叫喚地獄 4
「えーと……続けていいかーい?」
そんな張り詰めた空気を無遠慮に引き裂いたのは、傍観を決め込んでいた滅三川の呆れたような軽い声音であった。彼女は肩を大袈裟に竦めながら、停滞した時間を無理矢理にでも牽引しようと口を開く。
「二百年前。等活地獄で、九十九っちのことを初めて視た時にさ。九十九っちの中の『ヒストリア』が、あーしの意識に直接干渉してきたわけ。そしてこう言ったのさ。芥川九十九は時間を何度でも巻き戻せる。そのたびに新たな選択肢、新たなフローチャートが創られる。それが『偽物の悪魔』の異能。この世界を救う、唯一無二の手段だってね」
「ん……『ヒストリア』?」
突如として提示された未知の概念に、芥川九十九の眉根が微かに寄り、疑問符がその唇から零れ落ちる。自身の内に潜むという異物の存在を指摘され、九十九の瞳の奥には警戒の光が鋭く瞬いた。
「九十九っちの中に居る変な少女のこと。あーしが勝手に呼び方区別してるだけ」
滅三川は事も無げに解答を投げ返す。その飄々とした態度の裏側で、彼女の視線は九十九を通過して更にその奥、この場に居るもう一人の重要人物へと正確に照準を合わせていた。
「ちりちゃんに屑籠を造ってもらったのも、全ては芥川九十九、あんたにとっての居場所を確保するため。それでいて、この地獄を変える分水嶺――黄昏愛が落ちてくるその日を迎えるためだったんだ」
その一言が酩酊の匂いを孕む狭い一室に放たれた刹那、一ノ瀬ちりの深紅の瞳が限界まで見開かれた。その網膜に焼き付いているのは、等活地獄という最悪の環境で二百年間、屑籠が弱者達の居場所であり庇護者として君臨し続けてきた在りし日の光景。
勿論、その組織の実態が酷く歪な代物であることは、他ならぬ創設者であるちり自身が骨の髄まで理解していた。組織としての軍事力の維持と外敵からの防衛、そして何よりその存在意義の根幹は、芥川九十九という一人の少女の規格外の異能と、彼女が他者のために躊躇いなく払う致命的な自己犠牲の精神に極端なまでに依存した、危うい構造の上に成り立っていたのは今更言うまでもない。そんな他者の血と痛みを代償にして成立する、薄氷の上に構築された仮初めの平穏。その逃れがたい事実は、ちりの魂の奥底に癒えることのない罪悪感の棘を、毎日毎晩、執拗に突き立て続けていた。
しかし、それでも。その歪な形をした箱庭の存在によって、理不尽な暴力から間一髪で命を拾い、束の間の安寧を享受して静かな呼吸を取り戻せた者達が確かに居たのである。死の恐怖から解放され、身を寄せ合いながら互いの傷を舐め合う者達の姿。彼らがちりに向けた微かな感謝の念や、痛みを共有する仲間としての絆。それらの記憶の欠片だけが一ノ瀬ちりにとって、自身の精神を崩壊の淵から辛うじて繋ぎ止める幾許かの救いとなっていた。
しかしその屑籠が、実は物語を進行させるための都合の良い舞台装置として、ただ消費されるためだけに存在していたという真実。一人の少女がこの地獄の底へ落ちてくる、その運命の瞬間を迎えるためだけに用意された単なる時間稼ぎの道具だった。その事実を聞かされた瞬間、ちりの自我を構成していた価値観とアイデンティティは砂上の楼閣のように、静かに瓦解していく。
「だからまー……ちりちゃんもそこまで気に病む必要は無いんだよ。ちりちゃんは悪くない。ただ巻き込まれただけ、利用されただけであって……悪いのは全部あーしなんだ」
流石の滅三川もそれについては深く思うところがあるようだった。常日頃から顔面に張り付けている、他者を食ったような不敵で飄々とした態度が僅かに崩れ落ちる。照明の乏しい澱んだ室内にあって、彼女の陶器のように青白い肌に落ちる影が一層の色濃さを増し、その表情に拭いがたい暗い翳りを落としていた。滅三川なりの不器用で切実な贖罪の言葉が、ひび割れた声音に乗って紡ぎ出される。
「……ハッ。余計なお世話だぜ」
しかし、予想に反して室内の重苦しい沈黙を切り裂いたのは、一ノ瀬ちりの口から不意に漏れ出した、乾ききった笑い声であった。
ほんの数秒前までちりの双眸に宿っていた絶望の濁りは、既に嘘のように鮮やかに晴れ渡っていた。限界まで見開かれていた深紅の瞳は一度静かに伏せられ、深い呼吸と共に再び顔を上げた時には、どこか全ての迷いを断ち切ったような、清々しいまでの吹っ切れた光が宿っている。彼女の太く力強い指先が、着用しているスカジャンの襟元を乱暴な仕草で掴み、自己の存在を世界に対して誇示するかのように大きく胸を張った。
「この罪はオレの物だ。今更出てきて横取りしようとすんな。それにもう終わった話だ。これ以上続けたら、オレが九十九に怒られる」
「うん。まあ、怒りはしないけど。そもそも私、気にしてないし」
「……そういうわけだ。これでこの話は終わり。続きを話せよ」
もはやその短いやり取りの成立が全てを物語っていた。自分は所詮取るに足らない盤上の駒でしかなくて、ここまで辿ってきた道筋も誘導されてきたものだったのかもしれない。しかし、それでも。実際にその道を選び取ったのは自分の意思であり、そこで涙を流し血を吐きながら演じた己の魂の叫びまでが偽物になるわけではない。それを「利用されただけの被害者」という耳触りの良い免罪符で無かったことにされるのは、ちりの魂の根底にあるプライドが、そして彼女が血を流して守り抜いてきた歳月が、決して許容しなかった。
迷いを微塵も感じさせない声できっぱりと言い切るちりの気高い姿に、滅三川は完全に虚を突かれたようにその深紫の目を丸くして、言葉を失っていた。彼女の左目に宿る未来視の能力であっても、ちりのこの瞬間の精神の飛躍までは明確に予測できていなかったのだろう。驚きに見開かれた瞳が、対象の放つ予期せぬ熱量に当てられ、数秒の間だけ瞬きすら忘れて硬直する。
「……あはっ。そっか……もう変わり始めてんだねー……」
やがて滅三川の肺腑から、長きに渡って抱え込んでいた見えない重圧の欠片が溶け出すような、深い安堵の息がゆっくりと吐き出された。罪の意識から目を逸らさず、それでいて過剰な贖罪を求めることも無い、今の一ノ瀬ちりの姿。それこそがあるいは、滅三川自身が心の底から視たかった予定調和の未来を打ち破る可能性の萌芽であったのかもしれない。
一度深く目を閉じた滅三川が再びその瞼を押し上げた時、彼女の顔からは先程までの暗い影は完全に消え去り、またいつもの食えない飄々とした仮面がしっかりと貼り付けられていた。
「んじゃ続けるけど。そんなわけで黄昏愛。あんたが地獄に落ちてきたあの日から、この物語は始まったんだ。そして今日この瞬間から、物語の第二部が幕を開けたんだよ」
仕切り直すように放たれた滅三川の言葉は、新たな運命の歯車が噛み合う不吉な音を伴って、狭い室内の空気を重く震わせた。彼女たちの存在が、世界を巻き込む巨大な渦の中心に位置しているという事実が改めて突きつけられる。
「でも、ちりの『净罪』は阻止した。未来は変わったんじゃないのか?」
九十九の口から発せられたのは、微かな希望の残滓にすがるような問い。自身の介入によって最悪の事態を一つ回避したという事実が、盤上の理を歪める決定的な一撃になったのだと信じたい切実な願いが、その声帯を微かに震わせている。
「いやー、残念ながら。ちりちゃんの『净罪』を阻止したこと自体は大きな一歩だけど、最悪の選択肢が一個潰れただけ。あーしの目に映る結末に変化は……まだ無いね」
しかし、滅三川の返答は至って無慈悲で。無数に存在する破滅への分岐の一つを潰したに過ぎず、大局的な終焉への流れは依然として濁流のように彼女たちを飲み込もうとしている。その絶望的な結末は依然として変わらない。
「あの。さっきからその『净罪』ってなんのことですか?」
停滞した思考の海を切り裂くように、黄昏愛の透き通った声が介入する。交わされる言葉の意味を正確に把握しようと、彼女の漆黒の瞳は探求の光を帯びて対象を射抜いていた。未知の脅威に対する防衛本能が、彼女の神経を鋭敏に研ぎ澄ませている。
「対象に能力を付与する人造呪物。地獄のルールから逸脱した特殊な能力を後天的に獲得できるヤバいやつ。『净罪』をすれば本来一人につき一つの異能すら複数獲得できるし、酩酊への耐性すら手に入る」
滅三川は教師が生徒を諭すような滑らかな口調で、その呪いの概要について解説する。
「ただしその代償として、『净罪』に手を出した者は自らの身体を切り刻む必要がある。しかも『净罪』で傷付けた傷は二度と治らないし、その痛みは永遠に続く。オーケー?」
その明かされた代償の重さに、愛は瞳を大きく見開かせ言葉を失う。自らの肉体を損ない、癒えることのない傷跡を永遠に抱え続けるという行為。なぜそのような狂気を孕んだ選択肢が存在するのか。そして何より、なぜ目の前にいるちりという存在が、あろうことかその狂気に手を伸ばそうとしていたのか。愛の思考は瞬時に沸点を超え、理解の範疇を超えた事象に対する忌避感を露わにする。
「……は? そんなものに手を出そうとしていたんですか。あなたは」
愛の口から零れたのは純粋な驚きを通り越した、冷ややかな怒りの声であった。彼女の視線がちりの全身を無慈悲に突き刺す。
「……しょうがないだろ。それしかこの街を出る方法が無いっていうんだから……」
愛の放つ圧倒的な威圧感の前に、ちりの自己を正当化しようとする言葉は虚空に溶けて消えていく。伏せられた瞳は逃げ場を求めて周囲を彷徨い、その姿は叱責を受ける幼子のそれに近しい。
「それについては……愛も交えて、後でお説教だね」
その時、突如として真横から降ってきた九十九の思いもよらぬ言葉に、ちりは慌てて顔を跳ね上げさせた。
「なっ……! さっき怒らないって言っただろ……!?」
「それとこれとは話が別」
九十九のむすっとした不機嫌な表情に真正面から見据えられて、ちりは目に見えて狼狽えだし、視線を激しく上下左右に泳がせる。その滑稽とも言える様子を隣で眺めていた愛の内部で、先程までの激情が僅かに形を変え始める。やがて愛もまた九十九の作り出したその空気に便乗する形で、どこか悪戯っぽく、わざとらしい真顔を意図的に作り上げる。
「お、おれはただ……おまえらの役に立ちたくて……」
「ちり~?」
「……なるほど。確かにこれは、お仕置きが必要ですね」
「うぐっ……」
九十九と愛、両者からじとりと睨み据えられ、ちりの華奢な身体は限界まで萎縮していく。重苦しい沈黙の中で、行き場を失ったちりの小さな呻き声だけが、薄暗い部屋の隅へと虚しく吸い込まれていった。
「……それで? どうして未来が変わってないの?」
気を取り直した九十九が、部屋の片隅に鎮座する滅三川のほうへと鋭い視線を向ける。最悪の選択肢を一つ潰したという僅かな安堵感は既に消え失せ、底知れぬ泥濘に再び足を踏み入れてしまったかのような不吉な予感が、彼女の思考の表面に冷たい波紋を広げていた。視線の先で揺らめく薄暗い灯火が、滅三川の飄々とした輪郭を曖昧に浮かび上がらせ、どこか現実離れした空間を演出している。
「多分、あのシスター・マルガリタ。そう呼ばれている『天使』の人造怪異。アレをどうにかしない限り、未来は変わらないんじゃないかなー」
滅三川の軽薄な声音が鼓膜を震わせた瞬間、九十九の脳裏をかつて経験した凄惨な絶望の記憶が駆け抜けていった。網膜の裏側に強烈に焼き付いているのは、冷徹に駆動する機械仕掛けの髑髏が歪な嗤いを浮かべる冒涜的な光景。そして、天使などとは程遠い邪悪な黒鉄の翼から放たれた極大の熱線が、己の肉体を細胞の単位から一瞬にして蒸発させた、あの圧倒的な殺意の奔流である。肉体が炭化し、意識が光の海へと融解していく際の焦熱の記憶が、幻肢痛のように現在の九十九の四肢を浅く痙攣させていた。
「なーんも知らない愛ちゃんとちりちゃんのために説明したげよう。まずこの地獄には、大まかに三つの勢力が存在する。羅刹王、堕天王、そして拷问教會。この三勢力は一万年前、互いに条件を飲んだ上で停戦協定を結んだ。これが三獄同盟ね」
滅三川の紡ぐ滑らかな声が、再び空気を振動させる。過去の幻影から辛うじて意識を引き剥がした九十九の横で、愛とちりは真剣な面持ちで滅三川の言葉に耳を傾けていた。
「羅刹王の目的は、堕天王を殺すこと。堕天王の目的は、この地獄から戦争を無くすこと。拷问教會はこの両者の願いを平等にサポートするという名目でそれぞれの勢力に人員を派遣し、階層間での物資の流通やら情報操作やら、裏で色々やるのを二大王から黙認されている」
淡々と語られる地獄の構造。それぞれの思惑が交錯し、膨大な血と怨嗟の上に仮初めの平和が構築されているという実態。滅三川の言葉の裏に隠された血生臭い歴史の匂いが、嗅覚を通して直接脳髄を刺激してくるかのような錯覚に陥る。
「そんな拷问教會の目的はと言うと……これまた複雑でねー。拷问教會内でも派閥が別れてるのさ。たとえば開闢王、カタリナ、フィデス。こいつらが地獄を滅ぼそうとしている派閥ね。で、如月真宵。こいつは羅刹王を殺すこと自体が目的。あとバルバラって奴がいるんだけど……こいつはイレギュラー過ぎるから一旦置いとくわ」
提示された名前の羅列に、九十九の眉根が深く寄る。地獄の崩壊を目論む者たちと、単一の王の殺害に執着する者。同じ組織内にありながら完全に異なる終着点を見据える彼らの存在が、この事態をさらに難解な迷宮へと作り変えていることは明白であった。
「でも、如月真宵は騙されている」
そして、九十九が知っている事実の一つに、それがある。全ての元凶と呼ばれる女、如月真宵。姉を助ける為に羅刹王の殺害を企む彼女は、その目的自体を地獄滅亡の足掛かりとして、自覚無く利用されている。
「そう。奴等は如月真宵を利用して羅刹王をぶっ殺して、羅刹王が独占している無間地獄行きの列車を再び動かそうとしているわけ。だから如月真宵が羅刹王を殺す方法を見つけるまでの時間稼ぎに、三獄同盟なんてものを作ったわけさ」
他者の切実な願いすらも、自らの目的を達成するための都合の良い歯車として徹底的に搾取する。策略の全貌が少しずつ姿を現すにつれ、九十九の胸の奥底に静かな怒りの炎が灯り始める。
「無間地獄は訪れた者の願いを叶える。そこで地獄を滅ぼすという願いを拷问教會は叶えようとしている訳ですか。でも、どうしてわざわざ羅刹王を殺そうとしているんですか。無視して先に進めば良いのでは?」
そしてやはりと言うべきか、前回の記憶など何もない身の上において至極当然の疑問を抱いた黄昏愛。再びその透き通った声を、流れの中に差し込んだ。
「それが無理なんだなー。無視して通るなんて絶対にできない。羅刹王がいる限り、誰も無間地獄には近付けない。それがこの地獄のルールとして根付いちゃう程度には、めちゃくちゃ強いわけよ。羅刹王ってのは」
「ふうん……」
滅三川の返答に対する愛の口から漏れた小さな息の音には、到底納得しきれないという微かな不満と、強大な存在に対する警戒が入り混じっていた。彼女の視線は伏せられ、複雑な状況を自らの内で咀嚼しようと試みている。
「で、問題のシスター・マルガリタ。堕天王を殺したいという羅刹王の願いを全力でサポートした結果、如月真宵はそれの作り方を見つけてしまった。見つけてしまった以上は契約に従って、それを叶えるしかない。如月真宵はマルガリタの製造に着手せざるを得なかった。それが九千年前の話」
九千年という途方もない時間をかけて、姉を殺す為の兵器を今日まで組み上げてきた。そうせざるを得なかった如月真宵の心境とは如何なるものだったのか。他人には想像もつかない。
「このままマルガリタが完成すれば堕天王は殺される。だから如月真宵は、マルガリタが完成するよりも先に羅刹王を殺して、マルガリタの所有権を他に移してオーダーを書き換える必要があった。そんな如月真宵の羅刹王殺しに必要な材料が『净罪』した『赤いクレヨン』の心臓だったわけ」
かつて直面した最悪の選択の裏側が、因果の糸で繋がっていく。ちりが抱えていた苦悩も、血を流して戦った意味も、全てはこの機構の一部に組み込まれていたのだ。
「……それを阻止したんだろ? これでもう拷问教會は無間地獄に近付けないはずだ」
「それは一万年前までの話。確かに同盟締結当時から暫くは、羅刹王に対抗する手段が拷问教會側には全くなかった。だから如月真宵に賭けるしかなかった。でも今は違う。プランは一つじゃなくなったのさ。この数千年で拷问教會は如月真宵に依存しないプランBを用意することに成功した。その鍵となるのが、マルガリタなんだ」
滅三川はそう言って、椅子から僅かに身を乗り出した。灯火に照らされた彼女の肌は陶器のように蒼白だが、その瞳には一万年の重みを背負った、逃れがたい呪いのような光が宿っている。普段の軽薄な態度は完全に鳴りを潜め、世界そのものの終焉を見透かす超越者としての威厳が、彼女の全身から冷ややかに立ち昇っていた。
「三獄同盟の契約において――羅刹王、如月真宵、シスター・バルバラの三名の内、いずれかの願いが叶った時点で契約は満了。その時点で同盟獄間での協力関係、その強制力も失われる。派遣された拷问教會の幹部の所有権も全て開闢王に帰属する。この意味が解る?」
「……なるほど。契約の抜け穴だな……」
「そ。契約内容に盛り込まれたこの一文が、今になって効いてきてる。いや……むしろ今にして思えば、奴等はこういうシナリオもある程度見越していたんだろうね。アレに第四席の座を戴冠させているのも、それが理由ってわけ」
三獄同盟は当時の拷问教會にとっては生命線。その契約内容においては、結果がどう転んでも拷问教會にとっては都合が良いように、ある程度のイレギュラーも想定の上で精査されていたのだろう。その上でマルガリタの製造方法が発見されたその瞬間、この物語は事実上の出来レースになっていたのである。
「シスター・マルガリタが羅刹王のオーダーを叶えた時点で三獄同盟は解散、その所有権は羅刹王から開闢王に移る。そこからが奴等のプランB、羅刹王と正面切っての戦争が始まるんだ。完成したマルガリタなら羅刹王とも互角に渡り合えるからね。だけどマルガリタだけじゃ羅刹王に対して決定打には成り得ない。だから奴等は『奥の手』を使って、羅刹王を殺そうとする」
「奥の手……?」
「名前を言ってはいけないあのヒト。黒縄地獄にいるでしょ? 正確にはアレが所有する七騎の人造怪異、その内の一つ。最近完成させたっていう『神格』の人造怪異のことだけどね」
――歪神楽ゆらぎのことだ。誰もがそう直感した瞬間、脳髄の奥底を直接針で突き刺されたかのような頭痛に苛まれた。その存在を意識しただけで、精神の深層が『狂気』に浸食されていく。平衡感覚が狂い、視界が認知ごと歪曲する。階層すら跨いで全てを狂わせるそんな規格外の怪物、触れることすら許されない禁域の怪異が、黒縄地獄の地下深くには存在する。彼方からの死の気配が、途端に室内の酸素を急速に奪い去っていった。
「マルガリタと『奥の手』の二段構えで、羅刹王を正面から突破する。それがプランB。とは言え、恐らくそのプランも確実じゃない。いくら勝算があるとは言え、あの羅刹王を相手に正面から殺り合うなんて正気じゃない。でなきゃ如月真宵の計画、プランAに奴等がここまで協力なんてしないはず。奴等も可能ならプランAでいきたいはずなんだ。でも今回の世界線ではプランAは九十九っちが阻止した。そうなると奴等はプランBに移行する。その結果が、今あーしが視てる未来。世界の終わり。奴等のプランBは上手くいく。このままだとね」
その残酷な未来予測は重苦しい鉛の塊となって同席する者たちの鼓膜を打ち据えた。彼女の言葉は一切の希望的観測を排除した事実の羅列であり、抗うことの許されない終焉を明瞭な輪郭を持って提示している。
「でも。あんたの決断次第で、この未来は変えられる。芥川九十九、あんたはどうしたい?」
その上で、滅三川の視線は真っ直ぐに芥川九十九の輪郭を射抜いていた。どこかそれは、縋るような眼差しで。未来を見通すが故に何度も絶望に直面してきたのであろう、そんな絶望が今の滅三川の気配からは滲み出ていた。
「私は……」
九十九の口腔から漏れ出した微弱な音声は、意味を持たない空気の振動となって虚空へと溶けていく。しかしその内面においては、深い絶望の泥濘に沈殿していた微かな熱量が、静かな脈動を開始しようと必死の蠢きを見せていた。九十九は伏せていた顔を重力に逆らうように徐々に持ち上げ、正面に座る二人の少女の姿をその視界の中央へと捉える。
視界に映り込んだのは、決して揺らぐことのない深淵を思わせる黄昏愛の漆黒の瞳と、過去への悔恨を血の滲むような決断で以て乗り越えた一ノ瀬ちりの深紅の瞳。彼女たちの双眸の奥に宿る光は、どれほど世界が虚構で構築されていようとも、決して色褪せることのない確かな真実の輝きを放っている。
芥川九十九は偽物の悪魔。盤上の都合で用意された紛い物の人造怪異。喩えそうであったとしても、二人と共に過ごした時間、交わした言葉、肌で感じた温もり、その全ては紛れもない本物である。その確信が、冷え切っていた九十九の血肉に熱を齎し、凍り付いていた思考の歯車を回転させる。彼女達の存在こそが今の九十九にとって、文字通りの生きる意味であり、その空虚な器に過ぎなかった己に魂を吹き込み、この世界に繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。
「私は、私達が生きていくこの地獄を守りたい」
迷いを完全に払拭したその言葉は、淀んだ空気を鮮やかに切り裂き、室内の気配をその熱で瞬時に塗り替えてみせた。それは定められた結末を拒絶し、運命の軌道を自らの意志で強引に歪曲させるという、果てしなく傲慢にして気高い決意の表明。
誰かが敷いたレールの上を盲従することでもなく、予定調和として用意された破滅を静かに受け入れることでもない。自分達のささやかな居場所を、自分自身の血に塗れた手で強引に奪い返すという、狂気にも似た反逆の意志表示。その内側から放たれる熱量は、皮膚の表面をひりつかせるほどの圧力を伴って、同席する者達の肌を真っ向から打ち据えていく。
「マルガリタの開発自体を止めることはできないの?」
「それは無理。マルガリタは所有者からのオーダーを除いて、あらゆる干渉を受け付けない。マルガリタの完成自体は既定路線だ」
「だったら、今のマルガリタの所有者である羅刹王の意思でオーダーそのものを書き換えさせることはできるんじゃないか?」
九十九の喉から放たれたその一言は、全てを根本から断ち切る手段としては最も単純な論理の帰結。開発を止められず世に出ることが確定しているのなら、今からでも発注物の仕様を変更してしまえばいいだけの話。
「要はマルガリタが堕天王を殺そうとしなければいいんだろ?」
「……そりゃあ、そうだけど。でもそんな選択肢、今あーしが視ている未来のどこにも存在しない……」
そんな単純明快な模範解答が選択肢としてすら視えなかったのは、因果の糸が複雑に絡み過ぎたが故に。九十九の齎した鶴の一声は絡まった糸を解き、滅三川の霞がかった思考を次第に晴らしていく。
「……いや、だからこそか。羅刹王が今更願いを諦めるなんて絶対あり得ないと思ってたけど……その絶対を覆せるとしたら……」
滅三川の薄い唇に、三日月の弧を描くような微かな笑みが浮かび上がる。あらゆる可能性が閉ざされた盤上において、そのルールを根底から破壊し得る唯一の特異点。目の前に居るその輝きを、滅三川は網膜に焼き付けていた。
「羅刹王を説得する。その為には、如月真宵を仲間に引き入れる必要がある」
九十九の張りのある声には、もはや微塵の迷いも恐怖も介入する余地は残されていなかった。その確固たる覚悟を具現化したような特異な気配は、かつて幻葬王として地獄の住人たちから畏れられた絶対的な威厳を、再びその身に纏わせ始めているようであった。それは眼前に聳え立つ絶望の壁がどれほど高く強固であろうとも、決して自身の歩みを止めることはないという、王たる者の意志の具現化そのものである。
「如月真宵は騙されている。三獄同盟の真実、拷问教會の本当の狙いを伝えれば、如月真宵を拷問教會から引き離せる。その如月真宵に協力してもらって、羅刹王に願いを諦めさせる」
しかしながら、その計画が孕む異常性は誰の目に見ても明らかな事実だった。それは一万年もの永きに渡って地獄の頂点に君臨する絶対者を、言葉という極めて不確かな手段のみで翻意させるという綱渡りが如き所業である。
「……可能なのか? そんなことが」
そんな王の決定に異を唱えられるのは、この場に置いて一ノ瀬ちりを置き他にいなかっただろう。彼女は赤い前髪の隙間から鋭い視線を九十九に向け、隠し切れない疑念を口にする。それは決して計画の難易度に対する危惧だけが理由ではない。九十九が他者のために自らを顧みず、再び自己犠牲の果てに手の届かない遠い場所へ行ってしまうのではないかという、ちりの魂に深く刻み込まれた癒えることのない恐怖の裏返しでもあった。愛する者を失うことへの根源的な怯えが、彼女の皮膚の表面に細かな粟立ちを生じさせている。
「やるよ」
ちりの抱く切実な不安を正面から受け止めながら、それでも九十九の口から紡がれたのは、短いながらも断固とした響きを持つ言葉だった。
「……はぁ。ま、おまえがそう言うなら付き合うけどよ」
ちりは自身の乱れた赤い髪を乱暴に掻き揚げながら、すべてを諦めたかのように深い溜息を吐き出す。その口元には、親愛なる隣人のあまりに無茶な願いに対し、結局のところ最後まで抗いきれず同調してしまう自分自身に対する、自嘲気味な笑みが微かに滲んでいる。どれほど危険な道であろうとも、彼女が歩むと決めたのなら、自分はその隣で共に血を流すだけだという、無条件の信頼がそこには存在していた。
「いずれにせよ、私が願いを叶える為には拷问教會を排除しなければならない。そういう話ですよね」
その感傷的な空気を断ち切るように、愛の静謐な声が室内に響き渡る。彼女の思考は既に、目的を達成する為の最も効率的な手段の選定へと移行していた。徹頭徹尾、黄昏愛にとって障害とは、物理的に消し去る以外の選択肢は存在しない。
「……そうだね」
前回の結末を知っている九十九にとって、その短い肯定はどこか拭い切れない翳りを感じさせるものだった。しかし愛はそんな九十九の内心の葛藤など全く意に介する様子も見せず、ただ純粋な納得の意を示すように、人形のように整った美貌を僅かに傾けながら九十九の目を真っ直ぐに見据える。
「だったら結局、やることは変わりませんね。轢き殺しましょう。それが私の征く道を阻むなら。歩いて、踏み潰して、乗り越えます。いつも通りに」
愛の口から放たれた、相変わらずその可憐な造りにおよそ似つかわしくない過激な返答。それがある種の号令となって、次の瞬間、室内に滞留する酒精の匂いは一層色濃く変質していく。それはこの場において三人の少女達が、世界の全てを敵に回してでもこの地獄で生きていくという結束を固めたその事実を表明するようだった。
果たして結論は出た。この先の方針を『偽物の悪魔』が決定したその瞬間、因果の法則は変容を遂げ、世界には全く新しい未来の軌跡が産声を上げる。既存の運命の枠組みを破壊し、未だ誰も観測したことのない未知の可能性の枝葉が、無限の広がりを持って宇宙の深淵へと伸びていく。
その産まれる瞬間、世界のシステムそのものが再構築される壮大な変動の余波を、滅三川ジェーン瞳は今正に自身の特異な視覚を通して観測していた。その深紫が見据える未来の景色では、光の奔流となって分岐し交差する無数の因果の糸が鮮明に映し出されている――
「嗚呼……本当にオメデタイ連中だナ……」
その最中のことであった。それは地の底から這い上がってきたような不吉な振動を伴い、空間の至る所へと伝播していく。もはや人間の声帯から発せられたとは到底思えぬ、精神の深奥を汚染するような粘着質の悪意をたっぷりと孕んだ――名状し難い魔女の声。
新たに産まれた選択肢が、希望に向かうとは限らない。




