14 露の事2
あれだけ言い含められたら、誰だって緊張するのではなかろうか。
北海道旅行の当日、露はドキドキし過ぎて強張った顔をしていた。
要に手を引かれて向かったのは、旅行参加者の集合場所である奥州藤原氏本家で、そこから全員でバスに乗って空港へ移動し、飛行機で北海道へ行き、再びバスに乗って宿泊地へ移動する。
こうした集団行動は小学校の行事でしか経験が無く、しかも飛行機は人生初体験だ。
何から何まで緊張要素で、露は要とはぐれないようにせねばと思った。
集合場所に着いてみると、特段の挨拶も説明も無く、各々やって来た者たちがバスに荷物を積み込んでいる。案の定ではあるが、知らない人ばかり。そして想像よりも人数が多い。アウェイを覚悟していた露だが、現実を見ると少し恐く感じた。この旅行に家族は同行していない。世話役もいない。要は露の世話役ではない。自覚せねば。
その緊張の背に、柔らかな声が届いた。
「おはようございます。露様、ようこそお越しくださいましたね。是非とも楽しい旅行に致しましょうね。」
「紫微星様!おはようございます。」
やってきた紫微星様に、露は慌てて挨拶をした。
「あの、紫微星様。私、我儘を申し上げて、ごめんなさい。ご迷惑ではございませんでしたか?」
「いいえ。俺は全く気にしておりませんよ。ご一緒くださる御方が増えました事は、賑やかで嬉しゅうございます。」
朗らかな笑みで答えた紫微星様に、露はほっとした。
私服だ…、内心で普段着の紫微星様にトキメキながら、露自身の本日のおめかしコーデを見下ろした。お気に入りの夏らしいワンピースを、可愛いと思って貰いたい、と言うのは乙女心である。
そこへ、紫微星様の後ろからのんびりとした足取りで茉莉がやってきた。
「おはよう。露ちゃん。」
「おはようございます、茉莉様。どうぞ、よろしくお願いいたします。」
ゆるっとしたヘアスタイルに、薄いスウェットワンピは部屋着みたいなのに、茉莉が着ると外行きのおしゃれに見えた。本物の美人と言うのは、着る物を選ばないのだろう。弘法筆を選ばずと言うのだし。露は茉莉を前にしては、美醜や着こなしを語る事は愚かに思えた。
「露ちゃん、今日も可愛いねぇ。お父さんとお母さん一緒じゃないなんて、凄いねぇ。しっかりしてるなぁ。」
のんびりとした口調で勝手に露の頭をなでなでする茉莉に、露は何だか照れてしまった。普段の露は子ども扱いされるのは好まない。けれど甘えたい気持ちもある。美女に愛でられる優越を抱きつつ、素直に撫でて貰った。
ソワソワしていると、誰かが「時間になる。バスに乗れ。」と乱暴に言った。そうしたら皆でバスに乗り込む波が出来て、露は慌てて流れに乗った。茉莉と紫微星様の後ろに並ぶと、ちゃんと要が後ろにいて安心した。やはり一人はきつい。元より要がいるから強気で参加するなんて言えたのだ。結局のところ、最初から要頼みなのだ。
バスに乗ると、席を選びながら紫微星様が茉莉に言った。
「茉莉、冷房で体冷やさないでよ。ひざ掛け持って来たから…。」
「はいはい。あ、露ちゃん、在仁の隣に座りなよ。」
「え?」
面倒くさそうに返事をした茉莉に促されて、露はいつの間にか紫微星様の隣に座っていた。
「え?」
◆
「露様、本日の御召し物、とてもお可愛らしゅうございますね。」
「あ、ありがとうございます。」
まさか紫微星様の隣に座れるなんて。
露は嬉しいが、カチンコチンになった。
「紫微星様。茉莉様のお隣じゃなくて、よろしいのでしょうか?」
「ええ。露様こそ、俺でよろしゅうございますか?」
「も、もちろんです。露、紫微星様とご一緒したいです。」
「それは嬉しゅうございます。」
通路を挟んだ反対の席には、窓際に茉莉、通路側に要が並んで座っていた。茉莉が急に言い出した所為で、ペアが交代してしまったのだ。要は露に微笑みを向けていて、特に気にした様子ではない。露が要の向こうの茉莉を気遣うように見ると、茉莉はだるそうに座席を倒して窓の外を見て言った。
「在仁が隣にいると、共感される。露ちゃんは防波堤だよ。露ちゃん、ありがとう。」
「え、と…。」
その「ありがとう」にはどう答えて良いのか不明だ。空気の読める露だが、この状況は読めないので曖昧に笑っておいた。
大人の中に馴染もうと無理に愛想笑いを浮かべる露を不憫に思ったのか、紫微星様がそっと説明した。
「茉莉のお腹には赤ちゃんがいるのでございますよ。その影響で、体調が優れないのでございます。それを俺が肩代わりする事を、茉莉は受け入れてくれないのでございます。ですから隣に座らせてもくれないのでございます。」
「え?」
露は茉莉に「おめでとうございます」と言うべきと思ったが、それよりも先に驚きが口から零れ出た。
「肩代わりとは、何ですか?」
「ああ、俺は特殊体質でございまして、他人の負を肩代わり出来るのでございますよ。」
なんて?露が耳を疑った時、要の後ろの席から胡桃が咎めた。
「紫微星様。共感体質の事を軽々しくお話しにならないでください。」
「公式情報ではございませんでしたっけ?」
「ございません!共感体質も繚乱の奇跡も、全部非公式情報です!すっとぼけてボケかまさないでくださいよ!」
叱られた紫微星様は、どうでも良さそうにへらっと笑っていて、露は意外だった。怒られる事も、怒られても意に介さない事も。
「大丈夫です、私、言いませんから。」
露は誓うように言った。旅行で知り得た情報をみだりに口にしてはならない、と万葉に言われている。早速にヤバそうな情報が出て来て、おりこうな露はこういう事だなと理解した。
けれど、露のしっかりした態度に、周囲の大人は皆で目を見開いて驚いていた。
「うわぁ。噂に違わぬしっかり者ですねぇ。本当に七歳ですか?」
「露様はとても良い子なので。」
驚く胡桃に、要が自慢げに笑った。露はそれが嬉しくてはにかんだ。
そうしたら、バスの中は一気に賑やかになった。
「私の七歳の時と違い過ぎるんだけど。」
「茉莉の七歳なんか、何も考えないで、ただ刀ぶん回してただけだろ。」
「それは今と変わらないわねぇ。」
「七歳で?それはそれである意味凄い。」
「恐ろしい英才教育だが、結果を見れば失敗だ。絶対に真似したらいかん。」
「誰が失敗してんのよ。私これでも最強ですけど。失敗はお兄ちゃんでしょ。」
「お兄ちゃんもこれでも最強ですけど。」
ぎゃんぎゃん言い合っている騒がしさは、露の日常にはないものだ。新鮮なそれを面白がっていると、隣で紫微星様が言った。
「賑やかでございますね。」
「ええ、楽しゅうございます。」
「それはようございました。」
見上げると、憧れの紫微星様の笑顔。特等席の眼福に、心臓はバクバクだった。
◆
飛行機に乗り換えても、皆がバスの席と同じような席順で座っていた。
茉莉は要と言う丁度良い介助人をゲットして快適に過ごしていて、露は紫微星様を独占だ。
紫微星様は露を退屈させまいとしているのか、ゆったりとしたテンポで雑談を交わしていた。露は段々それが申し訳ない気がして来た。はじめは浮かれていて気付かなかったが、見上げる紫微星様の肌は透けそうに白くて、どこか元気がなさそう。
「紫微星様、お休みになられますか?」
周囲には寝ている人もいる。紫微星様も露がいなかったら移動時間を休めたのではなかろうか。
「お気遣い、ありがとうございます。大丈夫でございますよ。」
「でも…。」
体調が悪いのでは、と問おうとすると、茉莉が答えを放り投げた。
「恒例の夏バテなの。」
「夏バテ…とは何でしょうか?」
初めて聞いた言葉だ。露が首を傾げると、要と胡桃が言った。
「夏の暑さで体が弱っちゃうんですよ。」
「食欲がなくなったり、だるくなったりするようですよ。」
「ふぅん…。紫微星様は夏が不得意なのですね。」
御労しい。露は夏の暑さで体調を崩した事が無いので、それは大変か弱い事だと思った。基本的に地龍の人間の体は頑健なので、露の感想は一般的である。
「情けない事でございますが、術力器官をやってから、更に温度変化に弱くなりました。暑いのも、寒いのも、体に堪えるのでございますよ。ですから此度の北海道行きは避暑を兼ねて、丁度良いものとなりました。」
「避暑?紫微星様は北海道へ遊びに行かれるのではないのですか?」
旅行とは、つまりは遊びに行く事では?露が問うと、在仁は優しく言った。
「ええ。皆様はそうでございましょう。俺と茉莉の目的は、神様に御目通りさせて頂く事なのでございますよ。」
「神様に?」
「北海道におわします生霊神様に、子が出来ました事を報告させて頂くのでございます。」
地龍にとって『昼』とは地龍以外の人間を指し、『夜』とは人外を指す。『夜』の中には神や妖怪や幽霊や悪魔や様々なカテゴリーのものがいる。露もそういう事は知っているのだが、神様に会いに行くと言う目的は不思議な色をして聞こえた。
不思議そうに在仁の方を見ていた露に、茉莉が言った。
「ついでに名前を付けて貰おうと思ってるんだよ。」
「お名前を?ですが、まだ生まれていません。」
「そうだけど、名前があった方が呼べるし。」
お腹を撫でる茉莉は嬉しそうに笑っていた。それを見た露はまだ膨らみを見て取れない茉莉のお腹に、本当に命があるのだと感じた。
「私の名前もその神様に付けて貰ったんだよ。お兄ちゃんも、天ちゃんも、武ちゃんも。私のお父さんの子孫はみんな、その神様に名前を付けて貰うの。そういう約束なんだってさ。」
「何か、凄いですね。」
語彙力が足りず、そうとしか言えなかったのは、まだ七歳である所為ではない。露は神様に名付けをされる一族って何ぞ?と思った。
「ね。約束の事は、私もよく分からないんだよね。でもね、神様って言っても、甘い物が大好きな面白い神様だよ。」
神様に面白いも何もあるのだろうか。神とは格の事であり、善悪も信仰の有無も関係がない。だからこそ露は更に不思議だ。
「そう言えば、露ちゃんの名前は誰がつけたの?可愛い名前だよねぇ。」
「おじいさまがつけてくださったと聞きました。」
「頼経様が?」
紫微星様が露を見下ろしてから、要の方を見た。
「要様のお名前も、頼経様が付けられたと伺いました。」
「そうです。私も、頼経様からお名前を頂きました。」
「つまり、露様と要様は同じ名付け親を持たれるのでございますね。」
露は指摘されて初めて気付いた。要を見ると、嬉しそうに笑っていた。それがとても嬉しかった。
「同じ名付け親…同じ親と、聞こえます。露にとって要は家族ですから、とても嬉しいです。」
「まぁ、私は頼優様よりも年上なので、家族と言っても叔父とか、そういう感じでしょうか。」
同じ親と言うと兄妹になってしまうが、歳の差は親子だ。要が肩をすくめたが、露にとっては兄の方が似合うと思った。
「紫微星様とご一緒ですと、新しい発見があります。」
今まで知っていた事の別の視点が見つかると、全然違う事を見付ける。
露はそれが新鮮で、とても面白かった。
「それはようございますね。」
そう言った紫微星様は、何でも知っている先生みたいで、露はもっとたくさんの事を教えてもらいたいと思った。
◆
長距離移動を経て漸く辿り着いた宿泊場所は、お城みたいな大きなホテルだった。
出迎えたのは執事とかメイドとか、見た事の無い趣のスタッフで、映画の中に飛び込んだような世界観。
その一番前で元気に出迎えた人は、今回の旅行の責任者だと名乗った。バスも飛行機もホテルも、全部その人が手配したのだとか。
「やぁ!やぁ!よくお越しくださいました、どうも!お待ちしておりましたよ!どうも、どうも!今回は沢山のお客様にお越しいただいて、おもてなし甲斐がありますね!どうも!」
脈絡のない「どうも」を繰り返す変な男を、露は不気味だと思った。男は紫微星様と話していてこちらを向かなかったが、目を合わせる勇気が無くて、何となく要の陰に隠れてやり過ごした。
よく分からない挨拶が終わった後、「どうもおじさん」が案内をして、それぞれの部屋に向かった。ホテルは貸し切りで部屋はあり余り、どこでも好きな部屋を使って良いとの事で、皆は楽しそうに客室の方へ向かって行った。
一緒に来た子どもは、天衡・武衡・月出・ましろ。全員が両親と一緒で、部屋も当然家族で宿泊するようだ。露はその家族の背を見送ってから、要を見上げた。要は家族も同然だが、実際は違う。異性だし、同室と言う訳にはいかない。家族を見てしまうと、一人部屋に泊るのは少し心細いと思った。
「露、紫微星様のお近くが良いわ。」
せめて。そっと、我儘にならないように言うと、要の隣にいた胡桃がひょこっと顔を向けて来た。
「では私と一緒のお部屋になさいませんか?紫微星様のお隣のお部屋ですよ。もちろん、露様がお嫌でなければ。」
「良いのですか?是非お願いします!」
救世主か!食い気味に胡桃の提案に乗ると、要が笑った。
「私も隣の部屋に致します。何かありましたらお声かけくださいね。」
「分かったわ。」
露は胡桃と要の間に入って客室へ向かった。前を歩く紫微星様と茉莉は、二人してだるそうなゆっくりとした足取りだった。
◆
客室はモダンな設えで、露にとって未体験の雰囲気だった。荷物を運んで貰うと、胡桃と一緒に部屋の中を確かめた。
「トイレはここ、お風呂もありますね。お風呂の使い方、入る時にお教えしますね。」
「ありがとうございます。」
「お風呂と言えば、この近くに豪華な温泉施設があるんですって。宿泊期間中に是非とも行きたいのですが、露様もいかかですか?」
「胡桃様がよろしければ、是非ご一緒させてください。」
胡桃は背が低くて全体的に小柄なので、大人の圧が無い。気さくで優しくて、過度に気遣っている風でも無く気にかけてくれるので、とても安心できた。要とも仲良しで、道中もずっと近くにいた。胡桃と一緒にいる事で、要と離れる事も無く、それも安心した。
ほっとしつつも、あまりにも露に都合の良い事ばかりなので、少し違和感もあった。なりゆきで同室になったみたいに見えたが、もしかすると最初から露の為に考えていたのかも知れない。大人はそういうのを隠すのが上手いから。
「あ、要様ですよ。」
気付くと胡桃が扉を開けていて、廊下には要が立っていた。
「紫微星様の所へ参りますか?」
「ええ。そうしましょう。」
当たり前みたいに二人が紫微星様の部屋に向かうのは、分り合っているように見えた。胡桃といる時の要は、露の知っている要とは少し違う。優しいけれど、露に対するよりも体温が高い気がした。
「露様、参りましょう。」
露を呼ぶ要はいつもの要だった。何でも許してくれる、甘々の要。露は、要の態度の違いが何なのか、よく分からなかった。
◆
紫微星様と茉莉の客室は特別豪華だった。広くて、王様の部屋みたいだった。
開け放ったバルコニーの扉から爽やかな風が入って、レースのカーテンを揺らしているのは、夏ソングのミュージックビデオのワンシーンに似ていた。
大きな天蓋付きのベッドには、既に茉莉が横になっているのが見えた。スリーピングビューティー、そう思った。
荷解きをする紫微星様の隣には紅葉が手伝っていて、ソファには青藍が座っていた。
要と胡桃はすぐにミニキッチンの方へ向かって行き、お茶の用意を始めた。露は邪魔にならないようにソファに座った。
部屋の空気はまったりしていて、誰も出かけるつもりがないのが分かった。その理由は多分、茉莉が寝ているからだ。
「茉莉様は大丈夫でしょうか?」
近くに座っている青藍にそうっと問うと、青藍は茉莉の方を少し見てから言った。
「妊婦にとってつわりは避けて通れない。致し方ない事だ。」
その言い方が、よく知っている事のようだった。
そこへ、紫微星様がやって来て露の隣に座った。
「御婆様もつわりが?」
「ああ。燕もつわりが重かった。」
紫微星様と青藍の会話に独特の絆が感じ取れた。露はまた紫微星様の新しい表情を知った。取り繕わない紫微星様の素の表情を知る時、露は内側の人間になれた気がした。紫微星様にとって、親密な存在に。
紫微星様の顔を眺めている間に、テーブルにはお茶と御茶菓子が並べられていた。皆が空いた席に座って、自然とティータイムになった。
露はおすまししてティーカップを持った。紫微星様の隣に相応しい所作を心掛けていると、要が尋ねた。
「先程、誠太郎様からお誘い頂いたのですが、明日は子どもたちを連れて動物園に行くのだそうです。私と胡桃様は行きたいと思うのですが、露様も如何でしょうか?」
「動物園?」
ぱっと笑顔になった直後、露はそっと在仁を見上げた。
「紫微星様は?」
「俺でございますか?俺は此度の旅行では外出の予定はございませんよ。のんびりと、させて頂きます。」
茉莉はつわり、紫微星様は夏バテ。二人とも不調だ。旅の目的は遊ぶ事では無くて、神様に会う事。だから部屋で休んで過ごすと言うのは、露も理解出来た。
「でしたら、露も…私もお側にいてもよろしいでしょうか?」
動物園は、行きたい。遊びたい気持ちは大きい。けれど、露は紫微星様と一緒に過ごしたくて、強引に旅行に参加したのだ。目的を失してはならない。
「俺と?それは退屈でございますよ。」
「平気です。お邪魔でしたら、無理にとは、申しません。けれど私、紫微星様と過ごしたいのです。」
押し付けないように、空気を悪くしないように、出来るだけ普通のトーンを心掛けて伝えた。
そうしたら紫微星様は少しだけ驚いた顔をして黙った。
風が吹いて、紫微星様から花の香りがした。
「露様は、どうして此度の旅行に参られたのでございますか?」
とても自然で軽い問いだった。北海道へ来てみたかった、と言えばそれで済む問いだった。けれど露は嘘を吐きたくなかった。
「…紫微星様と、もっと親しくなりたかったのです。」
「俺と?」
目を丸くさせた紫微星様を見たら、何も伝わっていない気がして、少し切なかった。これでもいつも紫微星様への好意は伝えているつもりだ。令嬢の枠からはみ出さないギリギリのラインで、好き好き光線出しまくっているつもりだ。けれどそれが伝わっていないとなると、全く相手にされていないと思った。眼中にない。たいへん悔しい。
「私、紫微星様を尊敬して、お慕いしております。だから少しでも、紫微星様に褒めて頂きたくて、一生懸命、字も練習しております。紫微星様の生徒の中でも一番になって、特別になりたくて…。けれど、天衡様や月出様には、敵いません。お二人はいつも紫微星様に可愛がられて、羨ましゅうございます。けれど、私の方が年上ですもの。そう申し上げる訳には、参りません。」
気付いたら、皆が露を見ていた。
何だか子どもじみた事を言っている気がして、恥ずかしかった。けれど、ここで止める方法が分からなかった。途中で放り投げるのは、おかしい。話し始めてしまったら、終わりまで話さないと、場が収まらない。
「私は、源氏で…。紫微星様と親しくなりたくても、奥州藤原氏の子どもには、勝てないと、言われました。それが、残念で…。ずるいと、思いました。私はもう七歳で、きっと手習い所も、ずっとは通えなくて、そうしたら紫微星様とお会いする機会は無くなってしまいます。関係が、断たれてしまいます。」
言いたい事は、まとまらなくて、どうしたら良いか分からなかった。
それでも紫微星様は穏やかな微笑みで露を見ていて、露は何だか泣きたくなった。
「ですから、少しでも親しくなるために、無理矢理にこの旅行へ、ついて来たのです。私は、もっと紫微星様と親しくなりたいのです。もしそれが叶わなくても、一緒に過ごした思い出が、欲しいのです。」
声が震えた。我儘の定義が不明で、もしかしたら今この話が既に我儘かも知れないと思った。変な事を言って紫微星様を困らせているかも知れない。迷惑をかけないと約束したのに。
露が不安になって目を伏せそうになると、紫微星様がそっと露の手を取った。
「そのようなお寂しい事を、おっしゃらないで下さいませ。」
「紫微星様…。」
「思い出のみにて、終わりになど、致しませんよ。露様がお望み下さる限り、俺との関係が断たれる事はございません。」
「ほんとうですか?」
紫微星様の大きな手は、とても冷たかった。露はその長い指を温めるように、ぎゅっと握り返した。
「露様がお望み下さるならば、ずっと手習い所にお越しくださって構いませんよ。なれど、地龍イチの御令嬢を目指される露様は、これから益々御多忙になりましょう。いつまでも手習いに割くお時間は、ございませんでしょうね。」
「はい。母は、いずれ紫微星様のお茶会に参加できると申しております。なれど…いつになるかは…。」
「露様。そのような口実をお探しにならずとも、俺に文をくださいませんか?」
「文を?」
「ええ。どのような内容でも構いません。露様の思われた事を素直に認めた文を、いつでもお送りください。俺は必ず、御返事を出させて頂きます。文にて、途切れる事なく親交を深めて参りましょう。」
「ほ、本当に、文をお送りしても、ようございますか?」
私的な文通は、とても特別な事だと思った。口に出せない心を込めて文を交わせば、誰よりも親しくなれる気がした。
天衡たちは絶対に文通なんかしないだろうから、紫微星様の教え子で文通をする程親しいのは露だけだ。それは一番親しい気がした。
「ええ、もちろんでございます。俺は露様の字が好きでございますから、露様から文を頂戴いたしますれば、たいへん嬉しく存じます。」
「私も、紫微星様の字が大好きです。」
紫微星様の字はとても美しい。露はそれを見ているだけでうっとりした気持ちになる。その字で露だけの為に手紙を書いて貰えるなんて、想像するだけで胸ときめく。
「では、両想いでございますね。」
にっこりと笑った紫微星様に、露ははにかんだ。
ずっとモヤモヤしていた気持ちは、嘘のように晴れた。どうしようもない焦りや妬心が、一瞬で消えてしまった。
「露様。いかがでございましょうか。俺との親交はこの後いくらでも深める事が出来ます。なれど此度の北海道旅行は一度のみ。俺の側にて過ごされるよりも、今しか出来ない体験をなさっては如何でございますか?」
言われた露は、素直に頷けた。
「そうですね。紫微星様がおっしゃるならば、そうします。」
本当は遊びたかったので、嬉しい気持ちになった。要を見ると、ニコニコして頷いていた。
「紫微星様、ありがとうございます。」
握り合った手に感謝を込めると、紫微星様は優しい笑みだった。
「紫微星様の手、とても冷たいですね。」
「露様の手は、とても温かいですね。露様の御心のようで、ございますね。」
天衡たちのようにだっこしてもらえなくても、この握り合った手はそれ以上の価値がある気がした。
その手は、この先もずっと絶えない関係を確信させた。
露はこの旅行に来て良かったと思った。始まったばかりの旅程だが、絶対に楽しい旅行になると確信したのだった。




