123 浜簪の事
長い会議を終えて、紅葉は強引に在仁を藤原家に送る事にした。
晋衡から在仁の体調が悪い場合は抱き上げて運ぶように教わったが、男勝りの紅葉でも成人男性を抱き上げた事がなく最初は出来るだろうかと思った。しかし実際に抱き上げてみると、思っていたよりもずっと軽かった。前置きもなしに抱き上げたので、在仁は抵抗したがその力も弱く、運搬するのに全く問題がなかった。強引に車へ押し込んで発車し、しばらくして様子を見ると、いつの間にか眠っていた。その寝顔は死人を思わせる程生気がなく、傍らの白蓮が心配そうに寄り添っていた。紅葉は、やはり体調が悪かったのだと知って強引に帰宅させて良かったと思った。
藤原家に着いてから紅葉は再び在仁を抱き上げて無理矢理家に押し込むと、一緒に家に入った白蓮と何故か待ち構えていた仁美が「後は任せて」と言ったので任せて家を後にした。在仁はその扱いに慣れたように諦めていたが、清め人様に対して結構不敬な扱いではないかと思った。それでもこうでもしなければ休みそうもないので仕方がないとも思った。
それから紅葉は再び重大隊へ向かった。
来た道を戻って大隊長室へ入ると、先程の会議のメンバーが再集合していた。
「戻りました。」
紅葉が端的に伝えると、晋衡が紅葉に席を進めて、紅葉は素直に座った。
「様子は?」
「ええ、車内では眠っていました。顔色も優れず、やはり休息は必要かと。」
「そうか、ありがとう。」
晋衡が僅か目を伏せた。「俺達のトラウマ」と言った時、晋衡も蘇芳も茉莉も酷く狼狽していた。きっと在仁程でないにしろ、精神的にダメージが残ったのだろうと察せられた。
それから晋衡は全体に視線を配ってから言った。
「では、始めようか。」
「よろしくお願いします。」
その言葉を合図に、先程の会議より遥かに長時間を要する話が始まった。
それは、在仁がどういった経緯で今に至るかという事の詳細だ。紅葉が教えて欲しいと言った事で、急遽この場が設けられた。
紅葉が在仁を送り届けている間に、千之助と冬至が過去の資料を持ち込んでおり、医療データから戦闘データまですべてをまるで法廷に提出する証拠のように見せた。そしてすべての小隊長・副小隊長が主観を交えて在仁の人柄や、気を付けるべき事を話した。晋衡と蘇芳と茉莉も、最も近くで共に過ごして来た故の情報を出来るだけ詳細に開示した。その情報は膨大で、紅葉は一度に受け止められるキャパを遥かに超えていたが、必死に付いて行った。
それはやはり渡された僅かな資料では及ばない、人一人の人生の厚みであり、数奇な運命を持つ在仁の重みだった。
◆
夜も更けた頃、ようやく茉莉が帰宅した。
在仁は玄関で茉莉を迎えた。
「おかえり。遅かったね。」
「ただいま。ちょっとね。」
茉莉が見ると、在仁の顔色は大分良さそうだった。足元の白蓮の様子からも、在仁の回復が見て取れた。
「先に寝てて良かったのに。」
「ううん。茉莉におかえりとおやすみ言いたいから。」
ふにゃっとした笑みは、少し眠そうだった。茉莉は在仁の無防備な顔を見ると安心する。
「そう。そう言えば思ったんだけど、紅葉さんって結構在仁に似たとこあるかもね。」
茉莉は今日の紅葉のために開かれた在仁講習会の事を思い出した。もちろんこの会の事は在仁には秘密だ。この会に在仁を参加させず秘密裡にした事は、この会では今までの事を何一つオブラートに包む事無く全て詳らかにすると決めたからだ。在仁がいてはまた過呼吸になってしまうような事も、何もかも。故に在仁を先に帰して、秘して開かれた。
実際、会の内容は事実を全て知っているはずの茉莉たちですら具合が悪くなるような残酷な部分があった。当然それを知った紅葉は相当なショックを受けた様子だった。
紅葉は自身の事は、去年の東京の被害を目の当たりにして、これ以上人が苦しむ姿を見たくないと話しただけで、それ以上は口にする事はなかった。しかし、奥州や清め人について、紅葉なりの先入観があった事は見て取れた。その想像と現実の乖離を埋める事は、この会で語られる情報だけでは無理だろう。それは紅葉自身がこれから見聞きした事で判断していくのだから。
情報量が膨大であった事もあり、今すぐにすべてを理解する事は不可能だろう。けれど、今後は在仁が落ち着いて暮らせるようにしたいと一生懸命に話を聞いていた。その様子は、機械のような冷淡な態度ではなく、血の通った熱い心を持った人だった。
帰宅時の車内は紅葉と茉莉の二人きりだった。紅葉は膨大な情報の処理が間に合っていないのか言葉少なだったが、僅かに明日からの行動について確認した事は、車内にリラックス効果のある香りを置いてはどうかと言う事だった。
茉莉は初めて、紅葉のパーソナルな一面を知った気がした。義将が紅葉を選んだ決めてである「女性らしい視点で気遣い」とは正にこの事ではないかと思った。男性的な見た目で常に鉄壁であったために見えて来なかったが、元来紅葉は細やかな気遣いの出来る女性なのではないだろうかと茉莉は考えた。それはどこか、茉莉の下僕であった頃の在仁のような、繊細で他人を思いやれる心根のようだと思った。
「さようでございますか。」
柔らかく微笑む在仁は、何となく紅葉と皆の間で何かあったのかなと察していた。茉莉の雰囲気からして、それはきっと良い事なのだろうと思うと、紅葉が来てからの緊張が少し解ける気がした。
「在仁、敬語。」
眠いのか、素の敬語が出て来た在仁に茉莉が指摘すると、在仁は茉莉の頬に口付けをした。
「茉莉、おやすみ。」
「おやすみ。また明日。」
本当に茉莉に「おかえり」と「おやすみ」を言うためだけに待っていたのか在仁は部屋へ帰って行った。茉莉はこれからまだ趣味の下僕をやると言われなくて良かったと安心して見送った。
◆
翌朝、紅葉は初めて女性用に設えた制服に袖を通した。
全体の臙脂色は同じで、袖の返しや襟などの黒色だった部分が紅梅色で可愛らしい配色だ。背の七曜紋も黒から紅梅になって、まるで花紋のようで華やかだ。
「これならば、恐くないだろう。」
手袋はやめて袖の紅梅色を見ると、紅葉はこれならば在仁を始め隊員達のトラウマを刺激する事もないだろうと確信した。
昨日は紅葉のために重大隊の重役たちが揃って在仁について教えてくれた。それらは紅葉の人生からは想像も及ばない程に壮絶で、衝撃が強すぎて今はまだ受け止め切れていない。昨日紅葉を見る小隊長たちの視線が憐憫のようだったのは何故だろうと思ったが、今ならば分かる。この重い現実を受け止めて、在仁と共に歩む人材として派遣されてきた事はとても大変な事だったのだ。紅葉が喜び勇んで立候補した「清め人の護衛」という誉れではなく、激化していくばかりの危険な戦の真っ只中に放り込まれたという事への感情だったのだと気が付いた。その覚悟を持てるのか、それを問われているのだと気が付いた。紅葉はまだ、そこまでは考えられていない。しかし、出来る事は今より先にしかない。
気を取り直すように深呼吸をすると、東京から持って来た荷物の中からお気に入りのポプリを選んだ。
早めに本家を出ると、先に車にポプリを置いてから藤原家の玄関へ迎えに行った。
「おはようございます。」
いつもより高い声を心がけたのは、威圧感を軽減するためだ。なるべく穏やかに振舞って在仁の心労を軽減させようと思っていた。
玄関から出て来た在仁と茉莉が、紅葉の制服を見て一瞬驚いた顔をしたがすぐに微笑んだ。
「そのお色もよくお似合いでございますね。」
「わ、可愛い。昨日と色違いなのに全然雰囲気違いますね。」
二人の優しい笑顔に、紅葉の方が癒されてしまって、少し申し訳ないような気持ちになりながら車に向かった。
車に乗ると、車内は良い具合に良い香りがした。
「いい香りでございますね。ラベンダーでしょうか。」
在仁がふっと肩の力を抜いたのが分かったので紅葉は安堵して発車した。茉莉と白蓮は昨日の事で良い方へ向かっているのを感じて目を合わせて頷き合った。
「紅葉さんの背中の紋、お花みたいですね。かわいい。」
運転する紅葉を見ながら茉莉は、ふと思い出して言った。紅葉は意識しないとつい端的になって怒っているように感じさせてしまうので努めて柔らかく答えた。
「和田家の家紋です。」
すると、在仁が補足するように言った。
「和田家の家紋は七曜紋、北斗七星の紋だよ、茉莉。」
「え、お花じゃないんだ。北斗七星かぁ、何か素敵だね。私にとって在仁がポラリスなのと運命感じるな。」
七曜紋の七つの星は北斗七星。茉莉にとって在仁はポラリス。茉莉は在仁の後ろ盾となる和田家の家紋に星が描かれている事は運命のように思えた。
「ポラリス?」
紅葉が問うと、茉莉が教えた。
「北極星の事です。在仁は私にとって北極星なんです。決して揺らがない方角星。在仁がいれば私は迷う事がないから。」
それを聞いた紅葉はロマンチックだなと思いつつも、迷う事を知らなそうな最強女子である茉莉にそう言わしめる在仁がどれだけ強い存在だろうかと思った。
未だ迷霧を彷徨うような心許無さを抱える紅葉には、それがとても羨ましく思えた。
◆
三月の最終日、地下胡粉フロアで在仁が逢初から教わった事をノートにまとめていると、唐突に逢初が席を立った。
「私はちょっと出かけて来る。空気、在を頼む。」
相変わらず紅葉を「空気」と呼び続けているが、紅葉は慣れたようで動じない。
「了解です。」
キリっと答えてから、紅葉は「分かりました」とかの方が良かったかなと思ってソワっとした。
紅葉はあれから頑張って、この重大隊の雰囲気に馴染もうとしてきた。今までのように穏やかな空気をぶっ殺すような冷淡な態度を取らず、できるだけ在仁が平穏に過ごせるように心がけようと。
その雰囲気を感じた在仁がペンを止めて立っていた紅葉を見上げた。
「紅葉さん、ご無理をなさっておられませんか?俺は紅葉さんの良いようにしていただいて構いませんよ。」
在仁の深い闇色の瞳は飲み込まれてしまいそうな程の深淵を感じるので、紅葉はあまり直視しないようにしていた。だが不意に見上げて来たその視線と目が合うと、紅葉の心の中までもを見透かすように貫いて見えた。
「いいえ。私の所為で葛葉様に御心労をかける訳にはいきません。」
意識して柔らかい態度をしようとする紅葉に、在仁は疑問のように首を傾げた。
「俺は、どなたかが割りを食うような方法で表面的に平穏を得る事を望みません。紅葉さんが御無理をなさらず、ご納得くださる働き方をお選びくださる方が、嬉しく思います。」
そう言われては、紅葉も肌に馴染んだ軍人然とした態度の方が楽なのだがと思う。しかし無駄に波風を立てる事も望まないので、どうしたものかと思うと悩ましい。
「四方八方丸く収まるような都合の良い事ばかりではございませんが、それを望んでしまう性分でございます。御不快に思われましたら、申し訳ございません。」
在仁が余計な事を言って悩ませたなと思って言うと、紅葉は恐縮したように首を振った。
「…そんな。」
なかなかここでの生活が軌道に乗って来ない様子の紅葉に、在仁は何か力になれないものかと思った。
「いかに望まれた役職でございましても、紅葉さんは環境のすべてがお変わりになられたのですから、慣れるまではお時間を要する事でございましょう。こちらの方々は皆様たいへん良い方ばかりでございますれば、ご心配なさらずとも良き道が見つかりますよ。俺もそうでございました。」
東京から単身やってきたのだから、生活から仕事から何もかも新しいのだ。軌道にのるまでは大変だろうと労うと、紅葉は驚いたように言った。
「葛葉様は、私がこの護衛の任を望んだとご存知だったのですか?」
紅葉の態度がキレているように見えるので、皆紅葉が望まぬ役職を押し付けられたものと思っていた。紅葉はこれが自分の望んだものだと言ったが、その時在仁は不在だったので、何故知っているのだろうかと思った。
「え?初めから色々と確定した理想をお持ちのご様子でございましたので、ご志願なさったものと思っておりました。」
当然のように言う在仁を、紅葉は呆然と見下ろした。
「紅葉さんは結構分かり易いですよ。」
にっこりと笑って言うと、在仁は自身の眼を指さした。
「目が、結構素直なのでございます。」
紅葉の態度は鉄壁だが、やはり目が素直なリアクションをしている。驚き、感動、喜び、怒り、憂い、憤り、色々な感情がその目の表情によく表れていて、在仁は早い段階から紅葉の目を見て感情を察していた。
「お師匠様は紅葉さんの清めの理想とは違っておられたようで失望なさいましたね。蘇芳様や茉莉様の楽しそうなご様子にも、天下の紫紺小隊の理想と違っておられたようで落胆なさっておいででございましたね。こちらの技術や戦力などの他家より遥かに優れた様子をご覧になっておいでの際は、どこか憂いをお感じになられる。それはもしか致しますと東京の事を慮っておいでなのではございませんか?俺に対しても、普段は尊敬のような感情を向けてくださいますが、時として憤りのようなものをお感じになられる。きっと清めの力が全国に行き渡らぬ事を悔しくお思いなのでございましょう。」
在仁が今まで紅葉を観察してきて感じた事を率直に伝えると、紅葉は驚愕のように後退りした。
「…心を読めるのですか?」
「ええ??いやいや、紅葉さんを拝見させていただけば自ずと分かる事でございますよ。」
「いいえ、私は分かりにくい人間なのです。東京でもいつも怒っていると誤解されてきました。」
そんな事を宣言されても…と在仁は困ってしまった。
「紅葉さんは、初めから何か罪悪感のようなものをお抱えでございましたね。俺はそれを、望んだ着任とは申せど結果的に困窮している故郷を捨てて来てしまわれたとお感じでいらっしゃると思いました。ここでの生活を拝見させていただきましても、お困りの方に手を差し伸べられるお優しいお心をお持ちであると分かりました。常に俺をお気遣いくださる細やかなお心も感じました。なれど、予めお決めになられた護衛としての立ち居振る舞いをご優先なさるために、そのお心は封じられてしまわれた。俺は、それをとても勿体のない事と思いました。理想の護衛像も、また俺のためにしてくださる柔らかなお振舞も、紅葉さんにとって少しご無理をなさらなれければならないのではございませんか?これから先まだまだ長い時を共にさせていただくのですから、もっと肩のお力を抜かれて、紅葉さんらしい在り方をなさってください。」
以上が観察から得た情報の独自見解です、と言うように在仁が笑った。
紅葉はそれらの正確さに慄いてしばらく口をぱくぱくさせていたが、しばらくしてからぽつりと呟くように言った。
「憧れでした。」
在仁が首を傾げると、紅葉は続けた。
「清め人は私の憧れでした。鬼がのさばるこの世を救う事の出来る唯一の力を持つ清め人は、私にとって神のような存在です。ですから、和田家が葛葉様の後ろ盾となれる事に歓喜いたしました。護衛の任を賜った事は私の人生最大の出来事でございます。二度と故郷の土を踏まぬ覚悟で着任いたしました。」
「え…と…。」
休みには帰省しても良いんじゃない?と在仁は大袈裟な紅葉に多少引いたが、紅葉は徐々にヒートアップしていった。
「パーティーで初めてお会いした際、葛葉様の笛の音もそうですが、義将様へのお言葉が、あまりに尊いと感動いたしました。こちらへ着任してからも、皆様にお優しく、そして皆様から好かれる様はやはり特別な御方に違いないと確信しました。このような方が他にいるはずがありません。葛葉様はナチュラルボーン清め人なのです!」
「…え??それはお兄様のプロパガンダが…。」
元々浸透している清め人の聖人たるパブリックイメージを利用して、清め人を崇拝する者たちを意識的に利用しようする智衡の宣伝活動が、紅葉をここまでの敬虔な信者にしているとしたら、何て恐ろしいクリーンヒットかと在仁は思った。
「いいえ。葛葉様は正に清め人の中の清め人です!」
何なら今までで一番感情を表に出したな、と思いながら在仁が紅葉の勢いに押されていると、紅葉は唐突に肩を落とした。
「しかし、タイミングが悪かったのです。和田家は昨年の百鬼の一件から立ち直っていません。皆が困窮に喘ぐ中、私だけが夢を叶える事が疚しく思えました。ですから、出来るだけ自身を律した暮らしを心がけようと。」
ああ、それがあの護衛アンドロイドか、と在仁は納得した。
「葛葉様に、憤りを抱いてしまった事は、本当に身勝手な事です。この奥州には何もかもがある。もう少し早く和田家と関係を結んでいれば、東京はあのような地獄を見ずに済んだのにと。そしてこれだけの力があれば、もっと沢山の苦しみを救えるのに、どうしてそうしないのかと、そう思ってしまったのです。その自分勝手なたらればが、まさか筒抜けだったとは思わず。申し訳ございません。」
直角に腰を折って頭を下げるので、在仁はびっくりして立ち上がった。
「いえいえ、おやめください。どなた様もお心の内は自由でございます。俺が紅葉さんのお感じになられた事を察する事が出来ましても、それを咎めだてする立場ではございません。」
眉を下げた紅葉が頭を上げると、在仁はほっとして座った。人間関係において人に頭を下げられる事ほど苦手なものはないかも知れないと在仁は思った。やはり仕える事が好きな質なので、仕えられる事は落ち着かない。置いたペンを握り直した時、紅葉が申し訳無さそうに訊いた。
「葛葉様は、そのように思いませんでしたか?過去自身が困った時に、奥州の助けがあればと、そう思いませんか?」
どこか在仁の過去を示唆したような言い方に、紅葉の態度の軟化からしても在仁の過去について知ったのだろうかと思った。
「…思いません。」
ペンを持ったまま、ノートの罫線を目で追いながら在仁が言った。
その言葉に、胡粉小隊のお姉さま方が意識を向けたのを感じたが、在仁は続けた。
「すべては俺の道でございます。俺の背負うべきものに、他者の肩代わりも、想像上の過去改変も、責任のすり替えも…許されないのでございます。もし俺が別の世界線を想像する事があると致しますれば、それは茉莉様と出会わない世界でございます。その世界で俺はきっともう死んでいるでしょう。」
ノートに置いたペン先からインクが染みていった。在仁の昏い瞳が、ただその染みを見つめていた。
死を想像する時、恐怖と共に、苦しみの終わりを見る。そこが最低最悪でも、終われるならばと手を伸ばしてしまいそうになる。きっと茉莉と出会わなければ、在仁は頑張れなかった。生きる事にしがみ付かなかった。
「葛葉様…。」
紅葉の震える声にはっとした在仁は慌ててペンをノートから離した。
「申し訳ございません。少し疲れてしまいました。休憩いたしましょう。」
穏やかな笑みを作って在仁が立ち上がると、紅葉は頷いてついて来た。
エレベーターに乗ると、どこにいたのか白蓮がするりと同乗した。紅葉は白蓮の事を蠣崎樒だと知ってから、少し恐く思うようになった。一歩下がって距離を取ってから在仁に小さく頭を下げた。
「すみません、不快な問いをしてしまいました。」
「いいえ、こちらこそ変な事をお答えいたしましたね。お忘れください。」
狭いエレベーターの中で、紅葉は在仁のその細い肩のラインを見つめながら、この頼りない体で懸命に戦っているのだと思った。その人に、なんて無神経な質問をしたのだろうかと自責の念を抱いた。
「私は、ごく普通の…平均的な武士ですので、身の丈に合った任務にしか就いた事がありません。より強い対象には、より強い武士が対峙します。そしてそれより強い対象には、それより強い武士が。そうして上には上がいて、上限がないもののように思っていました。けれどここはその最上階で、ここで敵わない敵には、対峙出来る武士はいません。だから皆誰にも任せられない。強くなるしかない。今までの私は誰かに頼って助けてもらえる事を当然と思っていましたが、ここでは私も強くならなければなりません。私はそういう事からして知って行かなくてはなりません。未熟者ですが、どうぞよろしくお願いいたします。」
素直に伝えると、在仁が少し振り返った。
「ふふ。素直なのでございますね。俺は素直な御方はとても好感を覚えます。どうかこれからは、そうして本音をお教えください。その方が俺は心安く過ごせます。」
その横顔は、紅葉の心を優先して励ますような優しさが滲んでいて、紅葉は仕えるべき相手に結局救われてしまったのだと思った。
「こころがけます。」
これからは在仁に気遣われるのではなく、在仁を気遣えるようにならねば。紅葉はそれを決意するように言った。
◆
四月に入ってすぐの事、蘇芳が紫紺フロアに南木を担いできた。南木の来訪を知ってやってきた在仁はその姿に驚いた。
「ええっと…転げまわられたのでしょうか??」
南木は何故か薄汚れた格好で髪も乱れていて、顔も無精ひげで、寝ていないのか青白い色をしていた。
戸惑う在仁に、蘇芳は少し怒気を含ませた声で言った。
「こいつは没頭すると何日も寝食を忘れる。」
そういえば会議で南木が音信不通だと言っていたっけと思い出した在仁が、そういう事かと納得していると、南木はカスッカスの声で反論した。
「二週間くらい平気だよ。ねぇ?葛葉くん。」
「…はぁ、まぁ。一ヵ月はいけますかね。」
二人で暗い目をしてどれくらい食べなくても生きていけるか話し出すので、とうとう蘇芳がブチ切れた。
「ふざけるな!こっちがどれだけ心配しても、お前たちがそうだからキリがないだろ!もっと自覚を持て馬鹿野郎どもが!殺すぞ!死ぬ前に俺の手で殺す!」
結構ガチめの波形だったので、南木と在仁が黙ると、蘇芳は南木をミーティングルームのソファーに降ろしてから、買ってきたのか飲み物と食べ物の入ったビニール袋を手渡していた。南木はしぶしぶと受取って、中を確認してからペットボトルの水を開けて口を付けた。
「そちらは?」
南木の視線が在仁の後ろの紅葉に向いていた。
「和田家から俺の護衛として派遣されております、和田紅葉さんでございます。」
紅葉が浅くお辞儀をした。
「和田家!ああ、葛葉クンの後ろ盾になったんだっけ?ボク南木元一郎。しがない個人営業の技術屋さ。ヨロシクね。」
軽く挨拶を交わしてから、南木はもう一度袋の中を覗いて、パンを出して食べ始めた。
「そっかぁ、和田家かぁ。和田家って言ったらあれだ。知将様。あのめっちゃハイテンションなゴリラおじさんだよね?愉快だったなぁ。和田家は明るくて楽しいから葛葉クンに良い影響を与えてくれるだろうねぇ。」
咀嚼しながら言う南木に、在仁は首を傾げた。
「南木様、俺は知将様にお目にかからせていただきましたのは一度のみでございますが、そのような雰囲気では…。」
新年会で会った知将は、大きな体躯に大らかな人柄でありながらも厳格なオーラを持った正に将といった雰囲気だった。
「あっれぇ?そうなの?おかしいなぁ。ボクが旅していた頃は愉快な和田一族って感じだったけど。まぁ昔の話か。」
南木は全国各地を鴎音と旅をしていたので、色々と知識が豊富だがそれも昔の話か、と懐かしそうな表情をした。在仁が疑問の眼差しで紅葉を見ると、紅葉は苦笑した。
「ええ、昨年の百鬼の案件で皆気落ちしていますが、元はとても明るい家門です。特に知将様はその…なかなか元気の良い方ですよ。ええ。」
濁し方が蘇芳の「上杉家は賑やか」に近いものを感じた在仁は心に留めておこうと思った。
「そうだよねぇ!良かった、ボクの記憶違いじゃなくて。」
紅葉の言葉に安堵した南木が、次におにぎりを食べ始めた。袋の中身は炭水化物ばかりなのだろうか。流石の蘇芳チョイスだ。それを無言で見下ろす蘇芳は監視人だろうか。南木が食べているのを見ながら在仁は部屋の隅を指した。
「南木様がお越しになると伺いましたので、充填済の月長石をお渡しせねばと、あちらにございますが…。」
語尾を曖昧にしたのは、南木が弱った様子だからだ。南木が珍しく長くやって来なかったので充填済の月長石はかなり溜まっていて、それは段ボール箱三つ分にも及んでいた。それを今の南木に運ばせるのは無理があるかと気遣ったのだ。
「えっっ!あんなに??やば。葛葉クン素晴らしいよ。あれだけあれば色んな事が進むよ。ありがとう。これは、空の月長石が間に合わないくらいだ。なんて嬉しい悲鳴。あ〜、また閃きそう。」
「南木…。」
蘇芳の怒りの声に身をすくめた南木が再び大人しく食べ始めた。
「在仁、あれは俺が運ぶから心配いらない。」
「あ、ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」
苦笑する在仁を視界に入れた南木は、咀嚼しつつも拗ねたように語りだした。
「だってよく考えてもみなさいよ、君たち。ここには金も材料も不足するものなんか何ひとつとして無い訳だよ。正になんでもある訳だ。けれど、ここがこれだけ豊かであるのを知れば、そうでない場所がある事を惜しく思うだろう?ボクは旅をしていた頃、結構な貧富の格差を目の当たりにしているんだよ。ある場所には何故か金も人も集まって発展していくけれど、ない場所はなくなる一方さ。まして清め人は三人しかいないのに全国で需要爆発してる。こんな理不尽で不公平な状況を、もしかしたら変えられるんじゃないかって、閃いてしまったら、寝食なんてどっかにいっちゃうのは当然だと思うな。」
ぶつぶつと言っている南木に、いち早く反応したのは紅葉だった。
「す…素晴らしいお考えです。」
在仁と蘇芳が紅葉を見ると、紅葉はキラキラした瞳で南木を見つめていた。
「私もかねがねそのように思っていました。ここは素晴らしい所です。ですがそれを知れば知る程に、故郷の苦境やその他の苦しむ人々の事が頭をよぎってしまい、とても複雑な気持ちになっていたのです。南木様のお言葉、本当に共感いたします!」
ぐいぐいと詰め寄ってくる紅葉に、南木は引きながら蘇芳に助けを求めるような目を向けた。
「ちょ、何この子、すごい勢いじゃん。ちょっと、蘇芳クン、どういう事??」
「紅葉さんは空気だ。」
説明する気も情報もない蘇芳が端的に言うと、南木は「はぁ??!!」と素っ頓狂な声を出した。
「空気ってか、熱気だよ!!」
在仁はその様子を見て、南木のおかげで紅葉の道が少し開けてきたのではないかなと思った。




