16 紫の事
茜はあまり本音を口にしない。
紫はいつも一緒にいるが、茜はだいたい本音を飲み込んでいると思う。だから、茜が口にする言葉には重みがある。
◆
初めて会った時の茜の印象は、頑固。当時まだ若かったのに、何だか年季の入った頑固親父みたいだった。一人で重い責任を背負ったような雰囲気は異様で、武士とはこういうものだろうかと思ったものだ。
あの頃の茜は有名人で、若くして将来を嘱望された武士だった。遠からずして鎌倉七口守護を任ぜられるに違いないと噂され、地龍の花形みたいな存在だった。その茜が、まさか同僚になるだなんて、紫は夢にも思っていなかった。
紫は元々ドジばっかりで、いつも周囲に迷惑をかけてばかり。地龍本家に就職できた事が奇跡みたいなものだった。使えない奴なのは自覚があって、職場で疎まれるのは仕方のない事だった。
対して、怪我をして武士から転職してきた茜は、何故か元々文官資格を持っていて優秀。正に即戦力だった。後から入って来たのに、最初からいたような仕事ぶりで、すぐに職場での信頼と地位を築いた。それを紫は、出来る人は何をやらせても優れているものだと、たいそう感心した。
優れた人から見れば、紫はさぞどんくさいのだろう。紫に対する茜の態度は、たいへん冷たかった。紫はそれを仕方のない事だと受け入れていた。そもそも住む世界が違うのだから、どうしようも無い。そう思っていた。
そんなある時、紫は他部署へ提出する書類を持って席を立とうとした。
そこへ、茜が呼び止めた。
「待て。一旦座って、もう一度その書類を確認しろ。」
「へ?」
何故か唐突に命じられて、紫は戸惑いながら座り直し、書類を確認した。そうしたら、内容にミスがあった。慌てて訂正し、再び席を立つと、茜がまた呼び止めた。
「待て。持って行く前に、抜けが無いか確認しろ。」
「へ?」
言われた通りに確認すると、一枚足りなかった。慌てて机の上を探したら、別の書類の下にあった。危ないところだった。すべてを順番に整えてから、やっと席を立つと、また茜が呼び止めた。
「待て。提出先を確認しろ。」
「へ?いや、これは隣の…。」
「確認しろ。」
「…は、はぁ。」
紫は仕方なく言われた通りに確認した。
「向こうの部長は午前中は会議で不在だ。直接渡す必要があるなら午後にしろ。置いて来るだけなら、分かるように付箋を付けろ。」
「わ、分かった。」
「自分の仕事が自分の手を離れてからどうなるのか、全体の流れを頭に入れて行動しろ。手元だけで完結する仕事は無い。何かあれば責任を問われるのは自分だ。大概のミスは確認しておけば防げる。絶対に確認を怠るな。」
「…う、うん。」
物凄く冷たい口調だったけれど、言われている事は納得できた。
「じゃ、じゃあ、僕これを持って行くから…。」
「待て。」
「まだ、何かあるの?」
「一緒に行く。」
「…はぁ…?」
職場のお荷物である紫が茜にロックオンされるのは仕方がない。けれど、思いの外面倒見のいい茜に、紫は戸惑った。普通は見捨てて窓際に追いやるのではないだろうか。紫は茜を不思議な人だと思った。
その後も、茜は「確認しろ」と何度も何度も言った。
だから紫は確認を怠らなくなった。そのお陰で仕事のミスは各段に減った。茜の要求する水準には遠く及ばないながら、紫にとっては大きな進歩だった。ダメダメだった自分が成長できると分かった事は、紫にとって光明だった。茜には感謝してもしきれない。
それから茜はずっと紫に付きまとっていた。それはもう、本当にべったりと。
それだけ一緒にいれば、親しくなるのは必然と言うものだ。二人の距離は急速に縮まった。
茜はあまり本音を言わない。昔気質の頑固親父みたいに、素直じゃない。自分の事を自分でしないと気が済まないから、人に頼らない。片足の無い生活にまだ慣れていないのに、人の手を借りようとしない。不便を口にしない。全部自分で背負って頑なになっている。
だから冷たくて恐い人だと誤解される。本当は家族を大切にしている優しい人なのに、理解を求めない。あれだけ仕事ができるのに、感情表現は不器用なのだ。紫は、茜のそういう所が可愛らしいな、と思うようになっていた。
だから茜の告白に、迷いなく答えたのだ。
「本当に俺で良いのか、確認しろ。」
真剣な熱のこもった茜の視線が、紫を射抜くようだったのを、今も忘れない。
「茜くんが良い。僕は、茜くんが好きだよ。」
多分、茜は「好き」と言えない。それが愛おしい。
代わりに紫がいくらでも言う。
「好きだよ。」
確認を怠らない茜に、何度でも言う。
◆
在仁たちの北海道旅行の接待に燃える五十嵐は、当然のように茜と紫をこき使った。
ああだこうだところころと気が変わる五十嵐を、茜は「ぶっ殺してやろうか」と呟いて、紫は「まぁまぁ」と窘めた。いつもの事だ。
今日は光胤が来る。その準備は恙なく完了し、茜は最終確認をしていた。
紫はいつも通りに茜を手伝った。茜は杖を持っているので、片手が使えない事が多い。紫は荷物や書類を持ってやったり、代わりにメモをしたり、言われなくても行動する事に慣れている。
茜は足の事や、武士として働いていた頃の事を話すのを避ける。触れられたくないのだ。だから紫も話さない。けれど、昨日はその話題が多かった。その所為か、今日の茜は不機嫌顔だ。
正直、義足を使えば茜の生活は飛躍的に便利になるはずだ。立ったまま両手を使えるだけでもかなり楽になる。けれど、茜は義足が嫌いだ。義足に求める水準が高すぎるのだ。足だと言うならば、武士として実働していた頃と遜色なくあれ。そうでないなら、足などいらない。それは無理難題と言うものだ。紫は茜の偏屈な部分も好きだが、その辺の事は相当こじらせているなと思う。
多分、茜は「武士だった」と言われたく無いのだ。
過去に、したくないのだ。
けれど、昨年の武闘大会では無残な敗退を期した。やはり片足では、無理なのだ。
あの後、茜は更に頑なになった。
「茜くん、座る?」
「いや、いい。もう時間だ。」
憮然とした表情の奥に、本音がある。いつも口にしない、茜の本心が。
◆
時間になり、予定通りに光胤がやってきた。
まず真っ先に茉莉を抱きしめた。キラキラの光が散って、神様の加護がこれでもかと与えられたのが見てとれた。
部屋には、五十嵐と茜と紫が控え、茉莉と在仁の他、晋衡・仁美、智衡・誉、天衡、武衡、青藍、千之助、紅葉。
光胤を囲む会を開こうと待ち構えていた面子だ。だが光胤は先にテーブルを見遣った。テーブルのレイアウトの限界に挑戦したスイーツのてんこ盛りに、光胤は満足げに笑った。
「いいじゃねぇの。」
何様だ、と紫は思った。あ、神様か。
いつもはこっちの都合を無視してスイーツを爆食し始める光胤だが、流石に今日は久々の再会を喜んで、挨拶を優先していた。
順番に声をかけていって…そして在仁を見た瞬間、驚愕の表情になった。
「おいおいおいおい、葛葉か?お前、いつ生まれ変わったんだ?」
ベタベタと在仁に触る光胤に、在仁は迷惑そうに仰け反ったが拒否は出来ないようだった。
「生まれ変わっておりませんが…。」
「いやいや、だって、こんなん完全な聖性の生き物じゃん。なに、これが繚乱なの?凄い美味そう。食って良い?」
「駄目に決まってるでしょ!みったん!」
何だか本当によだれを垂らしそうな光胤を警戒したのか、茉莉が在仁と光胤の間に入り込んだ。
「いや、すまん。だってめっちゃ甘い匂いすんぞ。こりゃあ神々垂涎だ。気付けろよ。油断してっと食われるぞ。」
「何それ?こわ!どゆこと?」
食われる?茉莉が怯えて在仁を抱きしめた。在仁は茉莉を撫でながら言った。
「神々は聖性を愛し過ぎて世の均衡を乱してしまわれたのでございますから、聖性は神々にとってとても好ましいものなのでございましょう。俺がそれと申しますのは、よく分かりませんが。」
在仁が自己分析すると、茉莉が嫌そうに睨んだ。
「在仁は野分を消す為に、清めの力を使い果たして消えちゃったの。それを金霞が助けてくれた。だから聖人になったの。」
「聖人って言わないで。」
それを聞いた光胤は在仁をじっと見てから、茉莉のお腹を見つめた。
「ああ…。だからそっちからも聖性を感じるのか。」
「うん?」
茉莉がお腹を撫でると、光胤が言った。
「聖人の子だからな。聖人なんだろ。」
「聖人とおっしゃらないでください。」
聖人呼びを否定したい在仁を無視して、光胤は茉莉のお腹を見つめ続けていた。
「葛葉、お前子どもできないって言わなかったっけ?」
今回の在仁と茉莉の目的は、光胤に妊娠を報告する事だったが、実際のところ光胤には予め話してあった。直接会って報告したい、そう言ってあったのだが、光胤はその隙を与えずにマイペースに話を進めてしまう。
在仁と茉莉が少々戸惑ってしまったのが見て取れ、紫は神様相手に予定通りにはいかないものだなと実感した。
「ええ…。それが、とある禍人が授けてくださいまして…。」
茉莉は光胤が在仁を食べてしまう事を警戒しているのか、落ち着きなく光胤を見ていた。光胤はそれもスルーして言った。
「禍人?ああ、翡翠姫の子孫か。あれは人の願いを叶えるのが好きな神だって聞いたな。良かったじゃねぇか。」
自己完結してにっこり笑った光胤に、茉莉が首を傾げた。
「何て?」
「禍人ってのは、『夜』と人の冥婚で生まれた亜人だ。大昔にいた翡翠姫と呼ばれる神は、翡翠色の目をした美女で、その大きな力で多くの人々の願いを叶えた。けど、死人を蘇らせる事は出来なかった。だからたった一人愛した人間を、生き返らせる事は出来なかった。それで死者と結婚して子をもうけた。それが禍人だ、って言われる。禍人は翡翠姫の子孫だから、人の願いを叶える力があるらしい。」
「本当の話?」
「知らん。昔話なんか伝言ゲームみたいなもんだ。どっかで狂っても、誰も訂正できん。」
「なれど、そうした伝承がございます故に、人々が翡翠眼を欲したと致しますれば、得心が行きます。翡翠眼は翡翠姫を彷彿とさせる、願いを叶える象徴でございますから。」
禍人たちは、翡翠眼を目的とした人間たちに乱獲されて数を減らした。今では星河山でひっそりと身を隠して暮らしているのだ。そうまで人々を狂わせた翡翠眼の魅力が、願いを叶える力、と言うのは納得のいく事だった。
「確かに、アウラは目を取り戻した事で、力を取り戻したと言ったわ。だから子を授けてくれたんだもの。翡翠眼には、特別な力があるのね。」
茉莉が理解して頷くと、光胤に向かって言った。
「ねぇ、みったん、この子に名前をつけてよ。」
「え?もう?」
「だって、早く呼びたい。赤ちゃん、なんて個体識別のない呼び名じゃなくて、この子の名前を呼びたいの。」
「気が早いな…。分かった、ちょっと考えさしてくれ。」
光胤は考えながら視線を部屋中に泳がせた。すると自然とテーブルの上のスイーツに向かう。
「食べ物は駄目だよ。」
「…はいはい。つか、おかしくねぇか?俺様が名付けの権利持ってんのに、そっちで注文付けるのは、有りなのか?」
光胤が晋衡を見遣ると、晋衡は真顔で言った。
「そりゃあるでしょ。人一人の人生かかってんすよ。」
「…まぁ、そうだけど。」
ぶつくさ言いながら光胤が腕を組むと、千之助がその肩を掴んだ。
「今すぐここで決める必要はないだろ。むしろ、しっかりじっくり考えろ。」
「お…おう、そうだな。」
やっつけで名前を付けるのを回避させた千之助は、そのままぐいぐいとスイーツテーブルへ押しやって座らせた。
目の前にこれだけのスイーツがあって我慢できる光胤ではない。速攻で手を付けて、爆食し始めた。
このテーブルのスイーツは全部が神様へのお供え物なので、誰ともシェアしない。皆は近くの椅子に座って談笑しつつ見守って、子らには別のテーブルにお菓子を用意した。
紫は問題なく過ごせている事を確認しながら茜の様子を伺った。茜の視線は茉莉と在仁へ向いていた。茜は子ども嫌いだが茉莉の事は可愛がっていた。あれだけ可愛ければ、どんな子ども嫌いでも陥落するだろう。実の甥であるあさひには殆ど会った事が無いのに、茉莉には幼少期から愛情を注いでいた。それはあさひが可愛くないからではない。清め人の親族という立場を自覚して、距離を取っていたのだ。茜を利用しようとする悪しき輩を避ける為に、御園ともあさひとも出来るだけ距離を取っていた。大切に思っているからこそ、そうした。だから北海道に来たのだ。その生き方も、不器用に思えて、紫は愛おしいと感じる。
「けほ…。」
穏やかなティーパーティー(食べているのは光胤のみ)の中、突然に在仁が咳き込んだ。
茉莉が慌てて調術したのを見て、光胤がもぐもぐしながら言った。
「あいっかわらず軟弱な野郎だな。ジャスミンに心配かけてんじゃねぇ。」
「申し訳ございません。」
光胤の苦言に、茉莉が庇うように言った。
「今の在仁は、私のつわりも肩代わりしてるから…。」
「つわりぃ?なんだそれ。お前、そういうの繚乱の力で何とかできねぇの?」
もぐもぐ。
光胤は無責任に言いたい事を言っただけだ。だが全員がびっくりした顔をした。
「え?そうじゃん。在仁。共感するくらいなら繚乱で何とかしてよ。」
「…そんな事言われても…。」
「出来ないの?」
「…できる気がしない。そもそも、できる気がする事の方が少ないし。繚乱の力って、どうやって使うの?」
「私に訊かないでよ。」
在仁と茉莉が光胤を見ると、光胤はもぐもぐ…ごっくんしてから言った。
「葛葉なりのルールがあんだろうな。ま、妊婦につわりがあるのは当たり前だ。当たり前の事は、対象外なんじゃねぇの?聖人様が願うのは、世の清浄と正常なんだろ。だったら、汚れや異常が対象なのかもなぁ。」
「聖人様…。」
だから聖人と言うな、という表情の在仁に、茉莉がむっとした。
「でも道白様の病気治したし、色んな人の怪我も治してるじゃん。晦冥教被害者なんかめちゃくちゃ助けてるよね。」
「え~と…、ごめん分からない。自覚してないから。」
困惑する在仁に、茉莉は「使えな」と吐き捨てた。隼人だったら傷付く言葉だが、在仁はへらっと笑ってスルーしていた。使えないのは在仁ではなく繚乱なので、在仁が傷付く由はない。
共感は不調を無くせない。誰かが肩代わりするしかない。だが繚乱ならば消せる。茉莉は在仁が苦しむのが嫌なのだから、繚乱で片付くならばその方が良いのだ。茉莉のみならず皆が一瞬期待したが、当の繚乱は役に立たない。
茉莉が嘆息すると、光胤がどうでも良さそうに言った。
「へぇ、怪我?だったら戦関係の怪我とかなら治せるんじゃね?晋衡の目とか、茜の足とか。」
持っていたフォークで指す光胤に、晋衡と茜がびっくりした。
「や、俺は良いよ。これは俺の戒めだ。戦時中に治せるもんなら有難かったかも知れんが、今更だ。」
さっさと辞退する晋衡から興味が失われると、皆の視線は茜に向かう。
言った光胤はもうスイーツしか目に入っていなくて、茜の足がどうなろうと知った事ではない。
紫は、その神様の身勝手に少し恨めしさを抱いた。
隣に立っている茜を見上げると、その目が動揺していた。
そんな茜を、紫は見た事が無かった。
「治せるのか?」
乾いた声で問うたのは、茜では無く五十嵐だった。紫からは、五十嵐の神妙な横顔が見えた。
カチャカチャとフォークと皿の触れる音が響く中、緊張の空気が在仁に向いていた。
茜の足は鬼にやられた。鬼は本来、存在してはならない。在仁が許せない理不尽による被害だ。明らかに、在仁が救済したい対象者。誰もがその事を理解していた。
紫も、もしかすると治るのではとよぎった。この足が、失われる前と同じように、生えて来るのでは。義足を嫌う茜に、本当の足を与えてくれるのでは。そう、思わずにいられなかった。けれど、もし茜が足を取り戻したら、これまでとは変わる気がした。欠けたところがあるから、その隙間に紫が収まっていた。けれど、もし欠けた部分が無くなれば、紫は必要なくなるのではないか。
紫は不安になって、茜の横顔を凝視した。
問われた在仁は、困惑した口調で答えた。
「…分かりません。なれど、御本人様が、お望みになられるならば、あるいは…。」
茜が望むなら。
望むに決まっている。
紫はそんな当然過ぎる問いは、愚問としか思えなかった。
けれど、茜が言った。
「いや…。今更、足が戻ってもな。」
「え?」
「この歳で、武士に戻れる訳でも無いしな。」
否定を口にする茜に、紫はつい言った。
「何で、足=武士なのさ?足、あった方が良いでしょ。茜くんの生活の為には、絶対に良い事でしょ。」
確かに、足があったって、今から武士に復職できる訳ではない。同級生の晋衡が引退したのだから、現実的に考えて遅すぎる。でも、そんな事は関係なく、足があった方が良いはずだ。杖を必要としなければ、生活は今よりずっと楽になる。
紫は茜の為を思ったら、絶対にその方が良いと思った。例えそれで一緒にいられなくなったとしても。
だが、茜は答えを変えなかった。
「大丈夫だ。俺には、紫がいる。」
「僕は、茜くんの足があってもなくても、茜くんの隣にいるんだよ。そんなの、当たり前だよ。」
意味が分からない。紫が眉を顰めると、茜が少しだけ笑った。
「そうか。当たり前か。」
怪我をして前線を退いて転職しなかったら、茜と紫は出会わなかった。
紫は茜の中にある複雑な本心が渦巻いているような気がした。
過去は変わらない。今に不満はない。けれど、思い残した何かがある。それを、紫では満たせない。
歯痒い気持ちの紫に、茜は優しく言った。
「俺が武士だったのは、もう終わった事だ。」
無理矢理何かに区切りを付けるような言葉は、茜自身を傷付けている気がした。
「茜くん…。」
紫が言葉に出来ない気持ちを詰まらせると、そこに晋衡が大きな声で言った。
「何言ってんだ、茜。お前、いつ武士辞めたんだ?」
あまりにも無遠慮に茜の中に踏み込む言い方は、晋衡らしい攻め方だった。相手の急所を容赦なく突く。相手が嫌がりそうな所を敢えて踏む。その挑発的で不遜な関わり方が、晋衡の関係の詰め方なのかも知れない。
紫は驚いて、茜を見上げた。茜はぽかんとした間抜けな顔をしていた。
「いや、だって俺は怪我で引退して…。」
「馬鹿だな。そんな事で武士辞められる訳ないだろ。武士舐めてんのか?」
馬鹿にした態度の晋衡に、もぐもぐしている光胤が「同感」と頷いた。
「ほら見ろ。神様だって未だに武士辞められてないだろ。いいか、武士ってのはな、簡単に辞められないんだよ。」
紫が見ている内に、茜の目が大きく見開かれて、少し潤んだ。
「在仁なんてな、刀なんかからっきしだぞ。その辺の子どもの方がよっぽど強いわ。その程度の腕で、未だに武士だって言い張ってんだぞ。それと比べたら茜は武士としての地龍貢献実績が山ほどある。よっぽど武士と名乗るに相応しいだろ。」
「そこでどうして俺を貶めるのでございますか?!お父さんが何とおっしゃろうと、俺は武士でございますよ!」
貶されてムキになった在仁が「武士」を主張した。
あの、紫微星様がだ。清め人なのに、武士だと。
神様も、清め人も、武士だと自称する。だったら、茜は何なのか?
「俺は…。」
紫は皆に見えないように、そっと茜の手を握った。そうしたら、思っていたよりもずっと強い力で握り返された。
「茜は武士だろ。今も、これからもずっと。茜が辞めたつもりでも、辞められっこない。」
当然の事をただ当然に言っただけ。そういう気安さで断言した晋衡は、スイーツ爆食中の光胤を辟易した顔で眺めていた。
「そうだな。…多分、そうだ。」
茜が感情を押し殺した声で相槌を打った。だが握ったままの手は、少し震えていた。
◆
結局、茜は足を治さなくて良いと言った。
在仁は特段の追及もせずに受け入れて、他の誰も何も言わなかった。
スイーツ爆食(を見守る)ティータイムは何事も無く終わって、茜と紫は片付けを済ませた。
五十嵐は、今日のディナーは海鮮スペシャルだと張り切ってどこかへ行った。光胤は帰らずに千之助と散歩へ行って、その他の面子も解散した。
残った茜と紫が会場の最終チェックをしていると、開けた窓から入って来た夏風が通り抜けて行った。
紫がふと顔を上げると、茜がぼうっと窓の方を見ていた。
「僕、茜くんは武士に戻りたいのかと思ってた。」
素直に零した本音は、ずっと言えなかった言葉だ。もし肯定されたら、紫と過ごした時間を否定する事になる気がした。だが、茜は足を取り戻さなかった。だから言えた。
「昔の事だ。」
「でも、茜くんは今でも鍛えて…。」
では何故武闘大会に出場したのか。紫が問おうとすると、茜は遮って答えた。
「もう一度、前線に立って戦いたかった訳じゃない。でも、武士でありたかった。その矛盾が、自分でもよく分からなかった。俺はもう、職業としては、武士じゃない。でも、心の中には武士としての自分がいる。それが、醜い執着なら、恥じるべきだと思った。武士相当の強さを証明できれば、武士と名乗って良い気もした。だから武闘大会に出た。だが、通用しなかった。実力は武士に満たない。なら、武士じゃないのか。武士とは、何か。分からなかった。」
分からなかった、は過去形だ。爽やかな風が吹いて、茜の迷いを払拭したように見えた。
「今は?」
「俺は武士だ。それで良い。それが分かって、良かった。それだけで、十分だ。」
欲しかったのは、武士としての承認だろうか。最強を最前線で走って来た武士の中の武士である晋衡が、茜を武士だと認めた。それが、茜に確証を与えた。だから、迷わなくて良くなった。
紫は、武士にしか分からない世界の事だと思った。紫の分からない世界の事だと思った。
少し、寂しかった。
茜が武士として戦っていた時間よりも、紫と共に過ごした時間の方が、ずっと長い。なのに、茜は武士である事に重きを置く。紫が出会う前の、紫の知らない茜に、重きを置く。足のある茜を、紫は知らない。足の有無は、紫にとっての茜の価値を変えない。けれど、武士生命は足と共に絶たれた。その価値を、紫は知らない。知らない事が、寂しい。茜の心の、もっと近くにいたいのに、これ以上は近付けない。それが、悔しい。
「そう。」
紫は何も言えずに、ただ相槌だけを返した。
そうしたら、茜が紫に顔を向けた。茜は照れたように微笑んだ。
「過去は変わらない。足を失ったのは最悪だったが、その後には良い事もあった。」
茜はあまり本心を口にしない。
「紫に、出会えた。」
だから、茜が口にする言葉には重みがある。
「紫、ありがとう。」
一緒にいてくれて。これからも一緒にいてくれて。その感謝が、紫の中にある嫌な感情を溶かした。
茜が選んだのは、変わらない日常だ。これまでと同じように、これからも紫と共にある事。
足の有無は関係ない。武士か否かも関係ない。茜は茜で、だから好きになった。紫は、茜が何を選んでも、離れる気など無い。
その気持ちを、確認するために、紫は伝えた。
「茜くん。僕は茜くんが好きだよ。」
不器用な茜の分まで、素直に言葉にしよう。何度でも確認しよう。そうしたら、今よりも寄り添える。どれだけ歳をとっても、一緒にいられる。
茜が差し出した手を握る。
「好きだよ。」
これからも、ずっと。
五十四歳のおじさんカップルです。




