125 楓の事
真っ暗な空間にポタリと涙が落ちた。けれどその黒い涙は地面の黒に溶けるように消えて無くなり、そしてまたポタリと涙が落ちた。繰り返される無意味を止めどうもなく過ごす薊は、胸の中心の焼けるような痛みと苦しみに必死で抵抗していた。邪の刃を持つ両手でいくら胸をかきむしっても、その中心にあるはずの心臓に触れる事すらできず、ただ身悶え呻く事しか出来ない。苦しみから流れる邪の涙は、ただ落ちて吸収されるだけで何も改善させはしない。
「うう…苦しい…痛い…。」
今までこのような感情を抱いた事はなかった。
夢の世界で在仁を求めた時に口にしていた寂しさなど、人間の真似事にすぎなかった。薊にあるのは破壊衝動だけ。壊したい、その渇求だけだ。満たされない事への苦しみは長く抱いて来たが、それは強い欲求不満であり、今胸を占めている痛みとは全く別のものだ。
「葛葉…。」
この胸の苦しみは在仁が薊に埋め込んだ心臓の所為だ。それを在仁は「俺の心」と言った。長く薊が求めて来た在仁の心とは、純真無垢で無知蒙昧で愚かを自覚せず懐いて来るあの清らかなものだ。それを眺めながら、それを壊す事を想像する事は、なによりも愉しかった。そしてその死の甘美をとうとう手にする時がやってきたのだと思っていた。しかし、在仁の心臓を手にする事は出来なかった。代わりに埋め込まれた心臓、在仁の心。
「葛葉…。」
在仁の心というものがもし本当にこのようなものであるならば、この痛みと苦しみを常に抱えて生きている事になる。人の心というものがこれ程の苦痛を抱えているとすれば、そのようなものは不要だ。薊は苛立った。
―――薊様は孤独でお寂しい…
在仁の声がした気がした。
孤独も寂しさも、在仁が言うからそうだと思っただけだ。本当にそうであった訳ではない。今ならば分かる。この心が、孤独や寂しさを痛みとして訴えて来るから。愛されなかった事も、必要とされなかった事も、幼少時代どのような境遇であっても何も感じなかった。けれど今になって分かる。幸せになりたかったと。
「何故、私に今更心を与える…。」
生まれ持たなかった心を、既に人でもない今になって何故与えるのか。今更この苦しみを知ったとて何もならないというのに。
「苦しい…痛い…。」
胸の邪をいくら裂いても、辰砂の心臓にはたどり着かない。熱くて、痛くて、苦しくて、早く取り出して欲しい。
「うう…。」
呻いて涙を流す薊を、鴎音は冷ややかな目で見下ろしていた。
「僕の最高傑作が…壊されてしまった。」
残念そうに見下ろしているが、声は冷淡だった。そこへ、黒い小さな鬼が二体やってきて薊の涙を覗き込んだ。
「鴎音様、薊様泣いてる。」
「薊様泣いてる。」
子供のような声で言う鬼の頭を撫でながら鴎音が答えた。
「薊は壊されてしまったんだ。可哀想に。知らなくていい心を知ってしまった。災い子に心は不要だ。」
「心は不要。」
「災い子はただ邪を求めるだけでいい。」
「邪が大好き。」
鴎音が撫でる鬼の角には「弐」「参」と刻まれていた。
「お前たち、これからはお前たちが薊の代わりに百鬼を拵えておくれ。他の災い子もみんな心を抜いてお前たちのようにしてあげるからね。友達が百体出来たらみんなでお外で遊ぼう。この世はすべてお前たちの遊び場だ。」
「わーい、遊ぼう!」
「百体で遊ぼう!」
嬉しそうに跳び出して行った鬼を見ながら、鴎音は溜息をついた。
「邪への渇きと歓び、それだけが災い子だ。心は不要。邪魔なだけだ。葛葉在仁、僕の薊を壊した君を、僕は赦さない。僕と逢初の幸せな世界を邪魔する者を、僕は全て排除する。」
鴎音の細い指が薊の額に触れると、薊は意識を失って倒れて行った。
◆
「主!」
白蓮の大きな声が耳朶を打って、在仁が顔を上げると目の前には恐い顔をした白蓮と智衡がいた。
「…えと…どうかなさいましたか?」
在仁が何故怒りの表情なのかよく分からず問うと、白蓮が在仁の手元の造りかけの浄化札を可愛らしい肉球で押さえた。
「根を詰めすぎだ。一旦休憩しろ。」
言われて見れば、傍らには思った以上に大量の浄化札があった。在仁が時計を見ると、始めたのは朝九時頃だったが既に昼前となっていた。集中し過ぎたのかと気が付いて一度筆を置いた。
浄化札は術札だ。術札は札絵師という職人が専用の紙をつくっている。あとは清めの気を込めるだけの状態にしてある紙を使うので術力は不要だ。この方法が浄化札にも有効なのは、逢初が楽をしたいがために開発したという。在仁も、たいへん省エネでとても画期的だと思う。基本的に術力を少したりとも使いたくないスタンスの逢初は指示出しだけで全部を賄えるように身の回りを整えているから素晴らしい。本当に自分に都合の良い世の中で生きていこうという揺るがなさが見て取れると、これぞ清め人と思う。在仁もそのように身の回りを整えていけたらとは思うが、それがどんなものなのかはまだ不明だ。今はこうして一枚でも多くの浄化札を作って人の役に立とうとするくらいしか出来る事はないように思えた。
そんな事を考えていると、再びフリーズしていたのか、白蓮が在仁の膝に飛び乗った。
「主!話を聞いているのか?」
「あ…さようでございますね。休憩いたしましょう。」
言ってようやく立ち上がると、くらっと立ち眩みがした。その体を智衡が支えると、美しい顔を歪めて見下ろしていた。
「在仁、座りっぱなしも体に悪いぞ。」
「申し訳ございません。気を付けます。」
智衡が手を離すと、在仁は頭を下げてから着物の裾を正した。
「紅葉は?」
智衡が見まわすと、在仁は首を振った。
「本日は茉莉様と鍛錬をなさっておられます。本日はお師匠様もお休みでございますし、俺は本家に場所をお借りして作業をさせて頂きますので、ご安心をとお伝えしております。」
「ああ、それでここで仕事してたのか。」
外出時の護衛と言われているので、家にいる時はその限りではない。本家を動かないと約束すると、紅葉は納得してくれたので在仁は今日は引きこもりと決め込んだ。
智衡が話しながら促すので、在仁は白蓮を伴って付いて行った。
「お師匠様は休日をどのようにお過ごしでいらっしゃるのでしょうか。」
「さぁ?逢初の事だから寝てるんじゃないのか?京都でもそうだっただろ?」
「ううん…お師匠様の生活は謎でございます。」
「ま、やりたい事しかやらないさ。それが逢初だ。」
「確かに、それがお師匠様でございますね。しかし、そうなりますと、お師匠様が浄化札の一枚もお作りになりたくないとおっしゃられましたら、どうなさるのでございますか?」
「…まぁ仕方ないんじゃないか?」
想像して肩をすくめた智衡を見て、在仁はぎょっとした。清めない清め人なんて有りなのか?と。清め人の価値がここまで高いのはやはり清める力があるからのはず。清めないなど無価値ではないか。民衆が蜂起して大変な事になるのでは…と想像していると、智衡が苦笑した。
「鴎音はそうだった。それでも清めは清め、皆崇めたよ。その力の恩恵が行き渡らなくても、やはりその力は価値がある。現存する三人が皆協力的で良かったと思うしかないな。」
限られた絶対浄化しか成す事の出来なかった鴎音が浄化札の一枚たりとも作る事が無かったのは当然だ。けれど、鴎音は清め人として崇められ大切に扱われていた。
現在残されているたった三人の清め人である御園・逢初・在仁が勤勉な働きをしてくれているから何とか今の日本はあるのだ。それはとてもありがたい事だと智衡は感謝するように言った。
「はぁ…。」
在仁はそこまで何でも有りだと言うのか、と半ば呆れのような気持ちで廊下から外を見ながら歩いていると、それを智衡はちらりと見た。
「俺の結婚式以降、在仁に見舞いの品が大量に届いているぞ。」
「ぶっっ!!」
吹き出して智衡を見ると、意地の悪い顔で笑っていた。
「お兄様のご結婚お祝いでは無く…でございますか?」
「ではないな。」
結婚披露宴会場でまたも欲心アレルギーで体調不良ということになってしまったのは、在仁にとって大失敗だった。けれど智衡は大満足だ。
あの後見舞いを送って機嫌を取ろうとしてくる者はきっと皆在仁に何らかのアプローチを目論んでいた者たちだ。欲心アレルギーの原因菌となった心当たりがあるからこうして謝罪のために見舞い品を送って来るのだ。そんなん超能力者でもない限り分からないが、在仁をそういう生き物だと認識しているのだろうと思うと、本当に止めて欲しいと思う。
「すべてお返しください。」
「キレてると思われるぞ。」
謝罪のための見舞い品を送り返したら、謝罪を受け取らないという意図となり、激おこだと思われるのは当然だ。
「…では返礼を…。」
「放っておけ。無駄に繋がりが生まれるだけだ。」
それはそうだが、ただ貰いっぱなしなのはどうなのだろうかと思うと居心地が悪い。溜息をつくと、智衡は思い出したように手紙を差し出した。
「そうだ、これ、和田家から礼状だ。あの後在仁が大量の浄化札を送っただろ?凄く感謝してた。」
「…お役に立てましたら何よりでございます。」
在仁は手紙を大切に受け取ると、後でゆっくりと読もうと懐へしまった。
結婚披露宴で知将と義将に会ってから、在仁は自作の浄化札を大量に送った。もちろん在仁からすれば、手塩にかけた畑の野菜の御裾分け的な行為だが、物が浄化札である事は例えば金塊を段ボールに詰めて送るようなものだ。和田家には奥州からの援助があり、それを目的とした契約だが、清めの後ろ盾となった事の恩恵だってあるべきだ。今後和田領内で清め装備の不足などと言う事は絶対に起こさせはしないと在仁は固く誓った。
「無理するなよ。って言ってもするのが在仁か。」
その評価は不本意だ。けれど智衡の穏やかな笑顔に何も言う気にならなかった。年下のくせに兄めいて見えるのは、やはり将たる器が智衡を大きく見せるのだろうかと在仁は分析した。
「お兄様の方は、ご結婚なさって生活にお変わりございませんか?」
「俺はあんまり変わらないよ。強いて言うなら、朝起きると目の前に誉ちゃんの顔がある事くらいか…。」
「仲睦まじいようで何よりでございますね。」
目の前…在仁はそれがどういう状況なのだろうかと思ったが深く考えるのはやめた。
「ところで、どちらに向かっておいででございますか?」
「そろそろ待遇についてきちんとしておこうと思ってな。御館様を交えて話したい。」
「たいぐう…。」
知らない言葉を聞いた顔で訊き返すと、智衡は苦笑した。
「雇用契約だ。」
◆
「在仁!」
茉莉の大きな声が耳朶を打って、在仁が顔を上げると目の前には恐い顔をした茉莉と紅葉がいた。
「あれ?茉莉?どうしたの?」
ぽかんとした顔で茉莉を見上げると、茉莉は眉を寄せた。
「どうしたのじゃないよ。まさか朝から今までずっと札作ってたんじゃないよね?」
時計を見ると夕方の五時だった。茉莉と紅葉は五時に迎えに来ると言っていたので間違いないと在仁は理解した。
在仁の手元には作りかけの浄化札があった。そして傍らには大量の浄化札が散乱していた。その量を見た紅葉が言葉を失ってしまった。
「…いや、朝からじゃないよ。お昼にお兄様が来て、一緒にお昼を食べて、それから御館様とお兄様と一緒に契約の話をしてからだから…三時間くらい?」
三時間でこの量を?と驚ければ良いのか、三時間ぶっ通しで集中していた事を心配すればいいのか、茉莉と紅葉が迷っていると、在仁の後ろで疲れ果てた白蓮が倒れていた。
「どしたの?」
茉莉がツンツンとつつくと、白蓮は倒れたままで睨んだ。
「何度も主を休ませようとしたが、全く駄目だった…不甲斐ない…無念。」
集中していた在仁が白蓮の呼びかけに全く気が付かなかったのだという。茉莉はそれを聞いて在仁の顔を見た。紅葉は大切な浄化札を丁寧に箱に詰めていた。
「ね、在仁、どうかした?」
「や、ちょっと心頭滅却したくて、集中してただけ。」
筆を置いて片付けを始めた在仁の表情は何と無しぼんやりとして見えた。
「何のために?」
「…契約書の事を一旦忘れたくて。」
「契約書?」
「雇用契約書。」
茉莉が首を傾げると、在仁が震えた。
「俺って初めはほら、茉莉に雇ってもらってたから、茉莉からお給料貰ってたじゃない。それなりに適正な額をさ。でも、その後お師匠様に弟子入りして、暫定的重小隊員って形で重大隊からお給料貰ってるじゃない。一般的な小隊員と同じような額をさ。しかも福利厚生めちゃくちゃしっかりしてるし、俺自分で医療費一銭も払ってないからね。これだけ死にかけて一銭も…それだけでも恐縮ものだよ本当。で、今回成り行きで清め人を継承した事で、まぁここまでバタバタしてきた訳だけど、やっとある程度形が整ったじゃない。だから、清め人として、奥州藤原氏と雇用契約を結びましょうっていう話し合いが、さっきあった訳。」
「…さっき?」
「うん。さっき、前触れもなく唐突に。」
「へぇ。で?」
茉莉が興味があるのか無いのか分からない態度で先を促した。
「や、金額がね。ちょっと庶民には体に悪いというか、ショッキングというか…拾った宝くじで一等当たった人の気持ちというか、や、違うか。恐すぎて…心臓がばくばくしてる。俺ちょっと今冷静になれそうにない。茉莉ちょっと俺の事殴ってくれない?」
「無理無理。」
茉莉がぶるぶると首を振ると、白蓮が倒れたままで言った。
「清め人だぞ?適正価格だ。もし主が他家からスカウトされるなら、これより上の金額を要求する事になるのだぞ?」
「これより上の金額なんてこの世にある??俺大リーガーじゃないんだけど!」
白蓮に対して敬語を廃して突っ込んでしまった事にも気が付かない在仁の頭は大分混乱している。茉莉はそれを見て可笑しそうに笑った。
「まぁまぁ、良いじゃない。お金はあって困らないでしょ、大事にもらっておけば。」
「…茉莉、庶民は大金を手にすると落ち着かないんだよ。」
挙動不審な在仁に、紅葉が札を片付け終えてから言った。
「ですが葛葉様、この札一枚でどれだけの方の命が救われることでしょうか。人の命はお金に変えられません。それをしようというのですから、やはり巨額になるのは当然の事ではありませんか?」
「お、さすが紅葉さん、良い事言った。」
いつの間にか休日に二人で鍛錬する程に仲良くなっている茉莉と紅葉が、なかなかの連携で在仁を納得させようとした。
「な…なるほど。つまり、俺はこれからこの額に見合うだけの働きをせよという事でございますね。こうしてはおれません。もっと浄化札を作らなくては…。」
目が不安に急き立てられるように揺れていて、茉莉と紅葉が慌てて在仁を押さえた。
「お待ちください、もう十分過ぎるくらいです。これ以上はお体に障ります。やめましょう。」
「どうどう、在仁、落ち着こう。一旦落ち着いて。」
押さえられた在仁がどう動こうとしても、この女子たちに力で敵う事は無い。諦めて項垂れると、茉莉が在仁の正面から手を握った。
「在仁、こっち見て。」
「茉莉…。」
「いい?在仁が一番大事なのは私だよね?私が一番大事なのは在仁だよ。在仁の肩書や立場や富や権力がどう変わったって、在仁は在仁でしょう。それがあってもなくても、やるべき事は同じ。無理しないで、出来る事をやる。分かるね?」
「分かるけど…やっぱり動悸がする。」
不安げに茉莉を見つめる在仁を見て、茉莉は少し考えた。それからそっと在仁の両頬を掴むと、噛み付くように唇を奪った。白蓮と紅葉がぎょっとしたがあんまりの事に身動きも出来ずに直視していた。その視線を無視してなかなかに濃厚なキスをし終えると、茉莉が在仁に訊いた。
「どう?」
「ど…ドキドキする。」
「良し。」
呆然と唇を触っている在仁に、茉莉はにっこりと笑った。
白蓮が何をしたんだとばかりに訊いた。
「何が、良しなんだ???」
「動悸がするって言うから、上書きしたの。」
得意げに言う茉莉を見てから在仁に視線を向けると、在仁は唇を奪われた乙女のような様子で顔を赤らめて呆然としていて雇用契約書の事は吹っ飛んだようだった。
「強引すぎません??」
紅葉がわなわなしながら言ったが、茉莉はどこ吹く風だった。
◆
四月の空は澄み渡るような水色で、徐々に強くなっていく日差しがこれからの季節への躍動を伝える。
新学期が始まり、茉莉も高校三年生となった事を思うと、高校生も最後の一年間だと分かる。色々な事が起こり過ぎて全然通えていないのだが、無事に三年生になれるのはやはり幸衡による金と権力の成せる業だろうと察する。在仁はやはり金とは凄い力があるのだなと思うと、車窓を流れる景色の建物も車も何もかも金で回っているのだなぁとしみじみと思った。これが葦鶴の愛するものかと思いながら呟いた。
「俺、本当はお家賃とか入れた方が良いのではない?」
藤原家に厄介になって四年目になるが、衣食住を保証してもらって一銭も払っていない。
「その話はもう終わったでしょ。」
在仁の隣で茉莉が呆れると、運転席の紅葉が少し笑いを漏らしたのが聞こえた。
「在仁はもう家族なんだし、お父さんもいらないって言ってるんだから、今更蒸し返さないの。」
「でも、ただ居候しているだけならまだしも、俺結構迷惑かけまくってるよ。お母さんなんて俺のための看護師みたいな生活させてるし。」
「あはは、在仁専属看護師、うける。」
毎度看病してもらって、通院にも付き合ってもらっているので、仁美の生活を拘束している自覚はある。だが、その仁美も晋衡と同じように家賃はいらないと言った。
「葛葉様、そもそも、天下の重大隊長のお給料はとんでもないのではありませんか?その御方が不要とおっしゃるのですから、あまり気にしては失礼ですよ。」
「…さようでございますね。」
確かに、家計に余裕がある人にいつまでも家賃を払うと食い下がるのは、経済状況を疑うようで失礼にも思えた。
「この上はやはり労働対価で…。」
燃えるような決意の呟きを聞いた茉莉が慌てて止めた。絶対に無理をして倒れる未来しか見えないので断固阻止するしかない。
「ダメダメ、ちょっと。分かった、じゃあこうしよ。これは清め人である事のお給料の話でしょう?だったら、パフォーマンス料って事にしよ。これから公の場に出る事も多いし、外面大事でしょう?御館様とお兄ちゃんがつくった在仁のキャラを演じるの。その演技料、ね、良いでしょう?」
「え、あの聖人キャラを俺に演じきれって事?…できるかなぁ、俺に…。」
心優しく、全ての人に慈悲深く、この世の汚れを厭い、清き世を望む、濁世の空気に当てられ体調を崩す程に清らかな場所でしか生きらない生物。在仁は色々具体的に考えてから、なんだそれと思う。そんな人間はこの世にいない。少なくとも在仁ではない。このハードルは高いな、と悩みだし長考に入った。
それを感じつつ、茉莉と紅葉と白蓮は微妙な顔をしていた。
「あのキャラってほぼそのまま在仁なんだよなぁ…。」
「演技必要ですか?」
「主にとっては全く別人なのだろう…。」
ひそひそと話していたが、しばらくして在仁が決意したように言った。
「やってみる。なるべく奥州に都合良い感じでね、上手くやれるようにイメージしてみる。それで釣り合う訳ないけど、俺に出来る事いっこでも見つかって良かった。ありがと、茉莉。」
何かを考えている顔をしているので、茉莉は余計な事を言ってしまったような気もした。処世が得意だと言っている在仁が本気になると結構恐いので、変なスイッチを入れてしまったのではと思うと罪悪感が無い事もなかった。だが、そこで高校へ到着してしまったので仕方なく車を降りた。
「行ってきます。」
「いってらっしゃい。」
「いってらっしゃいませ。」
軽やかに走って行く茉莉を見送ってから車が発車すると、在仁は首をひねった。
「紅葉さん、聖人らしい立ち居振る舞いとはどのようなものでございましょうか?」
「…いつもの葛葉様でよろしいかと。」
今日も良く晴れた良い一日になりそうだな、と白蓮は空を見上げた。
◆
品の良い上質な着流しで姿勢よく歩く在仁の薄い背を見つめながら紅葉が周囲を見ると、すれ違う人々が在仁に挨拶をしていた。在仁は一人一人の名を呼び丁寧に挨拶を返して、時に立ち止まり少しの雑談をしていた。紅葉が耳を澄ませていると、「葛葉さん、先日はどうもありがとうございました。」「いいえ、お力になれましたら嬉しく思います。」などと聞こえ、別の人も「葛葉さん、また話聞いてください。」と言い、「ええ、俺でよろしければいつでも。」と返してしていた。紅葉は常に在仁に張り付いているが、重大隊ではしばしば誰かが話しかけて来る。内容は概ね相談だ。この人望たるや、と思うとやはり裏表なく人格者であると思う。
二人と一匹がエレベーターに乗り込み、八階紫紺小隊のフロアを目指して動き出すと、在仁はまだ聖人らしさとは何なのか考えるように思案顔をしていた。
在仁をして表現しきれないとすれば、それはもう聖人ではないのではないかと紅葉は思った。同じように思っているのか、在仁の足元で白蓮も怪訝な目で見上げていた。白蓮は茉莉の部屋以外のどこでも在仁に張り付いているので、紅葉よりも長時間在仁と過ごし、よく在仁を理解している。そう言った意味においては、紅葉は白蓮を頼りにしているのだが、それでもやはりその正体が蠣崎樒だと意識するととても怖くなる。一歩下がって距離を取りつつ、二人(一人と一匹)を見ると、どう考えてもおかしな関係だ。在仁は何故樒を赦したのだろうか、紅葉には一生分からないと思った。
エレベーターを降りると、紫紺のミーティングルームの前で蘇芳が出かけようとしていた。
「おはようございます、蘇芳様。朝から出動でございますか?」
在仁が問うと、蘇芳は時計を見たもののさして急いだ様子もなく答えた。
「いや、実は今朝方また百鬼の案件の報告があった。既に逃げられてしまったようなんだが、処理班が入って片付けが始まる前に現場を確認しておこうと思ってな。」
百鬼の…と訊いて紅葉の肩が跳ねた。それを視界に入れながら在仁が言った。
「それでしたら、俺もお供させて頂けませんか?」
「え…いや、でも。」
蘇芳が迷った様子を見せた。だが在仁は引き下がらなかった。
「あとはお片付けのみなのでございましょう?危険はないものと思われます。百鬼の案件は瘴気も邪も他の現場の比ではございません。どうか、俺に浄化させてくださいませ。少しでも力になりたいのでございます。」
深い闇色の瞳に宿る清き光を強くして蘇芳を見つめる在仁の顔は覚悟を決めたようなそれだった。その強い意志を受け止めた蘇芳が折れた。
「分かった。じゃあ一緒に行こう。」
「ありがとうございます。お師匠様に許可を取って参ります、暫しお待ちを。参りましょう、白蓮、紅葉さん。」
嬉しそうに胡粉フロアへ向かおうとする在仁の背に、蘇芳が大きな声で言った。
「急がないから、ゆっくり行って来い。転ぶなよ。」
「はぁいっ!」
元気に返事をする在仁の背を追いながら、紅葉は感心した。
休日にひたすらに浄化装備を作っているというのに、それを託すのではなく更に現場に自ら赴くという。これだけの献身をして自身の労を肯定しない謙虚さは、尊くもあるがやはり危なっかしいようにも感じられた。
「やはり葛葉様はそのままで十分に聖人かと思いますよ。」
「へ??」
ぽかんとして振り返る在仁の無自覚の表情を見て、紅葉は薄く笑った。




