叫喚地獄 3
酩帝街北区、境界付近。他の区画とは明確に一線を引くように築かれたバリケードの群れ。北区の入口として機能している其処には、これ見よがしに「この先立ち入り注意」といった張り紙や看板が乱雑に設置されている。
首切れ馬の来訪を迎える必要もある為、入口として用意された道は完全に塞がれているわけではない。実際、北区への立ち入りは禁止ではなく注意しているだけ。北区には入ろうと思えば誰でも入れる。ただ、入れば二度と出てこれないかもしれないというリスクを、誰も保障などはしてくれない。完全な自己責任である。
そんな境界付近の朽ち果てかけたバリケードの一角にて、待ちぼうけを食らっている黄昏愛の姿があった。一ノ瀬ちりの指示通り、酩酊の影響が強く及ばないこの場所で、彼女は素直にちりの帰りを待っている。
ちりが座標に単身向かってから、既に数時間が経過していた。その間に黄昏愛の体調も幾分かマシにはなったが、冷静になればなるほど、今度はちりの身の安全が気がかりになってくる。赤いクレヨンの遠隔操作で連絡を取ると言ってはいたが、それすらも未だに送られてくる気配は無い。愛の黒い瞳は僅かな不安の色を宿し、濃霧の向こう側を静かに見つめている。
もしも『禁后』のような罠に引っかかってしまって、身動きが取れる状況に無いのだとしたら、今すぐにでも助けに行かなくてはならない。しかし現実問題として、愛が北区に向かうのは不可能に近い。
信じる他無いのだ。酩酊に耐性のある一ノ瀬ちりですら攻略出来ない罠を、今の愛と九十九がどうにか出来るわけもない。自分達がこの街を出られるかどうかは、ちりに懸かっていた。
「……………………」
他人のことは信用出来ない。
地獄に堕ちたことで、記憶を欠損した黄昏愛。しかしどういうわけか、その価値観だけは忘れること無く、身に沁みているようだった。誰のことも信用出来ないから、等活地獄では会話を諦め、一方的に略奪してきた。その所業を反省こそすれ、今でも後悔はしていない。だって身に沁みたその生き方自体を否定してしまったら、それはもう自分ではなく別の誰かのような気がして。
そんな矢先、愛は二人の少女と出会った。彼女達との出逢いによって、『あの人』以外の誰かに頼るということを覚えた。黒縄地獄では九十九を信じ、そしてこの衆合地獄では、ちりを信じている。信じることが出来ている。
相変わらず、他人のことは信用出来ない。それはやはり、否定出来ない。ならば九十九とちりは他人ではないのか。他人ではないというのなら、自分にとって彼女達は何なのだろう。少なくとも身内のように感じつつはあるが、どうも今ひとつしっくりこない。もっと明確な呼称があるのではないか――
「あっ……?」
などと、ぼんやり考え事をしていたその矢先。霧の奥から冷たい空気に混じって、嗅ぎ慣れた鉄錆の臭いが漂ってくる。愛が白い霧の向こう側に目を凝らすと、徐々に赤い人影が浮かび上がってきた。それを認識した瞬間、愛の意識は叩き起こされたように現実へと引き戻される。
地面を踏み鳴らす音と共に、濃霧の奥から微かに浮かぶそれは、間違いなく人間の輪郭をしていた。その赤い染みのような人影は愛の居る方へ少しずつ近付いてくる。
ちりだ。無事に帰ってきたのだ――そう確信した愛の表情は思わず明るくなっていた。愛は寄り掛かっていたバリケードを離れ、近付いてくる人影に自ら駆け寄ろうとする。
「…………え」
しかし、愛のその足は不意に止まった。霧の奥からその全容が見え始めた人影の正体、それを目前で確認した瞬間、愛の表情から先程の明るさは疾く消え失せたのだった。
それは、確かに一ノ瀬ちりだった。間違いない――問題だったのは、その一ノ瀬ちりがどういう訳か、この場に立ち会うはずのない芥川九十九を背負っているという事実。
ちりに背負われた九十九はどうやら気を失っているようだったが、外見上はどこにも目立った負傷は見当たらない。それどころか安らかな寝息すら立てている始末で、規則的な呼吸に合わせ僅かに身体を上下させているのが確認できる。頬は朱く、その目元も泣き腫らしたように染まっている。そんな彼女を背負ったちりもまた目元を赤く腫らしていたが、負傷の無い五体満足のまましっかりとした足取りで一歩ずつ、呆然と立ち尽くす愛の居る場所へ向かって歩み寄ってくる。
「ど、どういうことですか……? なんで九十九さんが……」
「……いや、それが……オレにもよく分からなくて……」
「はぁ……?」
「マジで分かんねぇんだよ……何がなんだか……。事情を聞き出そうにも、こいつ……外に出たら酔っ払って気絶しちまうしよ……」
愛の口から無意識に漏れ出た声は、状況に対する困惑に細く震えていた。しかし説明を求められたちりもまた、背中に負った九十九の重みを確認するように身体を僅かに揺すりながら、要領を得ない言葉を不器用に吐き出すばかり。
「……正解の座標には辿り着いたんですよね? そこで何があったんですか?」
到底納得できるはずもなく、愛は問い質すように鋭い視線をちりの顔面へと向けた。しかしその問いに、今のちりが答えられるはずもなく。自らにも全く説明のつかない現状に対する苛立ち、困惑、あるいはどこか気恥ずかしそうに――ちりの表情は様々な感情が入り乱れ複雑に歪んでいた。
「あぁ……まぁ……と、とにかく……詳しい話は後だ。一旦、拠点に戻ろうぜ……」
「……むう」
この場での追及を遮るべく発せられた提案には、どこか有無を言わせぬ切実な響きが込められていて。九十九の身体を背負い直し、いそいそと歩き始めるちり。その煮え切らない態度に愛は少し不満気に頬を膨らませながらも、その後を渋々付いていく。
「……………………」
その時、脳裏を掠めた微かな錯覚。愛は再び顔だけを振り向かせ、北区に続く白い濃霧の向こう側を覗き見る。霧の奥からこれ以上の人影が現れる気配は無い。銀髪の魔女の姿など、どこにも見当たらない。
当然、ただの気の所為である。黄昏愛に『前回』の記憶など存在しない。理由の解らない錯覚を振り払い、愛はすぐさま前方へと向き直るのだった。
◆
酩帝街西区。愛達が現在拠点としている古びた旅館、その一室へと続く廊下は、外界の狂騒を物理的な厚みで拒絶するように重苦しい静寂を湛えていた。三百三十三号室への入り口を塞ぐ扉を、ちりは指先まで細かく震える手で乱暴に掴み、その表面に刻まれた深い木目の抵抗に逆らうようにして力任せに押し開く。
「あ、おかえりー」
扉が開け放たれたその瞬間、彼女たちの視界に飛び込んできたのは――リビングの中央、備え付けの椅子に足を組み座っている、プラチナブロンドの髪を気儘に揺らす女の姿。見慣れないその女はまるで気の抜けた歓迎の言葉を、帰ってきた愛達に向けて気怠げに放つ。
白く透き通った肌に、頭蓋を突き破り禍々しく隆起した一対の赤い角。愛のそれとは対照的な白色を基調とするセーラー服を身に纏うその女。前髪に隠れた深い紫の瞳孔を揺らして、彼女は天井の橙色の灯火に照らされ壁面にその長大な影を落としている。
更にその傍らには、別の女の姿もあった。黒い髪に黒い肌、黒い修道服の上から黒い革のジャケットを羽織っている。全身を漆黒に染めたその女は彫像のように厳然とした佇まいで控え、周囲の空気をその質量だけで制圧していた。顔一面を覆い尽くす薔薇と茨の刺青は、まるで生き物のように不気味な脈動を繰り返す。
「いやー、よかったよかった。なんとかなったみたいじゃーん」
ちりに背負われた九十九の様子を一瞥して、金髪の女は馴れ馴れしく言葉を投げかけてきた。しかし当然ながら黄昏愛にとって、この女のことも、その背後に控える黒い女のことも全く記憶に無い。初対面の不審者が、自分達の拠点に我が物顔で居座っている。そんな状況に忽ち、愛の警戒心は最大まで高まっていた。愛は黒い瞳孔を獣の如く見開かせ、次の瞬間には目の前の二人組に襲いかからん勢いでその精神状態を戦闘時のそれへと移行させる。
「オマエ……滅三川か!?」
そんな愛にとって予想外だったのは、ちりの反応。彼女の唇から漏れた驚愕の声はまるで、いやまさしく旧知の仲と久し振りに再会した時のような響きが込められていて。
「おー? 覚えててくれたんだ。うける。ひっさしぶりだね―、ちりちゃん」
ネイルを施した長い指先で自身の髪を弄びながら、金髪の女――滅三川ジェーン瞳は僅かに頬を綻ばせ、やはり見知ったような言葉を返す。飛びかかる寸前だった愛も、その様子に思わず踏み留まっていた。宙を蹴り出すために蓄積されていたエネルギーが行き場を失い、愛の靴底が鈍い摩擦を伴って床板を軋ませる。
「……知り合いですか?」
それでも依然として愛は警戒を緩めることなく、隣に立つちりの横顔を射抜くように見つめながら、いつでも得物を引き抜けるよう身構える。
「まあまあ、落ち着きなー? あーしは怪しいもんじゃないってー。ほら、言ってやってよー。ちりちゃん」
愛の全身から微かに立ち昇る殺気の残滓を鼻先で嗅ぎ取ったのか、金髪の女は手の平をひらひらと振る無遠慮な動作を見せる。黒と白、二対のセーラー服に挟まれた一ノ瀬ちりは逡巡の後、躊躇いがちに息を吐いた。
「……滅三川ジェーン瞳。屑籠の元メンバー……昔の仲間だ。短い間だったけどな。そもそも、オレが屑籠を作るってアイデアを思いついたのも……当時、コイツの助言があったからで……」
屑籠は一ノ瀬ちりにとって、二百年ものあいだ悔やみ続けてきた自身の罪の象徴でもある。その設立の根幹にかつて滅三川ジェーン瞳は関わっていた。本人達にしか知り得ない当時の状況を思い返し、ちりは未だ燻る罪悪感に顔を顰める。
「ね、怪しくないっしょー?」
「……いや怪しいだろ。オマエ、なんで此処に居る。なに企んでんだ」
しかしそれはそれ、これはこれ。なぜ今になって眼前に姿を現したのか。彼女がどのような目的を持って自分達の前に立ち塞がるのか。直前の感傷を切り捨てるように、ちりの鋭い眼光は真っ直ぐ滅三川を捉えた。
「大丈夫、あーしらは味方だよ。その証拠に、ほら」
滅三川は自身の潔白を証明する言葉と共に、手持ち無沙汰に遊ばせていた視線を隣のフロア、ベッドルームへと滑らせる。彼女の視線の先、部屋の片隅の床面に、異質な物体が無造作に投棄されていた。それは粗末で毛羽立った太い荒縄によって、幾重にも執拗に縛り上げられた一匹の怪異の肉体。拘束の圧力によって衣服には無数の深い皺が刻まれ、自由を完全に奪われたその姿は、這いつくばる醜悪な芋虫を連想させる。
「フィデス……!?」
床に転がる肉体の顔面を視界に収めた瞬間、ちりの喉の奥から空気を引き裂くような驚愕の声が弾け飛んだ。そこに転がっていたのは、他でもないあのシスター・フィデスである。瞼を固く閉じたまま、規則的な呼吸による胸部の僅かな上下動だけが、彼女が未だ生を繋ぎ止めている唯一の証左である。かつての威厳や暴力的なまでの狂気は完全に削ぎ落とされ、ただ無力な肉の塊として屈辱的な姿を晒していた。
「捕まえんの苦労したんだぜー?」
この階層における絶対的な脅威の一つであった存在が、かくも容易く拘束され、献上品のように足元へ転がされているという現実。ちりの思考回路は限界を超えた情報の奔流によってショートを起こし、ただ目の前の異常な光景を茫然と見下ろすことしかできない。
僅かな異変が生じたのはまさにその時であった。背中に負った確かな質量が、不規則な痙攣を伴って微かに動いたのをちりは背中で感知する。それは肺の奥底に澱のように深く沈殿していた酩酊の霧を、排斥機能を取り戻した器官が激しい咳き込みと共に外部へと吐き出した。
「ん……ぁ……ちり……愛……?」
気道を確保するために小さく喘ぐような音を立てながら、芥川九十九の意識はようやく、深い泥の底から現世の光の中へと浮上を果たす。
鉛の塊を詰め込まれたかのように重力に縛られた頭部を、震えの止まらない首の筋肉を総動員してどうにか持ち上げる。ピントの合わないぼやけた視界の中で、自身の周囲を取り囲む異様な面々の姿を、九十九は曖昧な輪郭の束として一つずつ脳内のデータベースと照合していく。
背負うちりの体温、傍らで警戒を解かない愛の存在、そして床に転がるフィデスの残骸。そして、その全てを見下ろす位置に陣取る二人組の姿――
「つ、九十九……」
「……九十九さん……」
九十九の覚醒を感知した愛とちり、二人揃って声を上擦らせる。滅三川もまた、それまで退屈そうに弄んでいた爪先からゆっくりと手を離した。軋む椅子から僅かに前傾姿勢をとり、流れるような長い前髪の隙間から黒と紫の対比を描くオッドアイを覗かせる。凪いだような赤い瞳で周囲を見回す九十九の姿を、滅三川の瞳孔は深淵を覗き込むような静けさで射抜いていた。
「……さて。九十九っちも起きたことだし……それじゃあ早速だけど、話をしようか。未来の話をさ」
一切の感情の起伏を排した平坦な声音が、冷たい水滴のように空間へと滴り落ちる。それは単なる提案などではなく、逆らうことの許されない命令じみた響きを伴って、その場にいる全員の鼓膜を等しく震わせていた。
◆
テーブルを境界線として、二つの勢力が明確な対比を描きながら座している。一方の側には愛、ちり、そして九十九の三人が、互いの肩が触れ合うほどの密度の陣形を組んで並んでいた。愛はいざという時に備え、テーブルの下で密かに指先の筋肉を鋭く変化させており、ちりは隣に座る九十九を庇うように僅かに身を乗り出している。九十九自身は未だ深い疲労の底にありながらも、その瞳には切実な光が宿っていた。
それに対して対面を占めるのは滅三川ジェーン瞳と、その傍らに静かに控えるドロテアの二人である。滅三川は姿勢を崩して椅子の背もたれに深く体重を預け、テーブルの上に放り出した両手で自身の長い爪の先端を無造作に弾いている。ドロテアは未だ沈黙を保ちつつ、時折警戒するような眼差しを周囲に向けている。室内の灯りが彼女達の顔に濃い影の稜線を引いていた。
「えー、こほん。はーい。あーし、滅三川ジェーン瞳は『くだん』の怪異でーす。はてさて、その異能とは。視界に入った人間が次にいつどうやって死ぬか、その『フローチャート』を視覚化する能力なのだー。つってね」
重苦しい沈黙の帳を唐突に引き裂いたのは、あまりにも突飛で荒唐無稽な自己開示。両手を大袈裟に広げ、芝居がかった手振りとともに放たれた滅三川の言葉は、テーブルを挟んだ三人の少女達の思考を早々に揺さぶっていた。
怪異の名称、そして明かされた異能の性質。それらはこの地獄において自らの弱点を相手の喉元へ無防備に晒すに等しい行為。それでいて内容が内容である。相手の真意を測りかねた愛の瞳孔が限界まで収縮し、ちりの顔面からは微かな血の気が引いていく。
「みんなさー、現世で生きてた頃、ゲームとか結構やってた? ストーリー系のゲームとかさー、要所要所で選択肢出るっしょ? あんな感じ。その選択肢を視覚化した上で、どれを選んだら何が起きるのか、その結果どういう未来を辿って最終的にどういう死に方をするのか、それを視ることができるわけ」
理解の及ばない者達へ向けて、滅三川はどこまでも平易な比喩を用いて世界のからくりを開陳していく。
「視覚化できるのは、そいつがその時に選ぶ可能性がある選択肢だけ。放っておけばそのまま正規の未来を辿ることになるけど、選択肢が視えるあーしはそこに干渉できんのよ。選択肢を上手く誘導してやれば理論上、あーしはそいつに任意の未来を辿らせることができる」
彼女の言葉が紡がれるたび、それを聞く者達の脳裏には無数の分岐を持つ樹形図が鮮明に描き出されていった。右へ進むか、左へ進むか。戦うか、逃げるか。そのような日常の些細な行動の積み重ねが、最終的に一本の死の結末へと収束していく。
フローチャートの視覚化。即ち、未来の視覚化。滅三川はそんな他者の運命の分岐点を観測し、言葉や行動という外部からの刺激によって対象を望む経路へと誘導できる。それは紛れもなく、神の如き視座から盤上の駒を操る絶対的な支配者の能力に他ならない。
「……とんでもない異能だな」
ちりの声色にはもはや 隠し切れない忌避と恐怖が入り交じっていた。自分達がこれまでに重ねてきた選択すらも、実は眼前の女によって巧妙に整地された道筋であったのではないかという疑念が、ちりの意識の底に暗い染みとなって広がる。そしてその勘繰りは、あながち間違いというわけでもなく。
「そう思うっしょー? ところがどっこい、そう万能でもないんだなー。これが」
三人の反応を満足げに眺めていた滅三川だったが、不意に長い睫毛を伏せて自嘲の気配を漂わせる。滅三川の纏う空気が微かに変質し、どこか抗いがたい気怠さのようなものが滲み出ていた。
「あーしが視た未来の選択肢は、その内容自体を変えることはできない。選択肢は最初から決まっていて、どれを選んだらどんな未来を辿るのかも決まっている。だからゲームに喩えたんだ。あーしの異能は、決まった結末からマシなほうを選び取れるってだけ。未来の結末そのものを変えることはできないし、最初から存在しない選択肢を創ることもできない。無いモノを有ったコトにはできない。それが『くだん』の異能の制約」
全能に思えた能力の急所が、淡々とした語り口によって露呈する。既存の選択肢の中から最善を選び取ることはできても、新たな活路を切り拓くことはできない。それは即ち、用意された全ての結末が等しく破滅を意味する場合、彼女にはそれを回避する手段が残されていないという絶望的な事実を意味していた。
与えられた檻の中で足掻くことしか許されない、観測者であるが故の無力感。彼女の軽薄そうに見える態度から、その遣る瀬無さがやはりどこか滲み出ているようだった。
「この地獄にはどうしても避けられない未来がある。拷问教會が地獄を滅ぼす、その結末だけは……あーしの力じゃ引き延ばすことはできても変えること自体はできなかったんだ」
拷问教會。その名が発せられた瞬間、芥川九十九の脳裏では『前回』の記憶がフラッシュバックしていた。九十九達の前に幾度となく現れては事態を引っ掻き回し、その未来を最悪な方向へと導いてきた因縁の相手。今の芥川九十九にとって、拷问教會は明確な『敵』である。
「で。そんな時に、あんたのことを見つけたんだよ。芥川九十九」
そこで不意に、彷徨っていた滅三川の視線が弓矢のように九十九の顔面へと突き刺さる。運命の観測者が唯一見出した希望の糸口。無数の破滅の分岐点の中で、ただ一つだけ輝く異端の存在。その重圧を伴う視線は、九十九の肉体を構成する細胞の一つ一つを品定めするように執拗に舐め回した。
「芥川九十九の異能は、存在しないはずの選択肢を――未来を創りだすことができる。あんたの行動次第で、一周目には存在しなかった選択肢が二周目では選べるようになる。この意味が解る?」
滅三川の左目に宿る深紫の輝きが、芥川九十九という特異点を照射するように一際強く明滅する。その光は無数の分岐を持つ運命の糸を束ねて凝縮したかのような、重く粘り気のある異常な色彩を放っていた。彼女のオッドアイが捉える視界の中心で、九十九という存在が地獄の法則から完全に逸脱した異物として定義付けられていく。
「……待て。ちょっと待ってくれ」
その時、ちりの口から堪らず哀願に近い響きが絞り出された。赤い爪先を自身の眉間に当て思案するちりの額には困惑を示すように僅かな汗を滲ませている。
「拷问教會が、地獄を滅ぼそうとしている……? それに……九十九の異能だと? ……どういうことだ?」
その問い掛けは滅三川に対してというより、隣の九十九に向かって発していた。滅三川の口からどれほど語られたところで、たとえそれが真実だとしても一ノ瀬ちりは納得できない。それを当人が一番理解しているからこそ、ちりが説明を求める相手は九十九を置いて他にいない。それは愛も同様で、神妙な眼差しを九十九にのみ注いでいる。
「ええと……うまく説明できるかわからないんだけど……」
戸惑いの色を隠せずにいる二人の少女に向かって、九十九は自らの根幹を定義する言葉を一つずつ、慎重に紡ぎ始める。
「私、未来から来たんだ」
そうして開口一番、九十九のその一言は室内に静寂を齎した。愛もちりもその瞬間、完全に思考が止まっていた。数秒遅れて、ちりが恐る恐る口を開く。
「…………未来?」
「うん。未来では拷问教會が無間地獄で願いを叶えて、全ての怪異を無かったことにした。この世界を滅ぼしたんだ」
物語の結末を語る九十九の表情には、誇張や嘘の気配など微塵も存在しない。ただ純粋に、その絶望を一度目の当たりにしてきた者特有の緊張だけが張り付いていた。
「その時に私も殺されたんだけど……私は『偽物の悪魔』の怪異だった。死ぬたびに時間を巻き戻して、何度でもやり直すことができる――それが私の異能だったんだ」
愛とちりはもはや完全に言葉を失っていた。ただ口を半開きにしたまま硬直している。
「…………マジなんだな?」
永劫とも思える硬直の時間を経て、やがてちりの唇から酷く掠れた声が絞り出される。それは疑念からの問い掛けではなく、受け入れがたい現実を無理やり押し込むための最後の確認。
「うん。マジ」
ちりの震える声に対し、九十九は一切の迷いもなく簡潔な言葉で肯定の意を示す。その揺るぎない態度こそが、ちりの抱いていた僅かな疑いの残滓すら完全に消し去る証左となっていた。
「…………マジかよ」
最後の確認を終えたちりは、やがてそれ以上の追及を諦めたように、深く重い息を天井へ向けて吐き出した。硬直していた肩の筋肉から微かに力を抜き、重力に逆らうことをやめる。
「……わかった。信じる。おまえの言うことだからな……」
事実、そうでなければあの『净罪』の場に九十九が都合良く居合わせたことにも説明がつかない。どうにか納得の形を整えようとするちりの横顔には、疲労と安堵が入り交じった奇妙な影が落ちている。
「……じゃあなんだ。ここまでの話を信じるとして……滅三川。オマエが今更しゃしゃり出てきた目的は……まさか世界を救うことだとか言うつもりかよ?」
そして、この場に居合わせた誰もが抱いていたその疑問を即座にちりは投げつける。突如現れた滅三川ジェーン瞳というイレギュラー、未だ敵か味方かも判然としない彼女の目的をはっきりさせない訳にはいかない。
「うん? そーだけど。なんかおかしい?」
果たしてどのような思惑があって未来を見通すのか、何か裏があるのではないか身構えていたちりに対し、返す滅三川の答えはあまりにも単純で。
「え、いや……オマエに何の得があって、わざわざそんなことに首を突っ込んで……」
「だって滅ぶんだよ? 世界。やべーじゃん。見てみぬふりとかできなくない? ヒトとして当然っしょ」
確かに当然である。そんな当然すら思惑があるのではないかと疑わずにはいられないほど、彼女達が経験してきた地獄の日々が惨憺たるものであった証左でもあり。
「……そうか。まあ、うん、そうだな……」
その至極真っ当な理由に返す言葉も無く、ちりは虚を突かれたような複雑極まる表情を浮かべるのだった。
「待ってください」
その時、この場に保たれていた均衡を音を立てて壊したのは、黄昏愛。冷たく低い声を漏らした彼女は、まるで感情の一切を凍結させたような漆黒の瞳で、隣に座る九十九を無遠慮に見つめていた。その蒼白で端正な顔立ちには、決して看過することのできない一筋の疑念が深い溝となって残酷なまでに刻み込まれている。
「未来では、拷问教會が願いを叶えて世界を滅ぼす。それはわかりました。なら、私は? 私の願いは、叶わなかったということですか?」
その問いが放たれた瞬間、凍りつくような静寂が室内を再び支配した。九十九の背筋に鋭い寒気が走り抜ける。
「それは……」
咄嗟に適切な語彙が引き出せず、気管が狭窄したように息が詰まる。なぜなら愛のその疑問は、九十九がこの二巡目の世界において最も触れられたくない禁忌の話題。九十九の網膜の裏側に、あの無間地獄での光景が鮮明な色彩を伴って蘇る。
黄昏愛の願い――『あの人』との再会は、叶わなかった。それは開闢王曰く、『あの人』という存在も『黄昏愛』という人物自体も、現世には存在しないから。正確には、そのモデルとなった人物は存在するが、そのモデルを骨子に正しく都市伝説の如く歪曲し捏造されたのが『あの人』であり『黄昏愛』だった。
この世界の神様、無間地獄の魔王でありシステムの権化である閻魔大王は、黄昏愛という架空の存在に偽りの人格、偽りの記憶、その具体性を与え、いずれ新たな魔王の器として利用する為に、其処へ至るまでの物語を用意した。
その脚本通りに黄昏愛は無間地獄を目指して、その結果。願いが叶わないと知った愛はそんな自分の運命すら受け入れ、自己犠牲の果てに新たな魔王となる決断を下した。生前も死後も、黄昏愛という子どもは、その価値を利用しようとする悪しき思惑に搾取され続ける末路を辿ったのである。
九十九はその話自体、まるっきり信じたわけではない。と言うより、理解が追いついていなかった。そもそも地獄が滅びるよりも一足先に、九十九は炎獄の天使に灼かれてこの物語から退場した。地獄の終わりをその目で直接視たわけではない。今知っている情報はその直前に開闢王から教えられたものであり、その後あの白い空間で『少女』から授けられた知識によるもの。実際に時間を巻き戻して、ちりを『净罪』から救った今でも、九十九の中では現状を完全に咀嚼し切れてなどいなかった。
しかしながら事実として、九十九が体験した未来では真実を知った黄昏愛は無間地獄に残ることを選び、九十九の前から消えていった。その真実は愛にとって禁忌中の禁忌であることに間違いはないのだと、九十九は直感していた。
黄昏愛の願いは叶わない。その真実を今この場で正直に話せばどうなるか。今の愛がその絶望を突きつけられたら、またあの時と同じように、自分の手の届かない場所へ消えてしまうのではないか。その強烈な懸念が、九十九の舌を偽善へと動かした。
「……私達は負けたんだ。奴等に」
喉の粘膜が異常な乾燥を覚え、発せられた言葉は砂を噛むような著しい不快感を伴って空気中へ紡ぎ出される。罪悪感が心臓を冷たい手で締め上げるのを感じながら、九十九は視線を微かに床の模様へと落とした。
「私が、負けたんですか?」
愛の反問する声はどこまでも透き通った冬の湖面のように澄み渡り、それ故に九十九の脆い胸の奥底を深く抉り取る。
「……ああ。それくらい、強かったんだ。私達は奴等に負けて、無間地獄に辿り着くことができなかった……」
しどろもどろに紡がれる九十九の言葉。その一瞬、一切の逃げ場を喪失した気まずい沈黙の塊が、対峙する二人の間に重く冷たく横たわる。窓外から差し込む極彩色の光と揺らめく影の輪郭だけが、室内をただ冷ややかに見下ろしている。
この時、愛は九十九の言葉の中に潜む僅かな揺らぎを鋭敏に感じ取っていた。黄昏愛は嘘を嫌う。なぜなら嘘は、真実を追い求める愛にとってただの障害でしかないから。
しかし、あの正直を絵に描いたような芥川九十九が、何かを隠そうとしている。九十九という人間の性格上、恐らくそうしなければならない理由があって――しかもそれは、きっと愛を守るため。確証も無いただの直感だったが、この時既に愛はそこまで見抜いていた。
「…………そうですか」
だからこそ、愛にはそれ以上の追求を自らの内に封じ込める他無かった。一応の納得は示すように、視線を伏せて静かに言葉を漏らす。しかし察しがついてしまったが故に、この現状が余計にもどかしく、愛の心の奥底には不完全燃焼の感情が澱のように溜まっていく。吐き出すことのできない熱量が内臓を焦がす感覚を覚えながら、ただ静かに呼吸を繰り返すことしかできない。やがて室内には先程よりも密度を増した気まずい沈黙が再び舞い降りたのだった。




