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121 薫衣草の事

 「紅葉(もみじ)、奥州はどう?」

比較的明るい声で義将(よしまさ)から電話がかかってきたのは、紅葉が奥州に着任してから九日目の夜の事だった。

 「特に問題なく、勤めさせていただいています。」

硬い声で返すと、その少し暗い色を察した義将が努めて明るく言った。

 「東京の心配はいらないよ。奥州からの支援でかなり持ち直してきたし、父上も回復して復帰しているからね。一人だけ地獄を脱出した罪悪感みたいな声出してないで、奥州ライフを楽しみなよ。」

義将が明るい声を出す時は割としんどい時だと、紅葉は去年からの事で知った。きっとまだ色々と大変なのだろう。そう思うと、東京へ戻って僅かでも力になりたいという気持ちと、奥州で与えられた役割を全うしたいという気持ちの二つが、せめぎ合うようにないまぜになった。

 「楽しむ…は難しいかと。私は正しく護衛としてありたいと思っております。」

サイボーグのような口調で、まるで全国共通の護衛マニュアルでもあるかのように言うので、義将は可笑しそうに笑った。

 「あはは、何だいそれ?紅葉も冗談を言うんだね。思ったより明るそうで良かったよ。分かっていると思うけど、任期のある役目じゃないから、これからは奥州が紅葉のホームだからね…。」

 「了解しております。東京へは二度と帰る事は無いつもりで着任しました。頂いたお役目、しかと勤めてまいりますので、ご心配には及びません!!」

大きな声で宣誓のように言って紅葉は電話を切った。

通信を切られた携帯端末を見ながら、義将は苦笑した。

 「いやいや、これから長いから肩ひじ張らないでやってかないと持たないよって、言いたかったんだけど…力入り過ぎじゃない?大丈夫かなぁ。」

義将は少しばかりの不安を抱いたが、紅葉が奥州で単身頑張っている事を思えば、それに報いるためにも自身の仕事をしなければと意識を切り替えたのだった。 


 ◆


 紅葉が着任して十日程が経つと、護衛アンドロイドのような紅葉のキャラにも皆慣れてきた。いつも在仁の斜め後ろに控えているが、話しかければ無視をする事もないし、余程ハメを外した話題でない限りは最低限の答えが返ってきた。

それは在仁が紅葉にそうするように要求したからだ。周囲の環境が穏やかでないと落ち着かないから、負担にならない程度に友好的にしてほしいと。在仁の生活を害する訳に行かないので、紅葉が妥協したのだ。しかし返答の簡潔さと軟化しない態度が、周囲を委縮させる場面は散見された。

 その日は在仁は午前中をランニングなどの体力づくりの時間として過ごし、着替えてから昼食を食堂でとろうと、紫紺(しこん)フロアを歩いていた。そこへ、大股の足音が急速に近付いてきた。紅葉が護衛として少し警戒するような気配を出したので、在仁が手で制止すると、次の瞬間には蘇芳(すおう)に抱きしめられていた。

 「はぁ…癒される。」

蘇芳の大きな体に抱きしめられると完全に包まれてしまう在仁だが、まぁ悪くはない。後ろで紅葉が驚いた視線を向けているのに気が付いた在仁は、はっと冷静になり釘をさした。

 「蘇芳様、俺で癒しをお求めになられますと、茉莉様からお叱りをお受けになられますよ。」

大人しく抱きしめられながらやんわり注意をすると、蘇芳がゆっくりと離した。

 「そうだな。内緒にしてくれ。」

 「無理でございます。」

頑として譲らない在仁に、蘇芳は苦笑した。その表情を見てから在仁は蘇芳を気遣った。

 「お疲れでございますか?」

 「まぁな。最近また養殖場が発生している。蠣崎(かきざき)が遺した養殖場を開く者が向うにいるのだろうと思うと、色々と気が滅入る。」

言いながら蘇芳は在仁の足元の白蓮(びゃくれん)を見下ろした。白蓮は素知らぬ顔で尻尾をくねらせていた。

 「さようでございますか。それはご心痛お察し申し上げます。本日は討伐を?」

 「今はまだ調査中だ。早ければ今夜だな。」

 「でしたらこちらをお持ちください。」

在仁が袂から折った浄化札を出すと、札は辰砂探知鳥となって蘇芳の肩にとまった。

その浄化札で作られた清らかな鳥の姿に、紅葉が息を吐いた。初めて見た清き鳥に目を奪われたようだったが、蘇芳は見慣れた様子でそれを愛でるようにつつくと笑った。

 「ありがとう。」

 「ご武運を。」

穏やかに祈りを込める在仁を紅葉が崇拝するような目で見ていた。

そこへ、軽い足音が近づいて来たと思うと、大きな声が響いた。

 「蘇芳!ちょっと!私の在仁に手出してんじゃないでしょうね?!」

 「わっ、茉莉様!どうしてここに…。」

蘇芳が戸惑っていると、茉莉は警察犬のように在仁の体をしげしげと見てから蘇芳を睨んだ。その目にドギマギした蘇芳が、在仁に助けを求めるような視線を送ると、在仁は茉莉に言った。

 「茉莉、蘇芳様が俺に癒しをお求めになるのは、それだけお疲れだからだよ。」

 「…やっぱり抱きしめたんだ…。」

亡霊のような恨みがましい表情で蘇芳を睨むので、在仁は茉莉に甘えるように言った。

 「茉莉も抱きしめていいよ。」

 「…そうだね、上書きしよ。」

言って在仁に抱き着いた茉莉に、蘇芳が呆れたような顔を向けた。

 「ちょっと、俺をバイキン扱いしないでくださいよ。」

在仁を取り合って大人げないやり取りをする蘇芳と茉莉を、紅葉は複雑な視線で見ていた。

蘇芳も茉莉も紫紺色の制服。紫紺は地龍イチの部隊だ。最強の武士たち。それがこの体たらくとは。慎ましさや清貧さや厳しい規律の中にこそ、自身を律する強き志が鍛えられるものだと思ってきた紅葉にとって、最強を冠しながら感情豊かな様子はカルチャーショックだ。紅葉のその感情は表には出ないものと思っていたが、紅葉の目は口ほどにものを言う。もの言いたげな視線を向ける紅葉に、茉莉はその真意を図りかねているのだった。


 ◆


 その日の夜、久しぶりの紫部隊全出動の養殖場討伐が決行された。

在仁は胡粉(ごふん)フロアからその様子をサポートしていたので、紅葉は胡粉フロアから養殖場討伐を見守った。紅葉にとって初めて近くで知る養殖場討伐の現場だった。その壮絶と、チームワーク、そして慣れた様子にはとても驚いた。これが天下の藤原(ふじわら)重大隊(かさねだいたい)かと恐れ入った。

これだけの設備と戦力が、あの時の和田家にあったならば、東京はあれ程蹂躙される事はなく、知将(ともまさ)も死にかける事はなかっただろうと思うと、悔しさが込み上げた。奥州はこの力を独占しているのだと思えば、どうしてあの時助けてくれなかったのかと、理不尽な怒りが湧いてきてしまう。

だが、それが自分勝手な感情だと理解していたので、押し殺して業務に専念した。

 数時間が経過し、まるで予め決められたマニュアル通りに作業しただけででもあるかのように討伐が終了した。その鮮やかさに脱帽すればする程、紅葉はこの圧倒的戦力に嫉妬のような憤りを感じた。

 「(あり)、現場の浄化は担当者に任せていい。ミッション終了だ。上がってジャスミンを迎えてやんな。」

逢初が退勤を促すと、在仁が嬉しそうに笑った。

 「ありがとうございます。それではお先に失礼いたします。」

軽やかな足取りでエレベーターに乗ると、後から白蓮(びゃくれん)と紅葉が乗った。

白蓮は在仁を労うように足にすり寄って言った。

 「(あるじ)の浄化札が活躍したな。せっせと作った甲斐があろう。」

 「さようでございますね。浄化札は護身用ではございませんので、必要な時にお使いいただけるよう、これからもたくさん作って参ります。」

 「無理はするなよ。」

 「ふふ。」

笑って誤魔化す在仁を咎めるように白蓮が何かを言っているのを、後ろから見ていた紅葉は視線を曇らせた。全国各地で浄化札を必要としているが十分には手に入らない。けれどこの討伐では驚く程消費されていた。これだけの浄化札を使う事が出来るというだけで、清め人を持つという事の大きさを知る。

紅葉は、やはりあの時和田家にこれだけの浄化札があればと思ってしまう。その感情故に奥州が二人の清め人を独占し恣にしている事が、正しいとは思えなかった。

この数日間だけでも、逢初や在仁が自由に穏やかな暮らしをしていることが見て取れた。貴重な清め人により良い待遇を保証するのは当然だが、今も苦しむ人々から目を逸らして自身だけが良い暮らしをするのは間違っているようにも思えた。

昨年の東京の悲惨を味わって、紅葉は同じ思いをする人を無くさなくてはならないと強く思っていたのだ。それ故に、力ある者たちに必死さを見なければ納得のいかないような身勝手な憤りを抱えてしまうのだ。


 ◆


 「おかえりなさいませ。」

在仁が迎えると、蘇芳と茉莉が隊員達を率いて帰ってきた。

 「ただいま。」

たった今養殖場を討伐してきたはずなのに、隊員達は特段満身創痍という様子もなく笑顔で帰還を伝えた。紅葉はその様子に目を丸くした。これが和田家であれば、今頃はトリアージの嵐ではないのかと思うと、レベルの差が歴然過ぎて思考が止まってしまう。

 「茉莉っ。怪我は?」

茉莉の姿を見るなり、在仁は駆け出して茉莉の手を握ると怪我がないか確認するように見まわした。

 「平気だよ。ちょっとしたやつだけ。」

 「見せて。」

 「駄目。汚いから、後でね。」

ぐいっと顔を寄せる在仁を茉莉が無理やり押して離した。見せたら今すぐにでも舐めて治癒しようとしそうだった。茉莉は綺麗に洗ってからと伝えたが、在仁は不服そうだった。

 「どうしても?」

 「どうしても。」

キラキラとした目で見つめても駄目、と茉莉は心を鬼にして去って行った。

 「俺も着替えて来るけど、在仁は仕事終わったのか?茉莉様を待つならまだ事後処理があるから小隊長室で待つと良い。俺も後から行くから。」

 「分かりました。そのように致します。」

蘇芳に言われたので、在仁は先に小隊長室へ行くとソファに座った。座ると同時に白蓮が膝に乗った。晋衡(くにひら)は不在だった。討伐にも不在だったので大隊長としての別件があるのだろうと在仁は思った。

 「紅葉さんもお座りになられますか?」

 「いいえ。」

紅葉が座らないのはこの十日で分かっていた。在仁の良心が痛むというか居心地が悪いので一応声をかけただけだ。それが紅葉が決めた業務スタイルだと言うならば無理に止めさせるような事でもない。在仁は気にせずに、テーブルに札を広げて鳥を折り始めた。そうしていると、蘇芳が戻ってきた。蘇芳は在仁が内職をしているのを見てから自分の席に座ってPCを立ち上げた。

 「休めば良いのに。」

 「休んでいるようなものでございます。」

ただの折り紙だと言い張る在仁に、蘇芳は顔をしかめた。浄化札を鳥にするのは術だ。折り紙に見えるが演算をして術力を込めているのだから、それは休息ではない。

 「言っておくが、事務仕事を療養だと言ったのは俺達が頑健な肉体を持っているからで、在仁には該当しないぞ。」

 「それは、おっしゃり様が冷たくございませんか?」

療養が必要な身でも、晋衡や蘇芳や茉莉が体を動かさない事を全部療養だと主張する事を宇治山(うじやま)は何故か黙認した。だが在仁はそれには当てはまらないという。

 「悪いけど在仁は虚弱だからな。身の程を知って行動すべきだ。体調を崩す前に休息を取って、心身のバランスを整えておくべきだろ。」

 「酷いですよ。俺も頑健になりとうございます。」

拗ねたような在仁の背を見て、紅葉は細い体だなと思った。在仁が新年会で倒れた事は有名な話だ。理由は武家の欲望渦巻く中央の空気に当てられた所為だと言われている。それだけ清き水でしか生きられない弱い生き物なのだという共通認識だ。けれど、紅葉が見た所毎日体作りをしているし元気に暮らしているようだ。それでもやはり蘇芳が虚弱と表現するのだから、健康体という訳でもないのだろうか。紅葉はその実際の所が分からなかったが、健康状態については事前の資料には無かった。故に知る必要のない事なのだろうと理解していた。

 「まぁ、俺としても早く厳罰期間を終えて在仁に前線復帰してもらいたいけどな。」

 「俺もでございます。折角鍛えた腕が鈍ってしまいます。」

 「銃の訓練くらいなら許可下りるんじゃないのか?」

 「さようでございますね。確認させていただきます。」

蘇芳と在仁が前線での戦いについて話していると、紅葉が動揺して少し体を揺らした。それを在仁が視界に入れたが、紅葉はすぐに体勢を立て直して平静を装った。

紅葉は在仁が前線に出て戦っていたとは思っていなかったのだ。清め人は貴重な存在。そんな危険な場所に身を置く事が許されるはずがない。あまりの衝撃に、思考が散らかってしまい、しばらく落ち着かない気持ちで立っていた。

 「おまたせ〜。」

そこへ着替えた茉莉が入ってきた。在仁はすっと立ち上がると、茉莉の元へ駆け寄った。急に立ち上がったが白蓮は難なく着地していた。

 「おかえり、待ってた。」

 「まだ駄目だったら。帰ったらね。」

至近距離で言い合っていて、イチャイチャしているようにしか見えなかった。

 「お〜い、二人とも、早く終わらせて帰ってからにしてくれ〜。」

蘇芳が言うと、二人はようやく離れた。

茉莉が蘇芳の隣に座って二人で事後処理を進めた。在仁はその会話を耳に入れながら再び鳥を折っていた。紅葉はその細長い指を見ながら、そっと訊いた。

 「前線に?」

その問いに在仁が一度手を止めた。先ほどの蘇芳との会話から得た情報で、清め人である在仁が何故前線に出るのかという問いだとすぐに理解出来た。

 「俺は、武家の出身でございます。」

晋衡に「武士」と名乗る事を禁じられていなければ「武士」だからと答えたが、仕方ないので遠回しに伝えた。けれど紅葉に対してはそれで十分だったようだ。

 「そうでしたか…。」

本当に最小限の情報しか知らないらしい紅葉は、在仁を清め人であるという一点でしか見ていないようだった。龍神の契約者も人造神も意味不明ワードでしかなく、まして旧石川領の唯一の生き残りと言う情報とて紙の上の記号の羅列だ。そこにある痛みなど、考えも及ばないのだった。


 ◆


 二週間が過ぎる頃、在仁は紅葉に休暇を告げた。

 「本日は俺は藤原本家に一日中おりますので、紅葉さんは休暇になさってください。」

 「いいえ…そういう訳には参りません。」

在仁は紅葉に休暇がない事が気になっていたので、丸一日書架に籠る事にした。藤原本家で暮らしている紅葉も、それならば納得するだろうと思ったのだが、案外強情だった。在仁は少し考えてから、訂正した。

 「では、夕方の五時まで書架におります。五時にお迎えにいらしてください。」

 「…わかりました。そのようにいたします。」

そう言われては紅葉も引き下がらざるを得なかった。元より外出時のみの護衛なので、自宅や本家に滞在時は護衛外という事かも知れないと思えば、在仁の主張は間違いでないようにも思えた。

しかし、紅葉は休日はないと思って着任していたので、急に休みを与えられても困る。結局気になって書架の様子を何度も窺いに行ってしまった。

紅葉が書架を覗き込むと、朝イチから書架に入ったままの在仁は、ただ静かに一人掛けのソファで猫を膝に乗せて本を捲っているだけだった。集中しているのか、彫像のように静かな様子だった。書架の中はまるで時が止まったような静寂で、そこに佇む在仁はその空間の一部のように馴染んでいた。一人であっても姿勢よく伸びた背筋は着流し姿が良く似合っていて、紅葉から見ても武士ではなく貴族のようだった。鍛え上げた紅葉から見れば、在仁の裾から覗く腕や足は折れそうに細く、帯で締められた腰は華奢さを助長していた。本に視線を落としている目は、清め人と聞いて想像していたような純真無垢な色ではなく、どこか暗澹とした複雑な闇色。覗き込んだならば飲み込まれてしまいそうに深い色をしていた。陽を知らぬような白い素肌は長めの黒髪の影が濃く、ミステリアスな雰囲気を醸していた。その全体的な様子は、どこか儚く、消えてしまいそうな頼りなさがあって、紅葉は少し不安になった。

その様子を見てから、紅葉はしばらく廊下で控えていると、慣れた足取りで智衡(ともひら)がやってきた。智衡は紅葉を一瞥すると静かに書架に入って行った。

 「在仁、どうだ?」

それに気が付いた在仁が顔を上げた。

 「お兄様。とても居心地の良い場所でございます。ありがとうございます。」

 「そうだろう。気に入ると思った。寒くないか?さすがに火器は持ち込めないが、毛布を持って来た。」

言って差し出すと、在仁は素直に受け取って膝にかけた。

 「ありがとうございます。お借りいたします。」

廊下にいる紅葉は何となく会話に耳を澄ませていた。在仁に密着している事が仕事の紅葉は機密事項を知る事が出来る立場だ。職務上知り得た事を決して口外しないと契約しているので口外する事はないが、こうして個人的な会話を聞いている事は少し気が咎めた。紅葉が思う護衛は、知り過ぎず、出しゃばらず、ただ対象者を守る者だった。それを思えば今の状況は外れているだろうかと思うと居心地の悪さはあったが、その場を離れる事はなかった。

 「お兄様は、いかがでございますか?結婚式のご用意の方は?」

 「恙なく進んでいる。後の心配は当日の体調くらいだな。」

在仁を見ながら言うので、新年会の事を示唆して揶揄っているのだろうと察した在仁は笑った。

 「欲深い醜いお心を感じますれば眩暈がしてしまうやも知れません。」

芝居がかって言うと智衡も可笑しそうに笑った。二人で笑ってから、在仁は真面目に訊いた。

 「知将(ともまさ)様のご様子は如何でございましょうか?結婚式には御参席なさるのでございましょう?」

 「今の所は順調に回復しているようだ。そこも懸念だな。」

智衡が思案するように言う顔が、少し強張って見えた。やはり心配事や気苦労が多いのだろうかと思うと、在仁は少しばかり心配になった。

 「お兄様、ちょっと茉莉様の真似をなさって見せてくださいませんか?」

唐突に言う在仁を見下ろした智衡は、ノリの良い様子で満面の笑顔を作った。

 「お兄ちゃん、大好き!」

 「ぶはっっ…あはははは。」

願望が過ぎる物まねは既に物まねではない。創作だ。在仁が可笑し過ぎてお腹を押さえて笑った。

 「おい、笑い過ぎだろ。何で急にこんな変な要求されたんだよ、俺は。」

 「お顔が似ておりますので、茉莉様のように錯覚出来るのではないかと。そういたしますれば、俺が茉莉様にしか出来ない加護を、お兄様にも差し上げられるのではないかと思いましてございます。」

確かに智衡と茉莉はよく似ているが、それでも大人の男女である以上は酷似とまではいかない。智衡はそれは無理があるなと思って苦笑した。

 「気持ちだけ貰っとくよ。」

 「ふふ…お兄様、大好き。でございますよ。」

まだ可笑しそうにしながら言う在仁に、智衡は照れたように笑った。

 「ありがとな。」

言うと智衡は「風邪ひくなよ」と言って去って行った。在仁は頭を下げてから、再び本の世界の没頭して行った。

帰りも紅葉を一瞥しただけの智衡を、紅葉は浅く礼をして見送った。結局智衡は在仁に毛布を届けただけだった。次期当主という立場で在仁を気遣う事は、個人的な感情なのか、それとも大切な清め人に対する礼儀なのか、紅葉は後者であろうと思った。

 そうして五時になってから紅葉が声をかけると、在仁は何も言わずに立ち上がった。その様子から、紅葉がずっと近くにいた事を分かっているようだった。

紅葉が藤原本家から藤原家までの短い道を送りながら、ぽつりと言った。

 「奥州で、大切にされておいでなのですね。」

在仁はそれがどういう感情から来る感想なのかよく分からなかった。

 「…ええ、とても。」

肯定する在仁は、どこか憂いを帯びていて、寂しそうな儚い影を落としていた。紅葉はその様子に、書架で見た時と同じような不安を抱いた。

そこへ、藤原家の方から大きな声で茉莉が呼んだ。明るく煌めく美しい姿は、紅葉から見ても絶世と表現するに相応しい容姿だ。

 「お〜い!在仁!おかえり〜!」

それを見た瞬間、在仁が纏っていた憂いが払拭されて、明るい満面の笑顔が弾けた。

 「茉莉!ただいま!!」

大きく手を振る姿は無邪気で、年齢より幼く見えた。紅葉は、残り数メートルをその場で見送ってから踵を返した。


 ◆


 紅葉は在仁と別れて藤原本家へ戻る短い道すがら、茉莉の美しい笑顔を思い出した。在仁の婚約者。あれだけの美貌をして、更に紅葉よりも遥かに強い。その存在は女流剣士の最高峰であり、正に清めの伴侶に相応しいと思えた。あの美貌と力が在仁を魅了したのだろうと思えば紅葉も納得だ。だが、それが清め人を奥州に縛り付けて独占させているのだろうとすれば、それは罪深いもののようにも思えた。

 地龍最大勢力である奥州には何もかもがあると、かつてのアメリカンドリームのように人々が言うのを、紅葉は幻想だと思ってきた。けれどこのたった二週間をして、それが現実であったと知った。この奥州には、最高の環境が整っており、金も人材も他家では及びもつかないレベルだ。その環境を下敷きにして、武士は質実剛健であり、術者は気後れもなく積極的に発言し、後方要員や事務方に至るまで差別される事もなく皆生き生きと働いている。それが組織の循環を良くし、より発展していく。理想的な在り方が実現していて、本当に夢のような場所だ。ここに生きる人々は皆、明るく親切で、決して諦める事無く明るい未来を目指しているように見えて、紅葉は眩し過ぎて苦しくなった。

 これからは、この奥州の巨大な力と、清め人の持つ多くの権力が、和田家の助けとなってくれるという事は分かっている。けれど紅葉はそれを手放しに喜ぶ気にはどうしてもなれなかった。和田家は去年の地獄からようやく立ち直る所で、知将の復帰によって以前より活気を取り戻したとは言え、皆暗い顔をしている。それが無くとも、元々このような恵まれた環境でも無く、他の土地よろしく男尊女卑も武士至上主義観念も残る普通の領地だ。それを思えばこの恵まれた地に清め人が二人も居着くのは当然のように思えた。けれどそうすると、元より何もかもがある場所に金も人も流れて行って、無い場所はどんどん貧しくなっていくような気がして、不公平な気持ちになった。やはりあの時、奥州の助力があったならば、と詮無き考えがよぎってしまう。助けてくれるならば、もっと早く助けてくれれば良かったのに。そうすれば、死ぬ人間も傷付く人間もいなかったのに。

 それを思うと、ふっと在仁の儚い雰囲気を思い起こされた。誰に対しても優しく寄り添う在仁は本当に聞きしに勝る人柄で、紅葉が初めて会った時も義将の不安に共感し慰めた。その人格をして人々を惹き付けるのは必然のように思え、正に人徳の成せる技だと納得した。けれど、皆が在仁を心配し大切にするのはやはり清め人という価値が故であろうと思うと、在仁のあの人格すらも丸ごと清め人であるが故という所へ行きつく。紅葉は、清め人という特別な生き物という認識で在仁を捉えており、その心も生体も何もかもが清め人であるが故という理由付けで罷り通るものと理解していた。あの儚さもまた清めのそれであり、汚れを知らぬ清き心は美しいが、紅葉が見て来た多くの死や悲しみという地獄を知らないそれは、返って無慈悲にも思えた。

 また嫌な事を考えてしまって、紅葉は反省するように首を振った。こうして過去を引きずって暗い思考に支配されてしまうのは、やはり未熟な証拠だろうか。それとも、環境の所為だろうか。紅葉もこの奥州の人間であれば、奥州の人々のように明るく快活な人柄となり得ただろうか。すべてはこの何もかもがある場所の恵みなのだろうと思うと、紅葉は馴染まない自身の異質さが際立ち、居心地の悪さが増す気がした。

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