第二章 15 大騒ぎ
15 大騒ぎ
私は全身で暴れてキヴァーヲを振りほどこうとする。キヴァーヲの牙はしばらく私に食い込んでいたが、右手で魚の胴体を殴りつけるとようやく私の体から離れた。
「背後にもう一匹いたのか。だからさっき言ったろう、魔物が出る場所は魔物が出やすいのだから新手が出るかもしれん、油断するなと」
ノアタムが何か言っているが私はそれどころではない。
私の腕には数個の穴が並び、そこから血が噴き出している。
人間が空気中で怪我をするのと違い、ここは水中だ。血は地面に向かって流れ落ちるのではなく、水中に煙のように拡散しだした。
「血がー! 血がー!!」
私は右手で傷口を押さえようとする。だがあふれる血は止まらない。
「落ち着け。大した怪我ではない。暴れると余計に血が出るぞ。それに、キヴァーヲはまだそこにいるのだぞ!」
ノアタムの言葉通り、私がはねのけたキヴァーヲは平気な顔で体勢を立て直していた。私に狙いを定めて突進してくる。
私はその突進は必死にかわしたが、キヴァーヲが私を狙っていることに変わりはない。
「キヴァーヲはさっき倒しただろう。さっきと同じようにやれ」
「だって腕が痛いんだもん!」
私は右手で傷口を押さえながら叫ぶ。魔法を使うこともナイフを使うこともできなかった。
「ならば、お前は回復魔法も習得しているのだぞ。傷を治して戦え」
「回復魔法って、どうやって使うの?」
キヴァーヲの攻撃を必死にかわしながら私は言った。
「精神を集中して傷が癒えることをイメージして……」
「痛いし敵がいるし精神集中なんてできないよ!!」
私は叫ぶ。体にまとわりついてくるキヴァーヲから、これ以上ダメージを受けないようにするので精一杯だった。反撃や回復など出来そうにない。
ノアタムは「どうするかな……」などとつぶやきかけたが、口を閉ざした。その代わり、少し離れたところから、「大丈夫ですかー?」という声が聞こえてきた。
声の方向を見ると、三人の人魚が、こちらに近づいてきていた。
剣や槍を持った戦士系が二人と、知的そうな魔法使い系が一人。
人魚の数が増えたことで、キヴァーヲは不利になったと考えたようだ。三人が私の隣に並ぶころには、キヴァーヲは林の中に逃げていった。
「お一人ですか? 回復魔法を使える人はいないの?」
魔法使い系の人魚が私に尋ねた。
「あっはい……今は……ちょっと……」
私は『使える人』のはずだが、この状況でいきなり実践するのはハードルが高い。
「大した怪我じゃ無さそうですし、あいが治しましょうか? 50テニエルでいいですよ」
「えっ? あっはい、お願いします……」
ネットゲームで言う辻ヒーラーみたいなものか、あれは怪我した他のプレイヤーを無償で回復する、辻斬りの逆版だった気がするけど、ここでは代金を提示されるのか、でも、『お礼を、いえそんな結構です、いえいえこちらの気が済みませんから、いえいえ結構です、そんなそんな』のやりとりを繰り返してからでないと金銭の授受が出来ないより、話が早いからいいな。一瞬でそんな思いを巡らせ、私は痛む左腕を彼女に差し出した。とにかく早くこの痛みが無くなって欲しい。
彼女は私の傷口に手をかざし、精神を集中しはじめた。
「傷よ……癒えよ」
その言葉と共に、私の傷口は塞がり、痛みも消え去っていった。
「ああ、治った! ありがとうございますー!」
私は礼を言い、財布から50テニエルを取り出した。
「どういたしまして。一人旅は大変ですよね。では、お気を付けて」
彼女はお金を受け取ると、仲間と一緒にトイレの方向に泳いでいった。
「トイレのそばだから他の魔物狩り屋が通りがかったのだ。運が良かったな」
彼女達が遠くに行ったのを確認してから、ノアタムが私のそばに来て言った。
「ああ、痛かった……。なんかまだ血のにおいがしてる気がするし」
「大騒ぎして暴れるからだ。血が周辺に拡散したから服にも染み込んだのかもしれんな」
「じゃあ、洗わなきゃ……ってここは水の中か。あ、でも、リュックに下着の替えがあるとか最初に言ってたよね。そういえば昨日から下着替えてないけど……。人魚も洗濯とかするの?」
私は昨日、初めてリュックやポーチを手にしたときに、中身は下着の替えだとかノアタムが言っていたことを思い出した。
「海中でも生物が着用していれば衣類は汚れるからな。人魚も洗濯はする。宿屋には洗濯する場所があるから後で行くといい」
「そう……じゃあ今日はもう帰ろうかな。疲れちゃった……」
傷の痛みは消えたが、今日はこれ以上戦う気になれない。
「キヴァーヲに噛まれたぐらいで大騒ぎしていてどうする。さっきの人魚も言っていただろう、大した怪我じゃないと」
「だって日本の日常じゃあんなに出血したら大事件だもん」
「ここは日本ではない。剣と魔法と冒険の中世ヨーロッパ風ファンタジーの世界だ。シンもそれに憧れていたんだろう。武器や魔法で魔物を攻撃するなら、自分も同じだけ攻撃されることを覚悟しなくてはな」
「……」
ノアタムの言うことはもっともだ。自分だってわかっている。ゲームならばいくらキャラクターが攻撃を受けてもプレイヤーに痛みはないが、自分はもうゲームのプレイヤーではない。ファンタジー異世界で魔物と戦うキャラクターの立場になったのだ。
それを嬉しく思う気持ちに変わりはない。ただ……。
「実際に痛みを体験するとね……。とにかく、今日はもう戦いの練習はいいから町で休みたいよ」
私は肩を落とした。憧れとリアルをすりあわせるのはなかなか難しい。
「……まあ、今日は魔法の単体攻撃と全体攻撃を練習したからな。続きは明日以降にしよう」
ノアタムはそう言った。
私達は林を離れ、町に戻ることにした。




