ!? 話の通じねェ奴だなァオイ……!」
完全に平行線を辿る二人の対話は、互いの言語体系が根本から異なっているかのような絶望的な断絶を感じさせた。ドロテアは己の常識が通じないことに本気で苛立ちを覚え始めたらしく、荒々しく髪を掻き毟りながら大きく舌打ちをする。そして矛先を変えるように、今度はベッドの上で事態の推移を静観していた九十九の方へと鋭い視線を向けた。
「ほらッ、芥川九十九! 手前さんなら解るだろ? 己等の言ってることがよォ!」
「いや……そんな話、私も知らないけど……」
突然同意を求められた九十九は、微かに肩を竦めながら困惑の表情を浮かべて力なく首を横に振る。彼女が持ついかなる記憶の断片を手繰り寄せても、千年前の出来事は勿論のこと、アポロニアや賢者の石などというワードについては全く覚えが無い。
「オイオイ……マジかよォ……! ンな事も知らずに手前さん等、拷问教會に挑もうとしてたのかア!? ハァ~~……! ッたく、しょうがねえ奴等だなア!」
そんな九十九の反応すらドロテアにとっては予想外だったのか、彼女は心底呆れたように大きく肩を落とし、大袈裟なため息を室内に響き渡らせる。
「いいぜい、己等がまとめて面倒見てやる。本来、手前にはそんな義理もねェんだが……今回だけは特別だ。滅三川に感謝しなア、怪異殺しの嬢ちゃんよオ」
「……こいつ殺していいですか?」
「気持ちは解るが一旦落ち着け……」
限界に達した愛が、冷ややかな殺意を込めた瞳でドロテアを睨みつけながら、恐ろしいまでに静寂な声で許可を求める。そんな今にも飛び掛からんとする彼女に、ちりは自らの体重を預ける形で少女の姿勢を崩し、その視線を無理やりドロテアから引き剥がすことで、辛うじてその場の暴発を防ぎ止めることに成功していた。
「とは言え、どッから説明したもんかなア。えっとォ……なんだっけほら……あァそうだ、第三席! あいつの異能、物を融かして取り込めるだろォ?」
一触即発の危機が目の前で回避された事実に対し、当のドロテアは欠伸でも噛み殺すかと思わせる平然とした態度を崩さない。彼女は愛から向けられた濃厚な殺意など路傍の石程度にしか認識していない様子で、無造作に自らの後頭部を掻き毟りながら次の言葉を探し始める。
「……そのバルバラとかいう奴のこと、私は知らないんですけど」
「あ、えっと……私が後で詳しく教えるね」
水と油すら生温い、決定的なまでの相性の悪さ。流石の九十九もそれを察し、慌てて横から補足する。ドロテアはそんな二人のやり取りを待つことなく、再び一方的な状況の説明を強行し始めた。
「あの『恐怖の大王』――第六席の異能も、それと似たような感じでよオ。奴はどんな物でも食っちまうし、食った物の性質や能力を吸収しちまうンだ」
恐怖の大王。その忌まわしい異名が能力の詳細と共に空間へと放たれた瞬間、弛緩していた室内の空気が急速に引き締まっていくのを全員が肌で感じていた。ドロテアの説明はまだ始まったばかりで、それもざっくばらんとした内容だったが、それでも『万物を捕食しその性質を自己の能力へと置換する』というその異能は、これから語られるであろう話の続きが碌でもない内容であることなど想像に容易い切り口であった。
「で、賢者の石ってのはァ、人工的に造られた異能の結晶――いわゆる人造呪物ってェ代物でなア。それ自体は本来、毒にも薬にもならねえただの石ころなんだよ。ただ『絶対に滅びない』って性質があるだけのなア」
話題は核心へと迫り、誰しもが思い描いた嫌な予感もまた早々にして確信へと至る。窓の外から差し込む鈍色の光が、室内に落ちる影の輪郭を濃く抉り出す。埃の舞う静寂の中、九十九の頭脳は与えられたピースを次々と繋ぎ合わせ、最悪の完成図を組み上げていた。
「つまりだ。アポロニアが賢者の石を食っちまったらァ、奴は絶対に滅びない肉体を手に入れちまうっつう訳だなァ。そうなりゃあ、あの羅刹王ですら殺せない怪物の出来上がりだア。そうなったアポロニアを羅刹王にぶつけようってのが、奴等が千年前に実行しようとしていた計画だぜい」
カロリーを摂取して能力を吸収する『恐怖の大王』は、カロリーを消費して能力を模倣する黄昏愛の『ぬえ』と非常に酷似した異能だと言えるだろう。違いがあるとすれば、愛の模倣対象は既存の生物や怪異などの有機物に限定するのに対し、アポロニアは人造呪物すらも捕食対象にすることができる点。
覚醒した黄昏愛の無限の再生能力ですら太刀打ちできなかったあの羅刹王の炎に、賢者の石を取り込み概念としての不滅を体現したアポロニアであれば対処可能というわけである。
言うなればそれはプランC。如月真宵でもなくマルガリタでもない第三のルート。拷问教會にとっても、空から突然降ってきた『恐怖の大王』という存在は予定外の規格外。だがこれを利用しない手は無いと、千年前に急造されたそのプランはしかし、こうなる事を唯一見越していた滅三川ジェーン瞳によって阻止される。
「千年前。滅三川はそれを阻止して賢者の石を奴等から奪い、今日まで逃亡生活を続けてきた。とは言え、このまま逃げ続けていても世界の終わりは結局変わらねェから……芥川九十九。滅三川は、手前に賭けることにした。だから表舞台に姿を現したんだ。いずれこうなる未来も承知の上でなア」
「待てよ」
その時、即座に異を唱えたのは一ノ瀬ちりだった。彼女の短い発声は、一秒でも早く正確な情報を引き出そうとする意思の表れ。その鋭い声が空気を切り裂く。
「滅三川はその賢者の石とやらを持っていたのか? 今もずっと?」
「おう。安全な場所に隠そうって案もあったらしいがァ、今の地獄に奴等の目の届かない安全な場所なんてねェからなァ。結局、未来を見通せる自分が持っていたほうが一番安全だってよォ」
「……その滅三川が、たった今連れ去られたわけなんだが。ならもう、詰みじゃねぇか……?」
悪びれる様子もなく平然と応えるドロテアに対して、ちりの声音は隠し切れない焦燥が混入する。論理的に考えれば、世界の命運はたった今、最悪の結末を迎える事が決定したわけで。
「安心しなア、まだ終わってねえよ。アポロニアが食った物を完全に吸収するには、それを胃袋に収めてから暫く時間が掛かるんだ」
そんな徐ろに訪れた絶望の気配を、ドロテアの力強い言葉が否定する。
「どれくらい掛かる?」
「言っただろォ? タイムリミットは七日間。それも階層ごとの時間の流れに関係なく、人間の体感できっちり七日だ。それがあの『恐怖の大王』とか呼ばれてる悪魔の怪異、シスター・アポロニアが持つ異能の制約だってよォ。滅三川がそう言ってたんだ、間違いないぜい」
七日。神の定めた一週間というその明確な数字が提示された瞬間、僅かながら抗う余地が残されているという事実が、九十九達の硬直していた思考の歯車を再び回転させ始めた。絶対的な終わりまでの猶予が与えられた安堵と、その短すぎる期間内で状況を覆さなければならないという重圧が、同時に心臓を締め付ける。
◆
「しっかし……恐怖の大王。ノストラダムスの予言か……懐かしいな」
ふと、ちりが独り言のように低く呟く。その横顔には、遠い過去の情景を幻視しているかのような独特の郷愁が浮かんでいた。
「一九九九年、七の月、空から恐怖の大王が来る……ってやつですね。当時流行した終末論、私も本で読んだ覚えがあります」
恐怖の大王。それはかつての時代を生きた現世の住人達にとって、幾度となく耳にしたであろう終末の代名詞。その知識の羅列を黄昏愛が反芻する。
「ま、生前のオレはその予言の日が来る前に死んじまったけどな。でも結局何も起きなかったんだろ? そんな与太話すら、地獄じゃ怪異扱いか……」
人類が自らの滅亡を幻視した時代の象徴が、本来ならば何の力も持たないはずの虚構が、形を変えて今この瞬間、質量を伴った怪物として君臨しようとしている。それを現実の物としてしまうこの世界の不条理さに、ちりの唇の端は思わず歪み、乾いた嘲笑の形を造っていた。
「七日間か。意外とあるね、猶予」
深く息を吐き出しながら、九十九は思わず一時的な安堵を言葉に乗せた。しかしその反応を見たドロテアが、軽く首を振りながら口を開く。
「いや、そうでも無いぜい。第三階層から第五階層まで移動すンのに、己等の体感でも四日は掛かったからなァ。その道中も何があるかわかんねーしよォ、早めに向かったほうがいいだろうなァ」
地獄における時間の概念は曖昧で、個々人の感覚に大きく依存する。階層ごとに流れている時間も早さも僅かながら異なり、特に階層間を移動する際に乗車する猿夢列車内においては、片道の移動で数日の時間を体感することがある。
タイムリミットは七日間。しかし移動の時間を考慮すると、実際の猶予はもっと短いと考えていい。ならばすぐに此処を発つべきなのは誰の目にも明らかであった。しかしドロテアの言葉を聞いた直後、ちりはふと視線を九十九の全身へと這わせ、僅かに眉根を寄せる。
「……それでも、一日程度の猶予はある。そう考えていいよな?」
彼女はそのまま鋭い視線をドロテアの方へと移し、低い声を室内の淀んだ空気の中へと響かせた。
「ン? 嗚呼、まァそうだな。一日くらいなら余裕はあるだろうよォ」
「だったら九十九のことを少し休ませてやりたい」
そうしてドロテアから返答を引き出したちりは、何の躊躇いもなくその提案を口する。その鋭い視線の正体は、九十九の安全を最優先事項として確保しようとする揺るぎない決意の表れだったのだ。自らを案ずるその真っ直ぐな言葉が、九十九の疲弊しきった心に深く沁み込んでいく。
「え? 私は大丈夫だよ」
即座に否定の言葉を口にしたものの、自らの声が想像以上に掠れていることに九十九自身が驚かされた。強がりは明白であり、その証拠に足元は微かに覚束ず、今にも崩れ落ちそうな危うさを孕んでいる。
「鏡見て言え。顔色やべーぞ」
「移動中に休憩できるし平気だよ」
「あんな乗り心地最悪の列車の中じゃあ、休まるもんも休まらねえぞ。移動中に襲われないとも限らねえ。少なくとも『禁后』の呪いが抜け切るまでは安静にしとけって」
ちりの容赦のない指摘は、事実を的確に突いていた。九十九の肌は血の気を失い蒼白を極めており、呼吸の度に胸の奥で何かが軋むような感覚が付き纏う。無理を重ねた肉体は既に悲鳴を上げており、休息を欲しているのは疑いようのない事実であった。
「……成程、確かになァ。肝心要の芥川九十九がそのザマじゃあ、この先が不安だぜい。休める時に休んどけよォ」
ドロテアもまたちりの意見に同意を示す。口調こそ粗野であるが、その視線には戦力としての価値を推し量る以上の、純粋な気遣いが含まれているようにも見える。
「でも……」
自らの進退を決めあぐねていたそんな時、視界の端で愛の黒い瞳が静かに自分を見つめているのを九十九は感じた。その慈しむような眼差しは、無言でありながら確かな温かみを帯びていて――その無言の支えに背中を押されるようにして、九十九は観念したように姿勢を正す。
「……わかった。それじゃあ、少しだけ……三人だけで過ごしたい。いいかな?」
「おうよ。残された時間、好きに過ごしなア」
他者を交えず、信頼を寄せる者達だけで過ごす。その時間は、これからの過酷な道程を乗り越えるために不可欠な儀式でもある。その感覚はドロテアにも共感できる部分があるようで、彼女は鷹揚に頷いて、不器用な笑みを形作ってみせた。室内に蔓延していた微かな緊張感が薄らいでいく。
「かと言って、この拠点に留まり続けるのは危険だな」
ちりが周囲の壁を見回しながら、一段低いトーンで警告を発する。休息を取るのは良いが、しかしこの場所は既に安全な聖域ではなく、見えざる敵の脅威に晒された危険地帯へと変貌している。
「……カタリナでしたか。その怪異は、空間を繋げる異能を持っていると聞きました。繋げた空間の向こう側から、こちらの様子を覗くことも出来ると。なら少なくとも、この場所は監視されているということですよね」
愛が冷静な口調で事態を分析する。その声音には微かな怒りが混じっており、九十九を危険に巻き込んだ存在に対する嫌悪が隠しきれずに滲み出ている。
「あれ、そういえば……どうして今、カタリアは襲ってこないんだろう。まぁ、そのほうが助かるんだけど……」
「そいつァ当然、己等が居るからだ。さっきは下手ァ打ったがよォ……あんな奇襲、もう許さねえぜい」
ふと生じた素朴な疑問を口にする九十九。対して自信に満ちたドロテアの返答が、これ以上の追撃が無いことを保証する。しかしその絶対的な自信の根拠がどこにあるのか、今の九十九にはまだ理解が及ばない。
「ドロテア……だっけ。お前の異能が、カタリナの異能を阻止しているのか?」
「まァな。そんで、手前等はどうすんだ? 三人だけで話したいんだろ」
詳細な説明を意図的に避けるドロテアの態度は、完全な信頼関係を構築する前の保険なのかもしれない。今はこれ以上の追及を諦め、九十九は自身の隣に控える少女へと視線を向ける。
「愛。異能で糸を作り出せる?」
「糸? 蜘蛛とか蚕とかの糸ですか?」
「うん、多分そう。やってみて?」
「あぁ、はい。いいですよ」
九十九の意図を正確に読み取った愛は、瞬時に自身の能力を行使するための準備へと移行する。愛の指先が僅かに震え、そこから編み出された怪異の糸が大気中へと放出されていく。それは目視することも困難なほど極細の糸でありながら、鋼を凌駕する強靭さと特異な性質を併せ持っている。
「カタリナの異能は座標を対象にするんだ。何もない場所に空間を繋げてくる。だけどその場所に有機物があれば、異能の発動を阻止できる」
それはかつての経験から導き出された防衛手段。その攻略法自体は前回、愛とちりが見つけたんだけどね、と付け加えながら。過去の凄惨な戦いの記憶が、九十九の脳裏に鮮明にフラッシュバックされる。
「その糸を結界みたいに張り巡らせてほしいんだ」
「なるほど……やってみます」
指先から紡ぎ出された不可視の糸が、空間を幾重にも分断していく。糸が僅かな光を反射して銀色に煌めく度、周囲の空気がピンと張り詰めるのが分かった。それは外部からの不可視の侵略を退ける、絶対的な拒絶の結界。愛の強い想いが形を成したかのように、その防壁は完璧な密度で構築されていく。
「よし、これで自由に行動できるよ」
「ほう……なら尚更、此処に留まる理由も無くなったな」
「うん、できれば移動したいね。ゆっくり、三人だけで話ができるところに」
九十九は深く息を吐き出し、張り巡らされた糸の隙間から見えない敵への警戒心を滲ませる。どれほど防壁を構築しようとも、常に何者かの視線に晒されているという精神的負担は計り知れない。心身の疲労を回復させるためには、真の意味で安息を得られる場所が必要であった。
「ゆっくりできるところ……か」
しかしさて。気心の知れた女三人、静かに休息を取れる場所。果たしてこの酩帝街に、そんな場所があるだろうか――
「…………あ」
思案に耽っていたちりが、ふと何か思い至ったように顔を上げる。そしておもむろに、愛と視線を交わした。無言のまま、なんとも言えない表情で見つめ合う愛とちり。
ちりの瞳の奥で、複雑な感情が渦を巻いている。それは単なる場所の選定を超えた、過去の記憶と深く結びついた逡巡であった。
視線を向けられた愛もまた、その意味を即座に理解し、冷たくもどこか底知れぬ熱を秘めた眼差しでちりを見返す。
二人の間に流れる言語化されない濃密な情報の応酬を、九十九はただ不思議そうに眺めることしかできなかった。
「どこかいい場所があるの?」
九十九が尋ねる。その純粋な問いかけは、二人の間に漂う異様な空気を無邪気に引き裂く。
「いや、まあ……なんつーか……」
ちりは分かりやすく視線を逸らし、何かを言い淀むように唇を震わせる。普段の堂々とした振る舞いからは想像もつかないほど、ちりの態度は明らかに狼狽していた。頬が微かに朱に染まり、視線が定まらず空中を彷徨っている。その原因が何であるのか、九十九の推測が及ぶ前に、隣の愛が静かに口を開いた。
「……ええ、思い出しました。ありますよ、ゆっくりできる場所。案内しますね、九十九さん」
愛の声音は恐ろしいほどに穏やかでありながら、どこか独占的な響きを帯びていた。ちりの反応を見た上で、自らがその場所へ導くという事実。そこに隠された情念の深さを、この時の九十九はまだ知る由もない。
◆
「ねえねえ。それで、どこに行くの?」
愛とちりに前後を挟まれる形で連れられ、西区の猥雑とした町並みを歩行する九十九。黙ったまま先を導く背中へ、純粋な問いを投げかける。
ドロテアを拠点に残し、三人は重く垂れ込める灰色の空の下へと足を踏み出していた。この西区の情景は、他の区画の混沌と比較してもどこか異色で退廃的な様相を呈している。現世においては違法建築と分類される建造物が所狭しと連なり、毒々しい色彩の壁面が路地という路地を血管の如く這い回っている。そんな迷宮にも近い街の中で、住人達の喜怒哀楽、多様な感情を剥き出した泥酔の声が常に響き渡っている。
「ゆっくりできるところですよ。ねえ? 赤いひと」
そんな場所において黄昏愛の声は明らかな弾みを帯びており、先を歩く背中からはどこか隠し切れない高揚感が漂っているようにすら見受けられる。対照的に、後ろを歩くちりの足取りは重く、周囲の景色を憂鬱そうに睨みつけていた。
「…………まあ、そうだな…………」
愛の挑発的な確認に対して、絞り出すように発せられたちりの言葉には、もはや抵抗を諦めた深い諦念の響きが混じっていた。前衛と後衛で全く異なる感情を抱く二人の異様な対比に、九十九は背筋を撫でるような微かな不安を覚えつつも、限界が近い疲弊した身体を引きずるようにして前を歩く愛の後を黙々と追従していく。
移動の間、愛は両手の指先から無数の糸の結界を常時展開し、いざという時にカタリナの空間を繋げる異能を即座に阻止できる完璧な防衛状態を維持し続けていた。触れたことにすら気付け無い極々微細なその糸は、周囲の住人達すら巻き込んで周囲一体に拡散している。
触れた感触すら無く、触れたところで毒がある訳でも無いその糸に他の歩行者達は無自覚に纏わりつかれているが、何が起きる訳でもなく愛達の横を通り過ぎていく。
そうして無言の行軍を続けた三人は、やがて目的地へと辿り着いた。
「……? ここが、ゆっくりできるところ?」
目の前には入口前の壁面に大きな看板が貼り付けられた、マンションタイプのビルが一棟。その外装は窓を除く全てが蛍光色のピンク色に塗り潰されている。開け放たれた正面玄関を奥に進んでいくと無人のエントランスホールがあり、そこには建物内にある各部屋の番号とその空き状況が確認できる液晶モニターが壁に埋め込まれていた。
この施設について、様々な呼称が存在する。が、やはり一般的にはこう呼ばれる場合が多いのだろう。
「ええ。ここなら防音もしっかりしていますし、柔らかいベッドもありますよ」
「そうなんだ。いいね」
「はい。ですから、明日までゆっくり……休憩していきましょう」
ノアの箱舟。
それはかつて、愛とちりが閉じ込められ、その関係性に決定的な変化を齎した因縁の場所。
即ち――ラブホテルである。




