叫喚地獄 2
怪異『工務店』が生み出した人造呪物――『净罪』。それはこの地獄という異世界におけるデバッグルームと呼んで相違無い場所だった。問題だったのは、それを管理者ではなくユーザーが生み出してしまったということ。『净罪』が生み出された時点で、この世界のバランスは崩壊した。そういう意味ではやはり、全ての元凶は間違いなく如月真宵だったのだ。
衆合地獄極北の地下に存在する血錆に塗れたその部屋は、コンクリートの滑らかな壁面に古びた松明が等間隔に掛けられていて、不規則に揺らめく橙色の炎が室内の輪郭を不気味に浮かび上がらせていた。地下特有の湿った重い空気の中、部屋の中央には剥き出しの地面から直接生え出したかのような、不自然な威容を誇る石造りの台座が鎮座している。その壇上で鈍い銀色の輝きを放つ大きな鋏が、獲物を待つ獣の牙のように静かに横たわっていた。
「ククッ……それデ? どうすんダ? 净罪は自分の手でヤらなきゃ効果がナイ。介錯はしてやれねェゾ?」
拷问教會の第二席を担う銀髪の魔女、シスター・フィデスは、台座に肘を突きながら、他人を嘲り虚仮にする歪んだ笑みを浮かべていた。燃えるような灼眼は目の前の赤い髪の少女を見据え、その心の奥底に潜む僅かな迷いすらも冷酷に暴き立てようと機能している。その言葉は氷のように冷たく、鋭利な刃物となって耳朶を打ち、逃げ場のない現実を残酷なまでに突きつけていた。
それを前にした一ノ瀬ちりは、台座の上の代物に視線を落としたまま、自らの内側に渦巻く名状しがたい感情と葛藤する。彼女の脳裏には先程フィデスから告げられた真実が呪いのように深く刻み込まれていた。
この街を出るには『净罪』をするしかない。その代償として支払うべきは、二度と再生することのない、永遠に癒えることのない傷跡。それだけが彼女達を次の階層へと導く唯一の切符になるのだという。
一ノ瀬ちりに願いは無い。未来に進みたいという積極的な理由など持ち合わせてはいない。むしろ今の停滞した時間が永遠に続けば良いとさえ心のどこかで祈っていたのだ。しかし、状況はそれを許さない。芥川九十九が、そして黄昏愛が、それぞれの願いを叶えるため。未来に希望を抱き、この地獄の最果てを目指している。
もしも自分が今ここで立ち止まれば、彼女達は永遠にこの街に囚われ、その願いは露と消えてしまう。ならば。自分一人が犠牲になることで、その運命を僅かにでも変えられる可能性があるのなら――もはや迷っている時間に意味は無く、その血を流すことに躊躇いなど無かった。
「……どうする、だと? ふざけんなよ――」
彼女はゆっくりと、その赤く彩られた右手を伸ばし、台座に置かれた鋏を力強く握り締めた。金属の冷たい感触が皮膚を突き抜けて神経を直接灼く。指の震えを押し殺して、これは自ら望み選び取ったのだと言わんばかり、彼女はそれを静かに持ち上げた。
「――決まってんだろ、そんなもん」
鋏の刃先を自らの腹部、その薄い皮膚の上へと静かに充てがう。鋭利な刃がシャツの布地を容易く切り裂き、熱を持った肌に直接触れる。その僅かな感覚が死への恐怖を鮮明な現実として呼び起こそうとするが、彼女はそれを贖罪と言う名の免罪符で強引に捩じ伏せた。
自らの指に力を込める。筋肉が軋み、骨が鳴る。刃が皮膚に食い込み、その薄皮を切り裂かんと沈み込む――
「ちりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃィィィィィイイイイイイッ!!!!」
――その時であった。静寂を切り裂く必死の叫び声が、部屋の上方から響き渡ったのは。
高い天井に設けられたマンホールから一直線に繋がる縦穴の出入り口、そこから鼓膜を破るほどの強烈な怒号と共に、一つの黒い影がこの絶望の底へ向けて猛然と降り立つ。
その者の名は、芥川九十九。本来ならこの瞬間、絶対に現れるはずのない彼女は今――最悪の未来を書き換えるためにやってきた。
その瞬間、この場に居る誰もが思考を止めた。一ノ瀬ちりも、あのシスター・フィデスでさえも。『閻魔帳』において、その直前まで綴られていた筋書きとは全く異なる展開に、誰も反応できずにいた。その静寂を埋めるように、九十九は瞬きをする時間すら与えないほどの速度で、一気にちりの元へと肉薄する。激しい呼吸を繰り返すその見開かれた瞳の中には、ちりが今までの長い付き合いの中で一度たりとも見たことがないほどの激情が、荒れ狂う渦潮を形成している。
「は……? な……っ……九十九……!? オマエ、なんで……ッ!?」
予測不能の事態によって大きく目を見開く一ノ瀬ちりの視界の中、九十九は自身の呼吸を整えることすら完全に忘れ去り、ただ真っ直ぐにちりの目の前に駆け寄りその姿を網膜へ捉え続けていた。その凄まじい勢いのまま九十九は両手を前方に突き出し、ちりが両手で固く握っていた鋏の柄の上から、自らの指を重ね力強く押さえつける。万が一にも刃先がこれ以上ちりの腹部へ食い込むことのないよう、自身の全体重を前方に預け金属の動きを物理的に封じ込める。掌から伝わる九十九の異常なまでの体温の高さが、ちりの凍えきった指先を強制的に溶かしていく。
「ちり……!! どうして、こんな……ッ!! こんな……勝手なこと、しないでよッ!!」
九十九の全身から立ち上る怒気は、物理的な質量を伴って周囲の空気を歪ませる程の圧力を放っていた。怒り、悲しみ、あらゆる感情が混濁して、その美しい顔立ちを痛ましく歪ませている。
「か、勝手って……!」
「勝手だよッ!! 勝手に、全部独りで抱え込んで……勝手に、私の気持ちを決めつけて……!! 私はこんなこと望んでないッ!! こんなことして……私が喜ぶとでも、本気で思ったの……!?」
反論の隙も与えない悲痛な訴えに一ノ瀬ちりがたじろいだ次の瞬間、九十九はもはや思考を介さない反射的な動作によって力強く、それでいて硝子細工を扱うような繊細さで、その華奢で冷え切った彼女の身体を自身の胸元へ深く抱き寄せていた。互いの心臓の異常なまでの鼓動の速さが衣服越しに直接伝わり、滲んだ汗が混じり合うほどに強く、強く抱き締める。
「ちがう……わかってくれよ……! これしかないんだ……オレがこうしないと……オマエを未来に進ませられない……!」
九十九の腕の中で、ちりはその拘束から逃れようと必死に手足を動かし激しく藻掻く。しかしどれだけ力を込めて突き飛ばそうとしても、九十九の腕は決して拘束を緩めない。
「うるさいッ!! もう二度と!!! 私の傍から離れるなッ!!!!」
九十九の全身全霊を込めた叫びは、地下室に漂う冷たく淀んだ空気を激しく震わせ、石壁に幾度も反射し重く激しく響き渡る。その強烈な感情を前にして、ちりの右手に限界まで込められていた力は、急速にその勢いを失い始めていた。強固な決意で握られていたはずの鋏の柄から、少しずつ指先が滑り落ちていく。
「なんでだよ……おれは、ただ……おまえの役に、立ちたくて……捨てられたく、なくて……! だから……せめて、これくらい……!」
九十九の温かい腕の中に完全に収まった状態で、ちりは今にも消え入りそうなほどに掠れた弱々しい声で、長年隠し続けてきた心の内を断続的に漏らす。
「なあ……本当は全部わかってるんだろ……? おれのせいだ……全部、おれのせいなんだよ。憎いはずだ……おれのことが。許せないだろ……? わかってるんだ……だから、なあ……頼む。頼むよ。頼むから……償わせて。罰を、与えてくれ……」
二百年前。一ノ瀬ちりは、全ての責任をたった一人の少女の肩に背負わせることでしか、この地獄で希望を見出すことができなかった。己の弱さが、無垢な少女から自由という名の翼を根本からもぎ取った。芥川九十九という役割を与え、屑籠という玉座を与え、悪魔の如き幻葬王へと仕立て上げた。噂が独り歩きし、孤立を深めていくその過程を、ただ傍観していた。
その取り返しのつかない罪悪感が、二百年という時間の流れの中で徐々に発酵し、猛毒となって一ノ瀬ちりの魂を蝕み続けていた。永遠に続く贖罪の道を歩むことこそが自らの唯一の存在意義であり、九十九が受けてきた苦痛以上の罰を己の肉体に刻み込まなければならないという強迫観念。それが彼女をこの場所へと導き、自らの腹部へ刃を突き立てるという狂気へと駆り立てた最大の元凶。
「おれを……許さないでくれ……」
澱殿し続けていた途方もない悔恨の念が、限界を迎えた精神の決壊に伴って口腔へと強引に押し上げられていく。許されるはずがないという確信と、許されてはならないという強迫観念が交錯する中、ひたすらに破滅的な罰のみを渇望するその悲痛な叫びは、静寂に包まれた石造りの壁面にぶつかっては空しく乱反射を繰り返す――
「……うん。許さないよ。絶対に、許してなんかやらない。――だから、責任取って」
しかし九十九からの返答は、先程までの激情から一転、静謐で慈愛に満ちた響きを帯びていた。腕の中で小刻みに痙攣するちりの華奢な背中に、その手のひらを滑らせていく。それは世界で最も愛おしいモノのかたちを確かめるように、甘く柔らかな手つきで。薄い生地越しに伝わる九十九の穏やかな体温が、ちりの凍りついた皮膚の表面をゆっくりと融かしていく。
「ちりの全部、私にちょうだい。私の全部、ちりにあげるから」
そうして一切の淀みなく、九十九の薄い唇から放たれたその一言が、永らく停滞していた二人の時間を未来に向けて動かし始めたのだった。
「ちり。気持ちってさ、言葉にしないと伝わらないんだって。私、そんな当たり前のことが解ってなかった」
九十九の声は先程よりもさらに一段階深い場所から、重く、確かな実感を伴って放たれ、ちりの耳元へと届けられる。その語調には、かつての自分自身の愚かさを悔いるような響きが僅かに混じっており、同時にこれから告げるべき言葉の重要性を自覚している者の張り詰めた緊張感が宿っていた。
「……ごめん。勝手なのは私だった。言わなくてもきっと解ってくれるって……言ったらむしろ、迷惑をかけるんじゃないかって……ちりのためだって言い訳して、本当は自分が傷つきたくなくて……全部独りで抱え込んで……言葉にするのを避けてきた」
九十九は一度だけ深く、凍てつくような地下室の冷気を肺の奥底へと吸い込んだ。張り詰めた静寂の中、互いの微かな衣擦れの音と、不規則に刻まれるちりの荒い呼吸だけが重苦しい空間を満たしている。見失いかけた世界の色彩を再び取り戻すかのように、彼女の冷え切っていた頬に微かな血の気が差し、華奢な背中を抱き締める腕の力が強まる。
「遅すぎたかもしれない。それでも……伝えさせてほしい。今、ここで。私の気持ち」
これから彼女は、ただ眼前に存在するたった一人の少女を自分の傍に繋ぎ止めるためだけに。自身の奥底に秘められていた最も純粋な熱源をありのまま、言葉に変えようとしていた。
「好きだ。大好きなんだ。だから……お願いだよ、ちり。私の傍から離れないで。ずっと一緒にいてほしいよ」
その真っ直ぐな愛情の吐露が、ちりの心の最深部に設けられていた最後の壁を決壊させた。自らを罰することでしか満たされることはないと思いこんでいた、その冷徹な決意を宿していたちりの瞳から、抑え切れない大粒の涙がとめどなく溢れ出し、重力に従って次々と頬を伝い落ちていく。その熱を帯びた水滴は九十九の胸元に染み込んで、暗く濃い色合いに染め上げていった。
限界まで張り詰めていたちりの右腕からは完全に力が抜け落ち、指先から離れた重厚な鉄製の鋏が、冷え切った石の床に向かって落下する。硬質な金属と石材が激突して生じた乾いた破砕音が、静まり返った地下室の壁面を何度か反響した後に消え去っていく。地下室を占めていた血生臭い気配はいつしか跡形もなく消え去り、互いの柔らかな体温を直接肌で感じ合う二人の抱擁によって、その空気は僅かな熱を帯びていった。
最悪の未来は今、確かに書き換えられたのである。
◆
拷问教會の世界を滅ぼす計画には幾つかの候補があった。しかしそのどれもが確実とは呼べず、だからこそ一万年以上もの永い時間を費やして、今日まであらゆる可能性を探ってきた。
その中でも、如月真宵を『茨木童子』に改造する計画は成功する確率が最も高い賭けだった。拷问教會にとって最大の障壁であった羅刹王、その唯一の弱点である『酩酊』の異能こそがやはり、羅刹王を安全且つ確実に殺せる唯一の方法。それこそ世界を滅ぼす最短距離だというのが、この一万年で出た結論だった。
例えば『くねくね』の怪異、歪神楽ゆらぎの『狂気』の異能であれば確かに、羅刹王を殺すこと自体は理論上可能ではある。しかし『狂気』は羅刹王の異能そのものを無力化することは出来ない。つまり羅刹王を『狂気』で殺したとしても、問題はその後。羅刹王の『クトゥグア』の炎は、道連れにその階層ごと全てを焼き尽くしてしまう。そうなれば結局、誰も無間地獄に向かうことが出来なくなる。本末転倒だ。
その点において『酩酊』の異能は、まず羅刹王の異能を根本から無力化することが出来る。異能の発動すらも封じ込めた上で、二度と醒めることの無い眠りに落とすことが出来る。怪異特有の自然治癒機能で復活することも無い。死の寸前に抵抗される心配もなく、ほぼ確実に、実質的な完全なる死を齎すことが出来る。
この計画に問題があるとすれば『茨木童子』の完成に必要な材料、それが確実に手に入る保証はどこにも無いというただ一点。こればかりは、やはり賭けだった。時間が解決してくれるとも限らない、天文学的確率との勝負。
その永い道程の中で『宇宙人』の怪異を始めとする他の材料はどうにか運良く手に入れられたが、最後のピースとなる『赤いクレヨン』――それも『净罪』に適正のある特殊な個体の捜索は困難を極めた。だからこそ拷问教會は『茨木童子』が完成しないという最悪の事態を想定し、他の筋書きも並行して進めていたのだ。
その数ある候補の内の一つが開闢王の『ヨグ=ソトース』であり、シスター・マルガリタであり、シスター・アポロニアだった訳だが、それはさておき。
兎にも角にも『茨木童子』を完成させることこそが拷问教會の、ひいてはシスター・フィデスの最優先事項。そしてついに転機は訪れた。一ノ瀬ちり。喉から手が出るほど欲していた最後のピースがようやく見つかったのだ。しかも都合の良いことに、彼女は心に闇を抱えていた。付け入る隙があった。見つけてしまえばこちらのもの。心を読めるシスター・フィデスにとって、彼女を『净罪』に導くのは容易いことだった。
あと少し、ほんのちょっとの猶予さえあれば、シスター・フィデスの願いは叶っていた。正にこの瞬間、一ノ瀬ちりは自らの手で薄い腹部の皮膚を鋭利な刃で切り裂き、血塗られた内臓を捧げているはずだった。その儀式は近い将来、如月真宵という器に新たな心臓を与える為の布石となるはずだったのだ。
「……ハァ……? オイ……なンダ……これハ……?」
しかしながら現実に彼女の眼前で繰り広げられている現象は、ここまで繊密に練り上げられた筋書きから突如逸脱した、全く予期せぬ展開であった。
芥川九十九。この方程式において最も介入を許してはならない致命的な異物が、未来の軌道を強引に捩じ伏せてしまったのだ。固い石造りの床に無残に崩れ落ちた鉄製の鋏が放つ鈍い金属の光沢は、フィデスの野望が今この瞬間潰えた事実を雄弁に物語る墓標と化していた。彼女の眼窩で燃える灼眼は、強く抱き締め合う二人の少女の姿を呆然と捉えている。
シスター・フィデスの異能、心を読む『さとり』の具現化たる『閻魔帳』は、実際に目を通さなければその内容を読むことは出来ない。当たり前の話のようで、それがフィデスの弱点でもあった。つまりこの瞬間、フィデスは芥川九十九の心を読めていない。だから解らなかった。今何が起きているのか、その正確な理由が咄嗟に把握出来なかった。
「(馬鹿ナ……何故このタイミングで芥川九十九……!? 一体何が起きていル……!?)」
完璧な脚本から逸脱し未知の領域へと暴走を始めた現実に直面したフィデスの思考回路は激しく混乱していた。そんな混乱の極みの中でも、揺るがない事実として今、この場に芥川九十九が居るということ。その現実がシスター・フィデスの生存本能に警告を掻き鳴らす。
この地下室では盛者必衰の理の影響を受けない。今ここで芥川九十九に襲われたら、シスター・フィデスには為す術も無い。懐に忍ばせている拳銃や爆弾程度の代物で、あの規格外の悪魔を返り討ちにするなど不可能と言っていいだろう。
「クソッ……!」
銀髪の魔女の薄い唇の隙間から、沸騰する焦燥感を辛うじて抑え込んだ、呪詛を思わせる苦々しい毒づきが零れ落ちる。その冷徹な状況判断は瞬時に彼女の肉体の末端へと伝達され、極限の逃走行動への移行を強く促す。彼女は即座に踵を硬い床面へと強く叩きつけ、巨大な石造りの台座が落とす深い影の領域へと、しなやかな躍動を伴ってその身を翻した。
その壁面の背後には如月真宵の異能によって構築された、特定の階層間の行き来を可能とした亜空間『バックルーム』への隠し通路が密かに存在している。フィデスは未知の恐怖から逃れるように、壁面に擬態した穴の中へ自らの肉体を投じた。
◆
壁面の裏側に口を開けた隠し通路は、地下の水道に直結していた。無機質に塗り固められた壁面からは、地下の水脈から滲み出した液体が絶え間なく滴り落ちている。重力に耐えかねた水滴が硬質な水面に衝突し、不規則な破裂音を連続的に発生させる。足元を力なく流動する下水の酷く濁った水音が、迷宮の如く入り組んだ暗闇の静寂を一層不気味に強調していた。一切の光源が存在しない暗い水路を、フィデスは猛然と疾走していく。
「(落ち着ケ……とにかく今ハ、早くこの場を離れテ……カタリナに連絡ヲ……! 計画を修正すル……大丈夫……まだ打つ手はあル……ッ)」
暗闇の疾走を継続しながらも、彼女の明晰なる頭脳は次なる策謀の糸を紡ぎ出すべく機能する。一ノ瀬ちりの喪失は計画進行において致命的とも言える甚大な被害であることは疑いようもない事実。しかしながら彼女の辞書に、諦観という概念は存在しない。
幾つかの代替案を並行して演算しつつ、彼女は自らの耳の奥深くへ外科的に埋め込まれている人造呪物――『地獄耳』の起動プロセスを脳波で実行した。階層すら跨ぐその特殊な通信網を介し、現在別行動を取っているシスター・カタリナへこの異常事態の全容を即座に伝達しようと試みる。
「……――ッ!? ぐアッ……!!」
しかしながら鼓膜を直接振動させるはずの音声は届かず、代わりに不快極まりない耳障りな電子のノイズが、彼女の聴覚神経を暴力的に引っ掻き回した。何度再接続の要求を送信しても、通信経路は厚い鉛の壁に完全に遮断されたかのごとく、一切の応答を示すことはない。それどころかノイズは暴力的なまでに酷くなり、フィデスの思考すら掻き乱すほどの猛烈な痛みとなって襲いかかる。
その現象がこの期に及んで単なる機械的なトラブルなはずもなく、外部からの干渉による直接的な妨害である事実はもはや明白だった。
「逃がさないよ」
答え合わせをするように、暗闇に響き渡るその声の主は、地上へと繋がる水道の出口を完全に塞ぐ立ち位置に悠然と佇んでいた。
滅三川ジェーン瞳。右目の眼窩に収まるのは一切の光を吸い込む漆黒の瞳であり、長い前髪の裏側に隠された左目は深遠なる紫色の輝きを放っている。赤黒い獣の角を冠する彼女は、激痛に苛まれ覚束ない足取りのまま此処まで逃げ果せたフィデスの姿を、捕食者の如き眼差しで冷酷に見据えている。
「なんダ……誰だキサマ……ッ」
酷く乾燥した口腔から摩擦を伴って吐き出されたその声色は、フィデス自身の知性が現在の状況を正確に把握できていない事実を如実に物語っていた。絶え間なく襲い来る頭痛が彼女の明晰なはずの思考能力を著しく阻害しており、目の前に立ち塞がる障害、その正体を脳内のデータベースから照合することを困難にさせている。
「……イヤ……待テ。その眼……キサマ……滅三川だナ……!?」
それでも、かつて開闢王と呼ばれた彼女の知恵と執念は、記憶の最深部に眠っていた情報を半ば無理やり引きずり出す。その正体を認識した瞬間、血の気が急激に引いていく錯覚を彼女は全身で感じていた。
「大正解。こうして直接顔を合わせるのは初めましてだね、フィデス先輩。あんたの異能はたった一度、対象と顔を直接合わせるだけで恒久的に発動できる。それを避ける為に、幹部時代はずっと顔隠してたからねー。どうよ? このプリティーフェイス。やっと拝めたな、嬉しいだろ?」
満身創痍のフィデスとはまるで対照的、滅三川の軽薄で悪びれない声音が空間を満たしていく。極限の状況下において、生存本能に突き動かされたフィデスの肉体は無意識のうちに後方へと、退避の歩を進めようと泥濘んだ地面を擦る。
「おっとォ、此処から先は通行止めだぜい。第二席」
しかし直後、今度は背後に広がる底なしの暗闇の奥底から、大気を震動させるような極めて低い声域の笑い声が重々しく反響する。フィデスが反射的に首の筋肉を捻って後方を視認すると、其処には暴力の権化と呼ぶべき巨体が音も無く佇んでいた。
闇の中で爛々と輝く金色の双眸。顔面の皮膚の表面には黒い薔薇と無数の茨を模した刺青が、呪術的な紋様を描いて複雑に絡み合う。その威容は拷问教會の第七席、シスター・ドロテア。彼女の出現は、フィデスの退路を完全に封鎖したことを意味していた。
「ッ……そうカ……この痛みハ……キサマの仕業カ……! ドロテア……裏切り者ガァ……!」
「ハッ、裏切り者だとォ? 笑わせんじゃねェよ。開闢王を裏切ってンのは手前等だろうがァ」
自らの肉体を内側から焼き尽くさんばかりの激痛の根源を理解した瞬間、フィデスの口腔から怒りに任せた激しい叫び声が強引に迸る。その血を吐くような非難に対し、ドロテアは嘲笑の言葉で以て叩き返した。
「ククッ……まだそんな事言ってんのかヨ……オメデタイ奴だナ……! 全て開闢王が望んだことダ……! 開闢王の願いを踏み躙ってんのはテメェのほうなんだヨ……! いい加減目を醒ませよドロテア……キサマは利用されているんダ……! 滅三川にナァ……!」
内臓を捻り潰されるような苦痛に顔面を歪ませながらも、フィデスは歯の隙間から粘り着くような嗤いを漏らした。事此処に及んで、フィデスはまだ諦めていない。生前は稀代のペテン師とすら謳われたその魔術めいた口先で、この絶望的な状況を打開すべく紡ぐことを止めない。
実際、フィデスの告げたそれは真実である。計画を立てたのはカタリナとフィデスだが、開闢王は全てを識った上でその実行に加担している。開闢王は人類の救済という名の下、世界の滅亡を望んでいる。それは疑いようもない事実。
「まるで解っちゃいねェなァ! いいかァ? 開闢王はなァ、白い紙なんだよ。白は何色にだって染まっちまう。手前等が開闢王を黒く塗り潰しちまったんだ。だから、あのヒトは悪くない。そうに違いねェ」
しかしフィデスの放った毒の刃は、分厚い信仰の前に呆気なく弾き落とされる。その瞳に爛々と宿る金色の輝きは、もはや一切の疑念を持たない純粋な狂信者のそれであり、如何なる真実であろうとも到達できない特異な精神の領域を形成していた。
これまでフィデスは、拷问教會の齎す『救済』によって集められた有象無象の信者達を都合の良い労働力、単なる駒として散々利用してきた。彼女にとっては眼前に立つこのドロテアも、そんな数多ある駒の内の一つに過ぎず、疑念と欲望に容易く流される一介の信者と何ら変わらないはずだった。
だから今回の敗因は、ドロテアという人間の本質を低く見積もり過ぎていたこと。そうでなくとも、ドロテアが抱く開闢王への信仰心は異常であった。それはたとえ開闢王本人から真実を告げられ、こっ酷く裏切られたとしても。その程度でドロテアの信仰心が揺らぐことなど有り得ない。むしろその狂信があったからこそ、彼女は現在の第七席という座にまで上り詰めることが出来たのだ。
そんな彼女の『狂気』を宿した金色の瞳に、一度でも見据えられれば最期、何者であろうとその『狂気』にあてられてしまう。魂に直接走る激痛が意識を苛み、異能の発動すら強制的に中断させる。
「だからよォ、今度は己等が開闢王を救う番なんだ。信じた道は貫き通す。受けた恩は必ず返す。それが極道だからなァ」
信じたいものだけを信じ、視たいものだけを視る。果たしてその『狂気』こそが、シスター・ドロテアこと泥舟朧――『邪視』の怪異である彼女の本質であった。
「……今のテメェはシスターだろうガ……」
対話による事態の打開が完全に不可能であると悟ったフィデスの口から、絶望に掠れた声が漏れ落ちる。ドロテアの純粋な狂気を前にして、彼女の思考回路は徐々にその正常な機能を停止し始めていた。
「なあ、先輩。あーしがあんたの前に姿を現したってこと、その意味が解るよな?」
硬直状態に陥ったフィデスの意識の僅かな隙間を縫い合わせるように、前方に立つ滅三川から温度を感じさせない声色で言葉が鋭く投げかけられる。薄闇の中で妖しく光る黒と紫の双眸は冷ややかにフィデスを捉えていた。
「潰しに来たぜ。覚悟しな、拷问教會」
「滅三川ァ……ッ!!」
滅三川の挑発的な態度に、フィデスの硬直した喉の奥から獣にも等しい咆哮が強引に絞り出される。そのまま怒りに任せて次の呪詛の音節を冷たい空気に乗せようと、彼女が微かに肩を震わせ肺に酸素を送り込んだ、正にその刹那だった。フィデスの背後に控えていたドロテアが次の瞬間、その鋼鉄が如き剛腕を何の予備動作もなく無慈悲な軌道を描き出し、分厚い地下の空気の層を鋭く薙ぎ払った。
巨大な拳の先端が、フィデスの背面に容赦なく捩じ込まれる。その鋭い衝撃は身体を突き抜けるかのような錯覚を与えるほどに深く、フィデスの内臓にまで重く抉り込んでいた。骨が軋み、筋肉が断裂する嫌悪を催すような感触が、一瞬の静寂の後に遅れてフィデスの全身を駆け巡る。
「かハ、ッ――、――……」
肺の内部に蓄えられていた僅かな空気が、フィデスの口から呻き声として反射的に吐き出される。そのまま彼女の意識のスクリーンは、一瞬にして色を持たない純白の光で塗り潰された。正常な嚥下機能を失った口腔から胃液の混じった酸性の唾液が無様に滴り落ちて床面を醜く汚していく。膝の関節から完全に力が抜け落ちたフィデスの肉体は、そのまま重力に従い冷たく硬いコンクリートの床面へと崩れ落ちた。
その一瞬の出来事を見届けた滅三川は、微動だにしなくなったフィデスの傍まで悠然と近寄ると、静かにその場にしゃがみ込み、徐ろにフィデスの銀髪を掴んで無理やりに顔を上げさせる。焦点の合わない瞳と脱力した表情からフィデスが完全に気絶していることを確認すると、まるで興味を失ったように無造作にその手を離した。そのまま流れるような動作で、滅三川は自身を纏うカーディガンの懐深くから黒い頑丈そうな縄を取り出すと、意識を手放したフィデスの身体を手際よく縛り上げていく。
「……さーて。ここからどう変わるかなー……」
淡々とフィデスを縛る作業をこなしながら、誰にともなく静かに呟く滅三川。その瞳の奥深くでは、未だ確定事項に至っていない未来の無数の断片が、万華鏡が描き出す極彩色の模様が如く複雑に揺らめきながら絶え間なく明滅を繰り返していた。
運命の分岐点を正確に見極め、世界の行く末を遥か高みから俯瞰するその超越的な視界は、次の展開へ――既にその焦点を合わせ始めている。




