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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
怪物少女の夢想偽譚 第一章 叫喚地獄篇

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叫喚地獄 1

「つか何気に初めましてだよね? あーしは『滅三川(メサガワ)ジェーン(ヒトミ)』ちゃん。で、こっちが『()()()()()』ね。よろしくー」


 第三階層、衆合地獄の酩帝街。昼夜問わず薄暗い其処では、概念そのものを根底から変容させる酩酊の霧が、眼前に広がるすべての事象を甘やかに溶かし尽くしていく。等間隔に配置された朱色の提灯が連なり、霧中の曖昧な輪郭を妖しく照らし出し、何処からともなく流れてくる退廃的な享楽の調べが、この終わりのない地獄の停滞を永遠のものとして祝福している。その極彩色に彩られた理想郷の片隅、西区に位置する旅館の一室で、芥川九十九は覚醒した。


 重い目蓋の裏側に鮮明に焼き付いていたのは、広大な空も堅牢な大地も、世界に存在するすべての事象が脆い泡沫と化して無残に崩れ去った終末の景色。愛する者たちが悉く消え失せ、自らもまた炎獄の閃光に灼かれ絶滅した、あの救いのない絶望の感触が脳髄に深くへばりついて離れようとしない。頭の中を直接弄られたような不快な感覚。それは不可逆であるはずの時間を強制的に遡行させたことに対する代償の請求。あるいは彼女の奥底に眠っていた『偽物ラプラスの悪魔』としての本能が産声を上げた証左だったのかもしれない。


 九十九はその身に起きた事実を冷徹に認識していた。肺を満たそうとする空気は鉛の重さを持ち、過剰な湿り気を帯びており、喉の奥にねっとりと絡みつく。気管支が酩酊の成分を含んだ外気を全力で拒絶し、細かく無数の痙攣を繰り返している。視界は依然として濃い混濁に覆われ、網膜に飛び込んでくる外界の情報は、意味をなさない光の斑点として脳に処理されるばかりであった。脳が現状の座標を把握しようと必死に記憶の断片を繋ぎ合わせようと試みるたびに、鋭利な刃物で削られる痛覚がこめかみの奥底で赤い火花を散らす。


「行くよ、芥川九十九。ここからが本当の下剋上だぜ」


 そんな彼女を導くように、鋭い軌道を描いて届いたその声は、驚くほど軽やかな響きでありながら、何人にも逆らうことを許さない確固たる重みを内包していた。


 宙を彷徨っていた九十九の焦点の定まらない視線は、重い瞬きを数度繰り返すことで、ようやく眼前に佇む二人の見知らぬ女へと焦点を定めることに成功した。

 一人は、純白のセーラー服の上から柔らかな質感のカーディガンを羽織った、白金色の美しい長髪を持つ女。頭上には二本の禍々しい赤い角が白い頭蓋を内側から突き破り隆起している。長い前髪に隠れたその瞳は右が深淵の漆黒、左が夜明け前の深紫という、異界の色彩を強烈に放っていた。

 もう一人は、周囲の光を全て吸い込むような漆黒の肌に、鈍い輝きを宿した金色の双眸を持つ、筋肉質で高身長の黒髪ショートパーマの女。黒い修道服の上から使い込まれた革ジャケットを無造作に纏い、丸いフレームのサングラスをかけた顔はその一面に薔薇と茨の刺青が深く刻まれ、灯りに照らされたそれは生き物の脈動を伴い不気味に蠢いている。首にかけた毒々しい輝きを放つロザリオ、さらに耳や鼻そして唇にまで幾つも貫通した無骨な金属の装飾が、鈍い光を絶えず乱反射させていた。


 当然の帰結として、現在の九十九には彼女たちの名を知る由など全く存在しない。記憶の深淵をどれほど手繰り寄せても、彼女たちとの接点を示す痕跡は一切見当たらない。正真正銘、初めて相まみえる完全に未知の存在である。それがこの世界線における芥川九十九にとって最初で最大の問題として早々に立ちはだかっていた。

 目を覚ましたその瞬間から前回の時間軸とは何もかもが決定的に異なる軌道を描き始めている。自分自身の正体に関する自覚を得たこと自体が僅か数秒前の出来事であり、状況の理解がまだ追いついていない。そんな異常事態の数々を前にした九十九の赤い瞳には、かつての凪いだ静謐な光はなく、代わりに抑えきれない焦燥と困惑が渦巻いていた。


「……お前は、何者だ」


 乾燥し切った喉の奥から無理やり絞り出す過程を経て、辛うじて発することの出来たその声は、九十九自身の耳にも酷く掠れて弱々しく聞こえた。


「そんなこと気にしてる場合? このままじゃ、愛しのちりちゃん。取り返しのつかないことになっちゃうぜ?」


「っ……!?」


 その名を聞いた刹那、九十九の心臓は激しく警鐘を打ち鳴らす。ちり。その名が持つ特別な響きが、微睡んでいた思考に火を点ける。

 今この瞬間にも一ノ瀬ちりは北区郊外、あの『净罪』の地下室で、自らの肉体を切り刻む儀式に臨もうとしているのだ。前回の時間軸において、芥川九十九はそれに気付くことすら出来なかった。だが、今回は違う。まだやり直せる。一刻の猶予も無い。あの赤い少女が誰にも相談せず孤独な決断を下し、永遠に癒えることのない傷をその身に刻み、二度と戻れない深淵へと自らを投じる前に、その手を掴まねばならないのだ。


「重要なのは、あんたが今何をしたいか。その為に、あーしと手ぇ組めんのかって話。時間が無い。今すぐこの場で決めな」


 滅三川ジェーン瞳。自らをそう名乗るこの女は、あまりにも怪しい。その正体も背後にある目的も不明。しかしそれでも九十九は直感していた。ここで自己の疑念を優先させ協力を拒めば、ちりを救う唯一の機会を永遠に失う結果となる。例えこの差し伸べられた手が悪魔の誘いであろうと、今の自分には彼女の持つ知識と案内が絶対的に必要不可欠であることを、九十九の生存本能は完全に理解していた。


「…………わかった。手を貸してくれ」


 乾いた唇を強く噛み締める。口内にじんわりと広がる鉄の錆びた味と微かな痛覚が、混濁し浮遊していた意識を鮮明な現実の地平へと強固に繋ぎ止める。九十九のその言葉には、もはや一切の迷いは介在していなかった。彼女がその短い言葉を空気中に発した瞬間、室内に充満する酒精を帯びた空気が、その覚悟に反応したように震動する。


「なっ……つ、九十九さん……!? 待ってください、どこへ行くつもりですか!」


 九十九が滅三川の差し出した冷たい手を取ろうと腕を伸ばした矢先、背後から鋭い刃物で空気を切り裂く制止の声が響き渡る。黄昏愛――その分身が九十九の腕を貴重な壊れ物を扱う必死さで強く掴んだ。その小さな掌から伝わる確かな熱が、九十九の麻痺した感覚に現実の重みを容赦なく突きつける。

 だが九十九はその温かい手を、優しくありながらも決意を込めて、振り払う。


「……ごめん。後で必ず説明する。今は、どうしても行かなくちゃならないんだ……」


 愛の揺れる瞳に宿る不安と戸惑いを自身の背中で一身に受け止めながら、九十九は滅三川の立つ方向へと重い一歩を踏み出す。足元の古びた畳が微かな摩擦音を立て、その細かな振動が九十九の脚を通じて全身の骨格に伝わった。

 その直後、足取りのふらつく九十九の身体を、滅三川の背後に静かに控えていた黒い巨体たるシスター・ドロテアが、無言のまま乱暴に双肩へと担ぎ上げた。その腕に担ぎ上げられた瞬間、九十九の肋骨に息が詰まる鈍い圧迫感を与える。


「安心しなァ、こいつは己等おいらが運んでやる。ひとつ貸しだぜェ、()()()()()()()。己等の仲間を傷付けた分も、後で纏めて返してもらうからなァ」


 ドロテアは不敵な笑みを黒いサングラスの奥に潜ませ、地の底から響く低く唸る声を漏らした。その言葉の背後には、等活地獄で繰り広げられたあの抗争の生々しい残滓が色濃く漂っている。


「は? 誰ですかあなた」


 が、しかしながら。黄昏愛にとってそんな過去の因縁は認知すら全くしていない『外伝』の中での出来事でしかない。まるで身に覚えがないと言わんばかり、きょとんとしてその場に立ち尽くす愛の姿を一瞥し、ドロテアは忌々しげに顔を顰めた。


「……マジかよ。おい滅三川ァ、コイツ己等のことを覚えてやがらねェぞ。このドロテア様の顔をよォ……ムカつくぜい……」


「はいはーい、私情は挟まないよー。さっさとしゅっぱーつ!」


 滅三川の緊張感の欠片もない号令が、旅館の薄暗い室内の空気に軽く弾けた直後。九十九を抱えたドロテアは一切の躊躇いを見せることなく旅館の窓へと向かい、その脆い硝子を蹴り破る。暴力を検知した酩酊の霧が途端に濃く立ち込めるが、しかしドロテアも滅三川もその影響を受けている様子は見られない。砕け散った無数の硝子の破片が灯籠の朱光を反射し、その鋭利な一粒一粒が芥川九十九の視界の端を掠め、霧の中に吸い込まれていく。


「九十九さん……」


 窓から外界へと飛び出す直前、背後から微かに聴こえてきた愛の声。それに応える精神的余裕も時間的猶予も無いままに――芥川九十九は未知の時間軸、新たな可能性に満ちた世界線へと、その身を投じるのだった。


 ◆


 建物の三階から急降下、両足で着地したドロテアは当たり前のように無傷で、彼女はそのまま大地を力強く蹴り出した。瞬間、周囲の景色は暴力的なまでの加速によって即座に後方へと置き去りにされる。目指す先は酩帝街北区郊外、最果ての雪原地帯。

 ドロテアの広い肩に激しく揺さぶられながら、九十九は自身の意識が重く沈んでいくような不快感を覚えていた。吸い込む空気が粘性を持ち、身体の奥底を絶えず撫で回し続ける。吐き出す息は体温の熱を完全に失い、白濁した濃い霧の一部と化して空間に溶け込んでいく。


「そんな辛気臭い顔しないでよ。あーしら、これでも九十九っちの味方なんだからさ」


 ドロテアの隣を同じ速度で並走する滅三川ジェーン瞳が、風の抵抗に煽られる白金色の美しい髪を細い指で押さえながら、悪戯っぽい表情で九十九の顔を覗き込んだ。彼女の右目の漆黒と左目の深紫が、暗闇の中で妖しい燐光を放っている。その異端の瞳に映る九十九の姿は酷く頼りなく、今にも周囲の霧に溶けて存在自体が消えてしまいそうな危うさを色濃く孕んでいた。

 九十九は滅三川の放った言葉に対して、すぐには意味のある反応を返すことができなかった。未だ脳裏を支配しているのは、記憶の底に沈む終わりの情景ばかり。その救いのない絶望が冷たい泥と化して彼女の思考回路を著しく鈍らせている。いくら時間を巻き戻して過去に遡行したとはいえ、その極限の精神的疲労と深いトラウマは、九十九の魂の根幹に深く刻み込まれたままであった。


「……まだ、信用したわけじゃない」


「え、ひどー。ま、しょうがないか。九十九っちからしたら初対面だもんねー。これでも主人公あんたらのこと、裏方として地味に支えてきたんだけど。世界を救うためにさ。いやー脇役は辛いねー」


「世界を、救う……そもそも、どうしてお前は……世界が滅ぶことを知っているんだ……?」


 九十九の喉から漏れた声はか細く、瞬時に白霧へ溶け込んだ。こうして話している刹那にも、強烈な虚脱感が全身を覆っていく。前回の時間軸においては、これほどまでに自身の肉体が脆く弱いと感じることは一度もなかった。『禁后パンドラ』の呪いが回復し切っていない影響も少なからずあるのだろうが、やはり『偽物ラプラスの悪魔』の異能を発動した代償は、その身を以て支払わなければならないらしい。


「そんなこと、あとでいくらでも教えたげるって。あんま喋ってると舌噛むよー」


 何をどこまで見透かしているのか、不気味なほど軽薄に笑う滅三川。そうこうしているうち、酩帝街の北側に位置する最奥の北区へと近付くにつれ、空気の密度は目に見えて異常な変化を遂げていく。白濁した霧はより重く、より冷たく、そして鼻腔を直接刺す強烈な酒気を伴って、侵入者の意識を深い闇へと誘おうと執拗に機能する。視界の端の路地裏にはこの霧の毒に当てられ力尽きた者達の抜け殻が累々と横たわっていた。彼らの瞳は一様に虚空を捉え、終わることのない享楽の夢に永遠に囚われたまま、死よりも深い眠りに沈んでいる。その光景は死者の行進を静止画で切り取った情景を思わせる、極めて不気味な静寂を孕んでいた。


「近付いてきたなァ。こッからが本番だぜい。耐性の無い手前さんにはしんどいだろうが、意識飛ばされねェよう気ィ引き締めなア」


 ドロテアの低い声が、周囲の重たい霧を物理的に震わせた。其処はもはや地獄という名の楽園の果てに位置する深淵。常人ならば一歩足を踏み入れた瞬間に脳の機能が完全に停止し、意識が永遠の空無へと投げ出される聖域。白濁した空気は視界を完全に奪い去り、方向感覚は完全に失われる中、ただドロテアの力強い足音と、滅三川が放つ異様な存在感だけが、深い闇の中の唯一の道標であった。

 ドロテアが建物の屋上や瓦礫の山を軽やかに飛び越えるたび、九十九の視線は激しく上下に揺れ、平衡感覚を完全に狂わせる。九十九は自身の奥歯を砕けんばかりに強く噛み締めた。ここで意識を手放せば、自分もあの道端に転がる惨めな抜け殻と全く同じ運命を辿ることになる。一ノ瀬ちりを救うというただ一つの執念だけが、彼女の崩壊しそうな精神を不確かな現実へと繋ぎ止めていた。


「はい、ストップ!」


 最後のバリケードを飛び越え、僅か向こうの景色すら見通せない完全な濃霧の中に一歩を踏み入れた瞬間、不意に滅三川は足を止め、九十九を担ぐドロテアの方を振り返った。その視線の鋭さに、九十九の混濁した思考が一瞬だけ明瞭さを取り戻す。


「今の北区周辺は『净罪』の最中に余計な邪魔が入らないよう、カタリナが張り巡らせた落とし穴だらけ。あーしとどろろっちじゃ今の北区にはこれ以上、近付くことすらままならない。一歩間違えれば、あーしらはどこか知らない空間へ飛ばされて、二度と戻ってこれなくなる……けど。芥川九十九。あんたらは前回、これをどう攻略した?」


 投げかけられたその問いは、九十九の意識の底に沈んだ記憶の断片を力任せに手繰り寄せる。前回――あの似非地獄とでも呼ぶべき虚構の階層で、黄昏愛はその異能によって無限に紡ぎ出される有機物の糸を空間の余白にびっしりと張り巡らせた。それはカタリナが落とし穴として機能させていた何もない空間を物理的な質量で埋め尽くし、異能の発動条件を封殺した。単純な理論でありながら容易には実行不可能な規格外の解答。その時の光景が脳髄の深部で明滅する。


「愛の、糸……有機物で、空間を埋めれば……奴の異能は、発動条件を満たせなくなる」


「……マジ? へぇ……ふーん……? あのカタリナの異能にそんな弱点がねぇ……」


 九十九の口から漏れた言葉の真意を頭の中で反芻し、滅三川は興味深げに目元を細める。


「知らなかったのか?」


「うん……知らない。直接戦ったことなんて無いし。()()()()()()()()()()()()()()()


「……?」


「こっちの話。とにかく、あいつだけは例外。あーしが拷问教會イルミナティに潜って手に入れた情報も、あいつに関してはごく一部。例えば、()()あいつの異能――『()()()()()()』は、あいつ自身が生前死後問わずその場所を直接視たと、その事実さえあいつ自身が憶えていれば階層や次元すら跨いで発動できる……とか、そんくらい。正直、チートすぎぢゃんヤバ! って震えてたんだけど……あいつにもちゃんと弱点あったのねー。ちょっと安心したわ」


 滅三川は大袈裟に肩を竦め、この状況で笑みすら浮かべてみせた。一方で今の九十九にそんな余裕はない。視覚と記憶のみをトリガーとし、空間の概念すら無視して対象を飲み込むカタリナの理不尽な異能。それを突破する具体的な算段は、確かに九十九の記憶の中に存在している。しかしただひとつの問題は、その攻略法を実行するための最重要の鍵である黄昏愛という存在が、先程西区の旅館へ無防備な状態のまま置き去りにしてきた点にある。

 有機の糸を無尽蔵に編み出す規格外の手駒は不在であり、現在の戦力だけでこの絶対的な空間の断絶を乗り越える確実な術は見当たらない。迫り来るタイムリミットが目に見えない物理的な重圧となって両肩にのしかかり、肺に流れ込む冷気が重い鉛に変わっていく錯覚に陥る。


「でも……ここには愛がいない……」


 喉の奥から絞り出した声はひどく掠れており、自身の絶望的な無力さを痛感する惨めな響きを伴っていた。頼るべき対象を喪失し、立ち尽くす少女の脆い内面を真っ直ぐに覗き込むべく、滅三川の瞳から先程までの軽薄な光が完全に消失する。


「そうだね。どうする?」


 一転して地を這う低い声調が、九十九の鼓膜を冷たく叩き据えた。それは単なる状況確認の域を越え、九十九の魂の根底に眠る覚悟の総量を推し量る明確な試練の提示に他ならない。こうして足止めを食らっている間にも刻一刻と失われていく時間の流れが、胸の奥底で焦燥感を爆発的に膨れ上がらせていく。

 これまで幾度となく愛やちりの自己犠牲に救われ、命を繋いできた。いつだって自分は傷つき倒れ、庇われる側であり、彼女たちの差し出す手によって強引に前へ進ませてもらっていた。この絶望的な局面に至ってすら、未だに他者の不在を嘆き、誰かの救済を待ち望んでいる己の矮小な在り方が酷く呪わしい。奥歯が砕けるほどに噛み締められた顎から、生温かい鉄の味が口腔内へじわりと滲み出す。


「……私が、やる」


 自嘲と後悔の念を強靭な意志の力で叩き伏せ、九十九は決然と顔を上げた。滅三川の挑発的な言葉に応じる形で放たれたその宣言は、過去の自分自身への決別でもある。


「(愛が言っていた……重要なのはイメージだって……)」


 人造怪異、偽物の悪魔。その本質は既存の法則を強引に捻じ曲げ、不条理で以て運命の記述を上書きすることにある。理屈や理論の範疇に収まらない、この世界を内側から喰い破る理不尽の顕現。その規格外は異能を覚醒させる遥か以前より実践し続けてきたはずなのだ。


 瞬間、九十九の透き通るような白い肌の表面に罅の割れたような無数の傷が浮かび上がっていく。硬質な陶器が砕ける不吉な音が、九十九の体内から連続して鳴り響く。割れた皮膚の隙間から瘴気が溢れ出し、周囲の霧をその上から黒で塗り潰していった。


 ――さて、怪異の能力には異能と機能の二種類が存在する。発動条件を満たすことで超常の現象を引き起こす異能に対し、機能は肉体の性質そのものを根本から変容させる常時の力。発想の転換ひとつで無限の応用が利く反面、その実効性は行使する者の才能と想像力に完全に依存する未知の領域となる訳だが――極限の状況下における応用力、その一点において芥川九十九の資質は間違いなく常軌を逸した規格外の代物であった。

 芥川九十九には時間を遡行する異能の他に、肉体を悪魔の如き怪物へと変化させる機能が備わっている。そこに反動による肉体的な限界こそあれ、能力の拡張性そのものに天井は存在しない。


 かつて幾度となくカタリナの理不尽な異能に絡め取られ、為す術もなく致命的な妨害を許してきた苦々しい敗北の記憶が、九十九の脳裏に燃え盛る。その挫折の蓄積こそが、現在の芥川九十九に限界を超えた能力応用を強く想起させる原動力となっていた。

 あるいはこの絶望的な状況を、他でもない自分自身の手で打破しなければならない――その強い意思と覚悟が、彼女を真に覚醒させたのかもしれない。


「っ……ぉ……おおォォォォオオオオッ!!」


 鼓膜を震わせる獣じみた咆哮と共に、彼女の背面を内側から突き破り、溢れ出した圧倒的質量の濁流――それは尾であった。これまでも芥川九十九は半人半魔の異形へと変貌を遂げた際、強靭な鞭を思わせる黒い尾を自身の肉体の一部として拡張してきた。その一本の尾が今、爆発的な勢いを伴いながら細胞分裂を繰り返し、その先端を更に細かく鋭く、無数に枝分かれしていく。分裂した夥しい数の触手は周囲の白濁した空間へと四方八方に広がり、空間そのものを貪欲に咀嚼する挙動を見せ、複雑に張り巡らされていった。

 まるで闇そのものが実体を持ったような悍ましい質量と脈動。それはもはや生物の尾という枠組みには収まらない。濃い霧を切り裂き、空間の隙間を完全に埋め尽くす黒い触手の群れ。それは黄昏愛の織りなす美しい糸とは全く異なる、禍々しい肉の巣。悪魔の触肢が周囲の壁や床、更には空気の層そのものを物理的に侵食し、カタリナが落とし穴を設置している空間の隙間を、生温かい脈打つ肉壁で以て強引に埋め尽くしていく。


「ぐ……ッ……!」


 背骨が軋み、肉が裂ける凄絶な感覚が脳を焼く。細胞の一つ一つが強制的に再構築され、悪魔の器官へと変貌していく想像を絶する苦痛。九十九は悲鳴を上げる代わり、その激痛を糧として自身の機能を限界まで絞り出した。その細い指先がドロテアのジャケットを強く掴み、指の形に革を変形させるほどの尋常ではない力を込める。


「あはっ、やればできんじゃん! さっすが『悪魔』の怪異!」


 滅三川の愉しげな高い声が、張り詰めた大気の中で華やかに弾け飛んだ。彼女は九十九が自らの肉と血を代償に創り出した冒涜的な肉の道を、一切の躊躇いや迷いを見せることなく軽快に駆け出していく。


「覚えときな、芥川九十九! それが『悪魔』の怪異本来の機能、天井知らずの肉体改造能力! 事実、その規格外の身一つで等活地獄最強を誇っていたのがあんたなわけ! その気になったあんたに出来ないことなんて無い。未来だって変えられる! 自信持とーぜ!」


 九十九の献身に滅三川は声高な激励を浴びせながら、生々しい肉の道を駆け抜けていく。蠢く触手が冷たい石壁の表面を乱暴に打ち据える湿った打撃音が、視界を覆う白い霧の奥深くまで不気味な反響を伴って響き渡る。九十九の罅割れた肉体から無尽蔵に紡ぎ出される触手の道は、ドロテアの足元から遥か前方に広がる深い闇の奥底まで、不規則な脈動を繰り返しつつ強引に舗装されていった。その冒涜的な道が空間を切り拓くたび、カタリナが仕掛けていた目に見えない落とし穴の虚数空間が強制的に実体化を余儀なくされ、完全な無力化へと追いやられていく。

 先陣を切る滅三川の背中を追う形で、ドロテアもまた肉の足場を力強く踏み締め、豪快な跳躍で一気に前方へと躍り出る。ドロテアの重い足裏が肉の道を踏み荒らすたび、その衝撃は神経を介して九十九の肉体へ直接的な鈍い圧迫感と内臓を抉るような激痛となって伝達されてくるが、彼女は奥歯が砕け散るほどに強く歯を食いしばり、必死の覚悟でそれを耐え抜いた。絶えず自身の細胞を限界を超えて活性化させ、周囲へ張り巡らせた触手に生命力を途切れることなく供給し続ける。


「(ちり……今、行くから……!)」


 視界の端が激しく明滅を繰り返し、幾度となく意識が暗い水底へと遠のきそうになるが、彼女の精神はそれを許さない。自身の肉体を文字通り削り落とし、強引に未来への道を創り出す。擦り切れる心の奥底で、愛する者の名を祈りの文句の如く繰り返し唱え続ける。記憶の最深部に焼き付いているちりの酷く不器用で愛らしい笑顔だけが、崩壊寸前の九十九の肉体を突き動かす最大の原動力となっていた。


「視えたぜい……!」


 ドロテアの低い歓声が響き渡ると同時、分厚く視界を遮っていた霧の向こう側に、僅かながらも確かな環境の変化が現れ始めた。これまで鼻腔を満たしていた重苦しい酒精の退廃的な匂いに混じって、一切の温もりを拒絶する冷たい死の気配と、微かながらも決して無視できない鉄錆の不吉な匂いが大気中に漂ってくる。いつしか天候が崩れ細かい雪が混じり始めたのか、肌に触れる空気の質が一段と鋭利な刃のそれに変貌を遂げ、衣服から露出した九十九の白い皮膚を容赦なく突き刺してきた。


 其処は第三階層北区の最果てに位置する、全てが凍てつく荒涼とした大地の只中。一切の装飾を持たない無機質な風景の上にぽつんと取り残されたように存在している、赤茶けた古びたマンホール。それこそが一ノ瀬ちりを最悪の未来に誘った『净罪』の地下室に通ずる唯一の入り口であった。


 ドロテアは自身の肩に背負っていた九十九の身体を、些か乱暴な手付きで冷たい地面へと下ろす。足の裏が硬い大地に触れた瞬間、九十九の膝が限界を訴えて力なく崩れ落ちそうになるが、彼女はどうにかその場に踏み止まった。割れた全身の皮膚からは冷たい脂汗が止めどなく流れ落ち、肺を上下させる呼吸は浅く激しい。肉体的な限界はとうの昔に過ぎ去っている事実が誰の目にも明らかであったが、彼女の赤い瞳の奥底に宿る狂気的なまでの決意の光は、一抹の衰えすら見せてはいなかった。


「さて、こっから先は別行動。あーしらはちょっと寄るとこあっから。ちりちゃん助けるのは、九十九っちの仕事だよ」


 一切の感傷を交えない淡々とした声調で滅三川はそう告げると、足元に存在する重厚なマンホールの蓋を自らの顎で軽くしゃくってみせた。別れの言葉に対する返答の代わりに、九十九は無言のまま静かに頷き返し、ぽっかりと口を開けた深淵の前に立つ。


「…………ちり」


 吹き上がる死の臭いを全身に浴びながら、九十九はその奥底を凪ぎ払われた静謐の瞳で真っ直ぐ見据える。此処に来て躇いなどもはやあるはずもなく――文字通りの底無し沼へ一歩、芥川九十九はその身を容赦なく沈ませたのである。かつて手の平から零れ落ちてしまった愛おしい温もりを、今度こそ手放さない為に。

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