第一章 11 人魚のトイレ
11 人魚のトイレ
「何だ、もよおしたのか。どっちだ、大きい方か、小さい方か」
「ち、小さい方だよ!」
恥ずかしいが仕方がない。私は正直に答える。尿意を感じたので、あわてて武器屋を出てきたのだ。
「この世界に来てから、何も口にしてないのに……」
「だが呼吸はしているからな。人魚は海水を吸って海水を吐いているので、体内の塩分濃度の調節のために定期的に液体を下から排泄する必要があるのだ」
「そうか……」
そして武器屋で緊張したので、体内にそれが溜まっていることを急に実感したのかもしれない。自分の下半身は魚だが、膀胱の位置は人間と変わらないようだ。その辺りがもぞもぞする。
「で、トイレはどこにあるの?」
私はノアタムをせかす。
「小用だろ? その辺ですればいい」
「ちょっと!」
ノアタムはとんでもないことを言った。
「何を驚いている。ここは水の中なのだぞ。体内から水を排出するのは、人間が空気中でおならをするようなもんだ。人間はおならをするとき、わざわざトイレに行かないだろう。ちょっと人のいないところでこっそりやって、あとはガスが空気中に拡散されるのを待つだけだ。人魚にとっては尿はそのような立ち位置なのだ」
ノアタムの理屈はもっともかもしれないが、それに従うには抵抗が大きい。
「で、でもじゃあ、大きい方はどうしてるの? まさか金魚の糞みたいにずっとぶら下げたりはしてないでしょ?」
「うむ。大はさすがに魚の生態そのままとはいかん。人魚に下着を設定したのは、その辺の穴を隠すためだしな。排泄やそれに関わる物を隠したいという文化は人魚にもある。だからトイレもある。
人魚の世界のトイレはこんな感じだ。
人間のトイレのように一人で入る個室があり、そこにタンクが設置されている。タンクからは漏斗の付いたホースが延びており、タンクのスイッチを入れると漏斗から掃除機のように周りの水を吸い込む仕組みになっている。
海藻で出来たトイレットペーパーも設置されているから、体に漏斗をあてがって排泄し、タンクのスイッチを入れて排泄物とトイレットペーパーを周りの水ごと吸い込み、個室内に何も残らないようにする。
個室内には消毒液を噴霧する装置もあるから、それを手に浴びせてぬぐう。噴霧した消毒液は個室内に散らばるので、個室内の水も綺麗になる。
タンクに集められた汚水はトイレ掃除のときに処理する。
こんな感じだな」
「なかなか清潔なトイレ文化があるんだね……」
私は安心した。ノアタムアは中世ヨーロッパ風の異世界だし、更に人魚の世界なので、どんなトイレが設定されているか不安だったが、今聞いたようなトイレなら安心だ。
「だが、尿は水中では拡散するだけだから、人魚がトイレを使うのは大の場合だけだぞ」
「に、人間だって、女は人前でおならするのが恥ずかしいから、トイレ行っておならする人だっているよ!」
私は必死に日本での記憶を探る。いくらガスが空気中に拡散するといっても、おならは大っぴらに出来るものでは無かったはずだ。
「まあ、下に関わる話だからな。隠したくなるのは人情という物だろう。人魚も、小用をトイレで行う者もいるかもしれんな。シンが大も小もトイレでしたいというならわしは止めん。行ってこい」
「で、どこにあるの!?」
尿意がだんだん切迫してきた。私はノアタムに詰め寄る。
「飲食店で借りるといいだろう。どこかその辺りの店で頼めばいい」
その言葉が終わらないうちに、私は武器屋の隣にある喫茶店に直行した。ノアタムも黙って肩にとまる。
『喫茶・軽食』と書かれた看板の下のドアを開けると、そこは日本の喫茶店のように、入口近くにカウンター、奥に厨房があり、四人がけのテーブル席がいくつかあるという形の店だった。店内には数人の客がおり、席についてドリンクを飲んでいる。
「いらっしゃいませ」
カウンターにいた、エプロン姿のウェイトレスが私に微笑みかけた。
「あの、トイレお借りしてもよろしいですか?」
「どうぞ、こちらです」
いきなりそう頼む私を、彼女は笑顔で案内してくれた。私は彼女の後について泳ぐ。ウェイトレス姿のスカートの下から魚の尻尾が見えるのは不思議な光景だったが、今はそれどころでは無かった。
「どうぞ」
彼女は私を案内してカウンターに戻っていった。そこは日本の飲食店のトイレのように奥まった場所にあった。化粧室のような鏡のある小部屋の中に、ドアが二つ並んでいる。小部屋にあるのは鏡だけで、手洗い場は無かった。この小部屋は、トイレの個室と通常の部屋との間にワンクッションをもうけるための空間といったところか。
トイレに男女の区別はないようだ。人魚は女ばかりだからだろう。
「じゃ、ちょっと待ってて」
私はノアタムをその場に残し、トイレの個室の中に入る。ドアの内側から鍵がかかるのは日本のトイレと同じだ。
トイレの中は先ほどノアタムが説明したような設備がそろっていた。
一番奥にタンクがあり、ホースの付いた漏斗がタンクの上に乗っている。そこが漏斗の定位置のようだ。
タンクの横にトイレットペーパーがある。それはロール状ではなく、手のひらより大きいサイズの四角い紙が束になってケースに入っており、タンク横の台の上に置かれていた。確か、日本でも昭和の和式便所ではこういう『ちり紙』を使っていたはずだ。
それから、シンプルな構造の椅子が一つ、タンクの前に置かれていた。
これは何だろうと思ったが、私は切羽詰まっていたので、直立の姿勢で、先ほどノアタムに言われたようにホースの付いた漏斗を手にする。
ふと、人間がトイレでおならをする場合、わざわざ水は流さないんだから、人魚がトイレで小用をするとしても、この漏斗は使わないんじゃないかとも思ったが、初めてなのでとりあえず体験してみようと思い直す。
そしてスカートをまくり、目覚めたときにすでに着ていた下着に手を掛ける。
……トイレ内にある椅子の用途がわかった。多分、普通に腰掛けるのだ。
人間の足は分かれており、その分岐点にいろいろな物があるので、人間はトイレに腰掛ければ、排出する方向も下に、つまりトイレの中に向けられる。
だが、人魚の下半身は分かれていないので、下着に隠された部分は、魚やイルカを腹側から見たような姿になっているのだ。だから人魚は椅子に腰掛けても、人間のお尻に相当する位置には、何の穴も無い。だから人間のような腰掛け式の便器は必要ない、いや、使えないのだ。
トイレ内にあるのは、ただの椅子だ。シンプルで掃除しやすい形状の。立ってではなく、ゆっくり座って用が足せるように、そして下着をめくりやすいように、椅子が置いてあるのだ。
なぜなら、人魚は椅子に座って下着をめくると、もろに見えるからだ。そういう……魚やイルカの腹にあるような物が。
だから、人間のように穴の開いた便器に座るのではなく、人魚は椅子に座って、漏斗を手元に持ってきて、漏斗を体にあてがって処理するのだ。
私はそれを理解した。




