15 茜の事
茉莉の妊娠を知った時、まず最初に思ったのは、茜自身の加齢だった。
「そりゃ歳も取るわな。」
そのあまりに実感のこもった感想に、紫は面白そうに笑っていた。
紫の屈託のない笑顔が隣にある。それが当然になる程の時間を共にして来た。この事実に、とても感謝を抱いた。
◆
在仁と茉莉が光胤に会いに来ると連絡が来た途端、北海道支局長・五十嵐慶がとんでもないテンションではしゃぎ出した。
前回の北海道旅行でおもてなし担当を外された事を、相当根に持っているらしく、今回は全身全霊を賭しておもてなしするのだと叫んでいた。「是非とも皆さんお誘いあわせの上、お越しください!どうも!」と申し出て、「百人でも二百人でも」と大見栄きったのは、五十嵐のはしゃぎっぷりのパラメーターみたいだった。その内に「五百人でも千人でも」と言い出しそうな程にはしゃいでいる。
良い大人が、と茜は呆れた。
茜はこの変人支局長の秘書たちをまとめる秘書課長である。支局が今の体制で落ち着いてから、ずっとこの変人の世話と言う名の、実質的コントロールをするのが茜の仕事だ。だから扱い方は知っている。放っておけば良いのだ。適当に薪をくべておけば、よく燃える。そういう便利な人なのだ、五十嵐と言う男は。
「で?動物園について行ったのか?あのアホは。」
茜が不機嫌な顔で問うと、紫はいつもの穏やかな笑みで言った。
「送迎してるみたいだよ。」
「んなもん誰かに頼め。」
支局長ともあろう者が、どうして運転手を買って出るのだ。
紫微星様ご一行は、なかなかの大人数で来たものの、それぞれに過ごす意向らしく、別段ツアコンを求めてはいなかった。けれど五十嵐はあの手この手で気を引こうと色々な観光を提案していた。結局その中で子どもたちを動物園に連れて行くと言う案が採用されたようだ。
それは良いのだが、茜と紫が在仁たちを訪ねた朝九時には、もう既に五十嵐の観光バスが出発した後だった。朝早すぎる。張り切り過ぎて、子どもみたいだ。大丈夫か、おっさん。
張り切りまくった五十嵐は、奥州からのバスの手配や飛行機のチャーターなど全部を受け持った。この宿泊ホテルは、前回の在仁と茉莉の北海道旅行でも使った、五十嵐の持ち物だ。同じホテルを使うのは芸が無いと言っていた五十嵐を、茜が何とか誘導してこのホテルにさせた。五十嵐は他にも宿泊施設を所有しているが、ここは特に利便性が良いのだ。静かで落ち着いた立地なので、紫微星様の宿泊に都合が良い。
そう言えば、動物園を貸し切るとか言っていたが、どうしたんだったか。茜は五十嵐の暴走を放置し過ぎたかとよぎった。
「アイツの故郷愛は半端ないからなぁ。」
どうでも良さそうに言ったのは晋衡だった。
見れば、ホテルの広間には動物園へ行かなった大人たちが集まっていた。在仁、茉莉、晋衡、仁美、青藍、惟継、葦鶴、逢初、東、夜鷹、千之助。メイド姿のスタッフが淹れたお茶を飲みながら優雅に座っている面々に、茜と紫が加わってもさして違和感のない大人組だ。
「五十嵐支局長様は北海道の御出身なのでございますか?」
在仁が問うと、茜はお茶を一口。そして答えた。
「ああ、支局立ち上げで現地の地龍はまるごと支局に吸収された。その中でトップだったのは、五十嵐さんだった。そんでそのまま支局長になった。」
北海道は古くから統治していた蠣崎家が滅んでから、独立統治体制となった。その際に、元々北海道にいた地龍の民は全員、支局所属扱いとなったのだ。統治者不在により荒れていた北海道で、ゼロから新しい体制を築き上げる事は大変な事だった。全国各地から優秀な者が集められる中でも、やはり地元民の情熱は必要不可欠だった。何とか北海道を立て直そう、より良い体制にしよう、そういう不屈の熱量が無かったら、今日の姿はあり得なかった。その最前線を牽引してきたのは、間違いなくあの「どうもおじさん」なのだ。
皆からの信頼と敬愛を集める間違いのないトップなのだが、茜は口にするつもりはない。調子に乗るとウザいからだ。
「仕事は出来るが、ああいう人だ。迷惑だったら言ってくれ。こっちでどうにかする。」
茜が在仁に言うと、在仁は困ったような笑みでやんわり小首を傾げた。その仕草が高貴な御令嬢みたいで、茜には浮世離れして見えた。
ずっとそうだ。茜が初めて会った時から、在仁は不思議な空気を纏っていた。在仁の周りだけ、やけに澄んでいる。最初は地味だったので気のせいかと思った。けれど、いつの間にか在仁は清め人となっていて、世を終戦に導いた。今では一目で特別だと分かる空気を持っている。
流石は茉莉が選んだ男だ。
だが、不健康なのはよろしくない。
「何だか顔色が悪いな。大丈夫か?」
相変わらず透けそうな肌をして、消えてしまいそうだ。茜が問うと、茉莉は眉間にしわを寄せて言った。
「共感する所為ですよ。私のつわりを肩代わりしてるから。自発的に共感能力を使った分の負担もあるから、更に体調が悪くなるんです。なのにやせ我慢して平気なフリするから…。」
「ああ…。」
共感体質者というのは他者の負を肩代わりしたがる難儀な生き物らしい。己が身を犠牲にしたがる在仁に似合いの、傍迷惑な超能力だなと、茜は思ったが口にはしない。口は禍の元だ。
「妻子への愛情表現はそれぞれだな。」
雑に言ってから、茜はその話を流した。無関係な立場から言える事など無い。在仁を大切にしている仲間たちに火に油を注ぐ話題は面倒の種だ。そっとしておくに限る。
そうするのは、茜自身がそっとしておいて欲しいタイプだからだ。
他人に、あまり踏み込まれたくない。
何故、北海道に来たの?
何故、片足が無いの?
何故、結婚しないの?
何故、男と付き合っているの?
何故、何故、何故。問われる項目が多いのは自覚する。だが、問わないで頂きたい。隠す程の事でもないが、いちいち説明してやる義理は無い。アンタには関係ないだろ、そっとしておいてくれ。そう言ってしまいそうになる。
とは言え、目の前の晋衡は茜の事情をすべて知っているのだから、警戒しても仕方がない。
「晋衡。お前、その歳で引退して何してるんだ?まさか隠居とか言わないよな?」
同じ歳で、同じ鎌倉育ちで、特段仲良くも無いが、互いがどう過ごしていたのか経歴くらいは知っている。関係に名を付けるなら、同級生、とでも言っておくか。
隻眼を隠しもせず、ラフなTシャツ姿なのは、何だか物凄く久しぶりに見た気がした。大隊長という肩書を下ろして、ただの男になった。そこには、過去の悲壮の欠片も見えない。良い歳の取り方をしたのだろう。
「一応、道場を持たせて貰ったんだよ。子どもたちを教えながら、遊んで暮らしてる。」
「ばっか、お前、それは早いだろ。まだ若いんだから働け。」
重大隊長だった男ならば、人はそれを隠居と呼ぶのだろう。茜は同級生の早々の現役引退を受け入れる気にはならない。だって茜はまだまだあの「どうもおじさん」の世話をしないといけないのだ。こっちがあくせく働いているのに、そっちは華々しい早期退職だなんて、羨ましいでは無いか。
まぁ、晋衡は立ち止まれない性格だから、実際の所は遊んで暮らしてなどいないと想像がつくが。コイツが道場で子どもを育てると言うならば、将来はとんでもない化け物クラスの武士が爆誕する気しかしない。だってコイツが今まで育てて来た者たちは、地龍最高峰レベルの武士になった。特に蘇芳と茉莉は別格だ。この実績をして、遊びだなどと、甚だ馬鹿にしている。
もちろんそんな本音は言わないが。
複雑な気持ちでいると、晋衡は茜の気持ちなど全く分からない気安い態度で言った。
「茜の方はどうなん?去年は武闘大会に出るって言ってたけど、勝ち上がって来なかったじゃん?結局出たんか?」
グサっと刺さる事をさらっと言われて、茜は顔を歪めた。晋衡は相手の嫌な事を敢えて言う悪癖があると思う。否、出会い頭に人を挑発する悪癖か。だから嫌われるのだ。引退しても、血の気が多いのは変わらずか。ぐぬぬ…。
何も答えない茜の代わりに、紫が言い難そうに答えた。
「出場はしました。一応本戦まで勝ち上がったんですが、下位で敗退したんです。」
「義足が悪いんだ。」
思わず、紫が言い終わる前に言い訳をしてしまった。
茜は最前線の武士だったが、鬼との戦闘で片足を失って引退し、文官資格を使って事務方へ転職した。かつて七口守護となると言われた実力者だったが、あっさりと将来を断たれた。敗北の無念は全部、妹・御園の旦那・傑に託したつもりだ。傑は終戦まで鬼狩隊で鬼を斬り続けた。それで茜の恨みは晴らされた。
けれど、武士への、刀への未練は捨てきれていない。心には今も刀がある。武士たる自負がある。
前線を退いてから既に二十六年経った。体は鍛えていたが、武闘大会では通用しなかった。もう誰も茜を武士とは思うまい。
「義足?んなもん持ってたのか。」
「一応、ある。合わないから、普段はしないだけだ。」
茜はいつも杖を持っていて、義足は付けていない。義足を慣らしていれば杖はいらないし、一見隻脚とは気付かれないだろう。けれど、義足は好きではない。
「普段から慣らさないで、戦闘時だけってのは無理があるな。」
晋衡の意見は御尤も。慣れない装備は実戦では使えない。そんな事は分かっている。
「義足は、術力強化すると硬くなる。あれでは踏み込みが悪い。滑る。」
むっつりした憮然顔で言うと、皆が異様な目を向けていた。
「なんだ?」
「いや。義足を術力強化する意味が分からん。」
晋衡が首を傾げたのは、何だか嫌な感じだった。理解されない。最強の武士に理解されないと言う事が、茜が武士として間違っているような、否、茜を武士と思われていないような気がした。
子どもの頃は茜の方が強かったのに、この同級生はいつの間にか最強の部隊を率いる最強の武士になっていた。その事に嫉妬しなかった訳ではない。失った足を見ると、嫉妬する資格が無いと思い知って、無念だけが残る。
「茜くんは理想が高いから。」
隣で紫がフォローだか何だか分からないコメントをしていた。
茜がその言葉の行先を追って視線を向けると、在仁が闇色の瞳で茜を見ているのと目が合った。
その瞳に清き光が射しているのを見ると、隠している本心を暴かれるような気がして、思わず目を逸らした。
◆
部隊を辞め、文官として出仕してから、紫と出会った。
あの頃の茜は、今よりも頑なで意地っ張りだった。自分で決めた道を、一度決めた事を、曲げてはならないと思い込んでいた。その頑固な心に、するっと入って来たのが、紫だった。
まさか自分が男に懸想するなんて、紫に出会うまでは考えてもみなかった。
あれから二十五年。まさか、こんなにも長く一緒にいるなんて、出会った当初は思いも寄らなかった。
「五十嵐さん、大丈夫かなぁ。子どもたちに迷惑かけてないと良いけど。」
「あれでも大人だ。何とかなるだろ。それより俺たちはこっちの接待と、明日の手配だ。」
五十嵐が動物園へ行ってしまった以上、ホテルに残っている大人たちの担当は茜と紫だ。こちらには在仁がいるので、不足の無いようにせねばならない。デリカシーとか常識に信用のおけない五十嵐には任せられない仕事だ。あの「どうもおじさん」は自分の物差しでしか生きられない。自分が良いと思った事が、相手にとっても良い事だと、信じて疑わない所がある。だからいつも押しつけがましい。だが、悪い人間ではないので憎めない。面倒くさい人だ。
とは言え、こっちの接待はそう大変ではない。茉莉と在仁が休養をメインとしていて、残っている大人はそれに付き合っているので穏やかだ。何もする気が無いので、接待と言う程する事が無い。だから過剰にもてなさず、不足が無いようにするだけで良い。
それよりも、だ。明日は光胤が来る。その為の準備は万全にせねばならない。茜と紫はスタッフと打ち合わせしてから、会場を確認した。
「明日はスイーツ地獄か。光胤様、満足してくれるかなぁ。」
「知らん。あれだけ用意して駄目なら、もうお手上げだ」
明日は広い会場の馬鹿でかいテーブルに、溢れかえる程のスイーツを並べる。いつも光胤はそれを綺麗に平らげる。とんでもない爆食の神である。ただ、生霊神はこの北の地に必要な神であるから、あのスイーツで何とかなるなら易いものなのかも知れない。見ているこちらは、胃もたれ必至の地獄だが。
紫を見遣れば、用意するスイーツのリストをチェックしていた。
その横顔を眺めていたら、出会った頃を思い出した。
最初の印象は、どんくさい、だった。落ち着きが無くて、一人でワタワタして、効率が悪くて、見ているだけで苛ついた。なんでこんな奴が地龍本家の事務職に採用されたんだ、と人事に疑問を持ったくらいだ。文官資格はあれど実務経験の無い茜の方が余程仕事が出来た事を、勤務年数が先輩である紫は気にした様子も無くて、邪念の無さがまた鼻に付いた。少しは嫉妬したりした方が、反骨精神が育って仕事もできるようになるだろうに。紫には競争心の欠片もなくて、これは成長する見込みの無い凡愚だと呆れたものだ。
だが同じ職場にいる以上、視界に入り続けるものだから、茜は見るに見かねて手助けせざるを得なかった。放置すると仕事の皺寄せを被る。それを避けようとしただけだ。言っておくが、ツンデレではない。マジで仕方なかっただけだ。
そうしている内に気付いたのは、紫が天性のドジっ子属性だと言う事だ。何故そこで転ぶ?何故そこでぶつかる?何故そこで眼鏡が落ちる?意味不明な現象が立て続いて、コイツは呪われているのではなかろうかと疑ったくらいだ。ようは紫の不注意の自損事故であるから、周囲には頭ごなしに怒られる事も多かった。茜はそれに付き合っている内に、少しずつ紫に同情するようになった。
紫はドジだが、頑張っているし、真面目だし、誠実だ。そう思うようになったら、もう馬鹿になんか出来なかった。
危なっかしい紫を護るのは自分だ、といつの間にか思うようになっていた。その頃にはもう好きだった。
独占欲が膨らむ中、紫がモテる事に気が付いた。見た目は眼鏡のひょろっとしたオタクみたいな感じだが、いつも笑顔で穏やかで、誰にでも優しいし、ドジは実害がなければ可愛らしい特性だ。困っているのは庇護欲をそそるし、つい助けたくなる。これはドジっ子属性と言うより、ヒロイン属性ではなかろうか。コイツは天性のタラシだ。
茜の脳内アラートが点滅したので、速攻で告白した。そのまま力技で自分のものにした。それはかなり強引で、少々犯罪っぽかったかも知れないが、当時の茜は大分必死だったので、冷静さは無かった。
そのままずっと、今もこうして一緒にいる。紫はどうして茜を受け入れたのか、未だに謎だ。選ぶ権利は紫にあったと思うけれど、選ぶ相手は沢山いたと思うけれど、今一緒にいるのは茜だ。
茜は過去を振り返る時、ターニングポイントを意識する。こうして紫と一緒にいられるのは、転職したからだ。怪我をして刀を置かなかったら、紫には出会っていない。
それは間違いのない事実だった。
「なんか、ドジらなくなったよな。」
落ち着いてリストを確認し終えた紫に、茜は感心したように言った。
「そりゃあ、僕だって成長するよ。茜くんに鍛えられたしね。」
「そうか?俺は守ってるつもりだったけど。」
紫のドジは天性で、それをどうこうする事は出来ないと思っていた。だから茜は紫をどうにかするより、周囲の理解を求めた。紫を守るために。
「いや…だって茜くん。僕がやらかす度に、僕を怒りたい周りを威嚇してたじゃない?その所為で、僕が悪いのに、誰も僕に注意一つできなかった。あれは酷かったよ。流石に僕も必死に失敗しないようになるってものだよ。」
「紫は悪くない。紫のドジは先天性の呪いだ。」
「ええ?あはは、じゃあ、茜くんはその呪いを解いてくれたんだね。」
茜は武士からの転職で、事務方にそんな珍しい人はそうそういない。変人が集う北海道でもそれは同じだった。しかも茜は高位の武士だった。その茜の圧はとんでもない。ちょっと凄むと皆怯えた。「俺の紫に手出すなよ」と睨まれたら、誰も紫に寄り付くはずがない。
茜もそれは分かっているのだが、紫の事となると歯止めがきかない。
「何だか、王子様みたいだねぇ。茜くんは。」
嬉しそうに笑いかけて来る紫を見ると、茜は「このヒロイン属性め」と思ったが言わなかった。
◆
夕方になって、子どもたちが動物園から帰って来た。
五十嵐観光バスが事故も無く戻った事に、とりあえず安堵した。
夕食は豪華フルコースで、と発注したのは五十嵐だったが、実際に采配をするのは茜と紫だった。
戻った動物園組には、子どもたちの他に、智衡・誉、佐長・真赭、稔元・恵、真珠と君崇、要と胡桃と露、紅葉、誠太郎。なかなか身分のお高い面子であるから、紫微星様の同行者としてひとまとめにして適当には出来ない。
今回の旅行の責任者は五十嵐であるから、「お前がしっかりしろ」と思う茜だが、暴走を放置すると碌な事にならないので、手綱はしっかりと握っておくつもりだ。
夕食前の空いた時間を持て余した子どもたちは、こぞって廊下を駆けていた。元気な事だ。
「子どもにフルコースとか生意気じゃないか?」
茜は何だかなと思って呟いた。見れば、紫が子らに囲まれていた。
誰にでも好かれるのも、紫のヒロイン属性たる宿命だな。他人事のように眺めていたら、月出の目が茜を捕らえた。
嫌な予感がした。茜は子どもが苦手なのだ。
「足、ない。」
「ほんとうだ。おじさんの足ない。」
ああ、やはり。子どもは純粋だ。善悪の区別なく、あるがままに純粋だ。だから当然のように、茜の元へやって来て問うのだ。
「どうして足ないの?」
片足の入っていないペラペラのズボンの裾を掴んで問う月出と天衡、そしてついて来た武衡とましろの、悪意の無い視線に、茜は物凄く嫌だなと思った。
「鬼に喰われたんだ。」
雑に答えると、子どもたちはびっくりして目をまんまるにした。鬼を知らない世代に、茜は時の流れを痛感した。茜が戦っていたのは、自然発生した『夜』ではない。人工的に生み出された悪だ。もう二度と、繰り返してはならない。だから、鬼を知らない事が、正しい。これで良い。そう思う気持ちに嘘はないが、茜が失った武士としての人生が、まだどこか宙ぶらりんになっている気がして、何となく所在なかった。
見下ろすと、天衡の手が杖に触れた。その小さな手が何かを確かめるように杖を撫でた。茜の杖は、中身が刀だ。隠している刃に気付かれた気がして、そっと天衡の手から杖を離すと、天衡が見上げた。
「おじさん、武士だったの?」
武士だった。その言葉は、茜が一番言われたくない言葉だ。だった、と過去形にされると、否応なく傷付く。
何も答えられずにいると、紫が柔らかく言った。
「そうだよ。茜くんはとっても強いんだよ。」
紫に、武士に対する未練を漏らした事はない。隠してはいないが、口にしない。上手く言葉に出来る気がしない。今更武士に戻りたい訳でも無く、転職したから紫と出会えた。全部を否定したいのとは違う。茜自身が何を求めているのか、はっきりとは分からなかったから、何も言うべき事が無かったのだ。
けれどきっと紫は察している。これだけ長く一緒にいれば、言わずと分かるものもあろう。
「足、ないのに。」
不思議そうな月出の呟きが、茜の耳の奥に残った。
そう。もう足はないのに。武士ではないのに。
◆
夕食が終わってから、皆で天体観測をする事になった。
ホテルの庭は絶好の星見スポットだ。
子どもたちは面白そうに夜空を見上げていて、松葉が星座を教えていた。
茜は、松葉を誰だこいつ?と思った。昼間は全く見かけなかったし、動物園組にもいなかったのに、夕食になったら現れたのだ。青藍の弟子だと聞いたが、相当な変人なのは間違いない。面倒くさそうな気配しかしないので、近寄らない方が良いだろう。茜は間違って紫が接触しないように注意深く見ていた。
隣で夜空を見上げている紫は、何の警戒心も無い。
「谷口さんたち、来られなくて残念だったね。」
「え?ああ、アイツらは例の街づくりで忙しいんだろ。」
「そうだね。街をつくるんだもんね。」
在仁の故郷で新しい自治体づくりをしているニックたちは、この旅行には不参加だ。茜は噂の昴宿を見てみたい気がしていたので、少々残念だ。だが、会ったからってどうする訳でも無い。まさか手合わせする訳でもあるまいし。
茜はそういう時、自分がどうしたいのか分からない。分からない事に対処できない。だから目を逸らしておくしかない。
「葛葉が心配だ。もう休ませよう。」
「うん。夕食も殆ど食べてないしね。茉莉ちゃんも妊婦さんだし、夜風で冷えるといけない。」
こういう時は仕事に限る。
在仁の食欲が減退したのは、五十嵐がやかましい所為かも知れない。明日は置いて来ようか。そう思いながら、茜は紫と一緒に在仁と茉莉の元へ向かったのだった。




