第一章 13 人魚の宿屋
13 人魚の宿屋
「わあ、すっかり夕方だ」
建物の外に出た私は声を上げた。空、というか頭上が赤く染まっている。それは地上の夕焼けのように、沈みかけている太陽が地平線近くから放つ赤い光だった。
「ノアタムアの太陽も、朝と夕には色が変わった方が情緒があっていいからな。日の没するあちらが西だ」
料理を注文した後は静かだったノアタムが、ようやく口を開いた。町を行き交う人魚はいるが、話し声が聞こえるほど近くにはいない。
「日が暮れる前に、宿を探さんといかんな」
「宿屋! RPGの定番施設だね!」
私はまたテンションが上がる。各町に一つはあり、宿泊とセーブができるのが一般的だ。
「そうだな。ノアタムアは、旅をしながら魔物狩りをする人魚が多くいる世界だ。だから町にも宿屋はたくさんある。宿のグレードも値段によってピンキリだ。安めの宿だと、一泊500テニエルでビジネスホテルかカプセルホテルぐらいの設備といったところだな」
「ふうん。日本でもビジネスホテルって五千円ぐらいだもんね。じゃあ、そこに泊まろうか」
私は町を見回し、宿らしき看板がないか探す。やがて、建物の屋上に『一泊500テニエル』の文字を見かけたので、そこに泳いでいく。
その建物は三階建てで、一階に入口があった。入口の先はロビーになっており、カウンターに受付の人魚が一人、腰掛けていた。日本のビジネスホテルの受付のような光景だ。
「あのう、泊まりたいんですけど」
「はい、お一人様ですね? 500テニエルになります」
ノアタムを肩にとまらせているが、特に何も言われなかった。今までの店のように、連れて入ってもいいのだろう。財布から500テニエルの銀貨一枚を取り出している間に、受付の人魚はカウンターにノートのような物を広げた。
「宿帳にサインをお願いします」
この世界でもチェックインの時に名前を書く風習があるようだ。インク壺と付けペンが差し出される。ペンは羽ペンではなく、木の軸に金属のペン先の付いた物だった。
宿帳は一人一ページではなく、罫線のあるノートに宿泊者が順番に名前を書いていくスタイルだった。すでにセンカック、シュークファなど、先客の宿泊者の名前がカタカナで書かれているので、自分もその後に、シン、とカタカナで記入した。
「はい、では、305号室です」
受付の人魚は木製の番号札の付いた鍵を差し出した。アラビア数字で305と書かれているように目に映る。三階の五番目の部屋ということだろう。私は三階に行こうとする。
あれ? 階段……?
戸惑う私を、肩のノアタムがひれでつついた。ノアタムはロビーの端を示す。
ロビーの端は、天井に穴が開いていた。その穴へ向かって、壁に作り付けのはしごが設置されている。
私は無言でうなずき、はしごの方へ泳いだ。はしごに手を掛けながら上の階へ向かうと、腕と尾ひれの両方の力で上昇することが出来た。一階の天井の上に顔が出る。二階の床だ。はしごはそのまま上に続いている。二階の天井にも同じように穴が開いているからだ。
二階の廊下にひと気は無かったので、三階を目指して上昇しながら、私はノアタムに小声でささやいた。
「泳いで移動するから、階段は無いんだ」
「うむ。だが手すりがあった方が便利なので、はしごが設置されているのだ」
ノアタムも小声で返答した。
私は二階の天井を通り越し、三階に顔を出す。
どの階も、穴の周りに柵などは無かった。
「床に穴が開いてても、下の階に落ちてぶつかるってことはないもんね」
三階の廊下にもひと気は無かったので、私はまた小声で言い、ノアタムがうなずく。
宿屋の廊下は二階も三階も、片側にドア、片側に窓が並んでいた。窓は高めの位置にあり、ガラスに似た透明な板ではめ殺しになっている。今は夕日が差し込んでいて廊下が赤いが、昼間は明かり取りの窓として役に立つのだろう。
それからランプも設置されている。夕方なので明かりはすでに点けられている。
これはどうやって点灯しているのだろうと思ったが、一階のロビーに新たな客が来た声がしたので、私は黙って305号室を探す。室内ならばもっと気兼ねなくノアタムと話せるはずだ。
私は305と書かれたドアを見つけ、鍵を差し込み、開いた。
部屋にはベッドがあった。人間のベッドとあまり変わらない、木製のフレームと柔らかそうな布のベッドだった。
部屋はベッド一つが収まるだけの正方形で、ベッドの脇には荷物置き場らしき台があった。窓は無かった。天井からランプが吊り下げられているが、手提げランプが天井のフックに引っかけられている形なので、取り外して好きな位置に移動できそうだった。
部屋に入り、廊下の明かりを頼りに、まず天井のランプに手を伸ばす。
それはこぶし大の木箱の上にガラスのコップを逆さに埋めたような形をしていた。その本体に、バケツの持ち手のような取っ手が付いている。だが、ガラス内に灯心らしき物は見当たらない。
どうやって光らせるのか戸惑っていると、ノアタムが、「下のスイッチをひねるのだ」と言った。
こぶし大の木箱には、ネジのようなスイッチが付いていた。それを右に回すと、ガラス内に明かりが満ちた。ネジの傾きの強弱で光の強さが変わった。
これで廊下の明かりが無くても部屋が明るい。私は305号室の扉を閉めた。
「これはどうやって光ってるの?」
さっそくノアタムに尋ねると、すぐに返事が来た。
「それは『光池』で光るランプだ」
「こうち?」
「『光の池』という意味だ。日本語には電気の池、『電池』という言葉があるだろう。光のエネルギーを精霊の力で石に込めておき、スイッチをひねることで少しずつ放出するランプだ」
「へえ、精霊の力ってそういうこともできるんだ。充電式の電池で光るランプみたいなもの?」
「そうだな。だが、『光池』は光のエネルギーしか溜まっていないから、ランプ以外の用途に使うことは出来ん。それに、日本のように家庭のコンセントで充電するというわけにもいかん。『光池』のエネルギーが空になったら、『充光の魔法』を使える精霊がいる店で、光を入れ直してもらう必要があるのだ」
「ふうん、充電式電池をいちいち電気屋に持って行って充電するようなもんか。ちょっとめんどくさいね」
「まあな。だが、水中で火を使うのは地上で火を使うより大変だし、熱も発するからな。『光池』のランプならば光るだけで熱くないから、ベッドの上に置いても安全なのだ。宿の個室に手提げ式のランプが設置されているのは、客の必要に応じて、部屋全体のランプにも出来るし、ベッドライトにも出来るからなのだ」
「あ、それは便利かも」
ノアタムと話しながら、私はランプを天井のフックに掛けた。今はとりあえず部屋が明るくなればいい。
「荷物はここに置けばいいんだよね。金庫みたいな物は……ないのか」
私はリュックをベッド横の台に置き、腰のポーチとナイフも外してそこに置いた。
「この価格帯の宿だと貴重品を入れる金庫は無いな。部屋そのものを施錠して金庫代わりにするのだ。だからトイレに行ったりする時も部屋を施錠して出かけた方がいいぞ」
「トイレ! 宿にもトイレはあるんだね?」
私はそれを聞き逃さなかった。
「もちろんだ。小用で毎回行く者は少ないだろうが、日単位で滞在するのだから無くてはならん施設だ。宿の各階に設置されているのが基本だな」
「そうなんだ。ちょっと行ってくる。ノアタムは部屋で待ってればいい?」
「うむ。鍵を忘れるなよ」
私はノアタムを残し、部屋を施錠して廊下に出た。三階の、はしごの反対側の奥にトイレはあった。トイレはさっきの店と同じような構造をしていた。
部屋に戻ると、ノアタムはベッドのヘッドボードの上でくつろいでいた。
「なんか、さっきおなかいっぱい食べたし、疲れたし、眠くなってきたなあ」
廊下の窓から、夕焼けの光はほとんど入ってこなくなっていた。夕方から夜になったようだ。
「人魚ってお風呂は入らないよねえ?」
私はあくびまじりにノアタムに尋ねる。
「基本が水中にいるからな。シーズ水で薬浴をしたりもするが、この価格帯の宿にそんな高級な設備は無い」
「じゃあ、もう寝ようかな。このベッド気持ちよさそうだし。人魚もベッドで寝るんだねえ」
私はランプに手を伸ばし、ネジをひねって部屋の明かりを豆電球ぐらいに絞る。
「柔らかい物に包まれて寝るのは心地いいからな。ラッコもジャイアントケルプにくるまって寝るだろう。深海でも海藻で出来た布と綿でベッドが作れるのだ」
「そうだねえ。おやすみ……」
私は意識がもうろうとしてきた。ノアタムに生返事をしてベッドに潜り込む。
柔らかいベッドに包まれて、私はすぐに眠りに落ちていった。




