10 要の事1
昨年末からこちら、要を取り巻く環境は大きく変わった。
その原因は三つある。
まず、出自が明らかになった事。九州随一だった大商家櫓家の末裔だったと判明した事で、巨額の遺産を手にしたと思われている。
次に、顔の瘴気火傷痕が治った事。容姿がまったく分からない程に爛れていた顔が、みよの薬によってすっかり綺麗になった。そうしたらびっくり、実は誰もが振り返るイケメンだったのだ。
そして最後が、北辰隊入りした事。紫微星様と言う最強の後ろ盾を手に入れた事で、ある意味で触るな危険でもあり、ある意味で喉から手が出る程に欲しい人物でもある。
まとめると、いいとこの出自で、お金持ちで、イケメンで、権力もある。地位と財力と容姿と権力を兼ね備えていると言う事だ。
そんな要因で、それまで冷遇されていたのが一転、誰もが一目置く重要人物となったのだ。
けれど、周囲の扱いの変化とは裏腹に、要自身の生活は変わらない。ただひたすら頼優の為に尽くす。それが要の人生だ。
「要様ぁ。私、催事担当部署じゃなくて、要様のいる秘書課で働きたいです。何とかお口利きくださいませんか?」
廊下を歩いていると、毎日のように絡んでくる女性が挨拶も無く言った。
まだ若くてお肌がハリハリしているのを見ると、何が楽しくて自分みたいなおじさんにモーションかけているのだろうと、冷ややかな気持ちになる。櫓虎太郎の戸籍上、年齢は今年三十九歳だ。結婚適齢期はとうに過ぎている。要は出自が明らかになった事で良かったのは、生年月日が分かった事くらいだと思った。
「私は人事権を持ちません。異動願いは然るべき手順にて人事担当部署に提出してください。」
事務的に答えると、女性は少し眉を顰めてから、すぐに笑った。
「そんな杓子定規な事言わずに、要様の推薦があれば通るじゃないですかぁ。」
猫なで声で媚びて来る女性への耐性なんかまったく無かった。女性から秋風を送られる経験なんかあり得なかったのだ。けれど先述の理由により、最近はこういう手合いが増えた。順応性の高い要は早々に扱い方を習得した。相手にしなければ良いのだと。
「私は規則を重んじます。それが嫌ならば相性が悪いのでしょう。」
そう言うと、女性は目と口を見開いて黙った。不屈のバイタリティーで何かを言われる前に去ろう。要はこの隙を見逃さず、そそくさと秘書課の扉へ逃げ込んだ。
扉の中には、同僚や部下たち。廊下での会話を聞いていたのか、ニヤニヤしていた。
「また絡まれたんですか?諦め悪いっすね、彼女。」
「あんだけアタックして来るんですから、一回くらいデートしてやれば良いじゃないですか。」
「あんまり取り付く島が無いんで、逆にムキになってんじゃないですかね。火に油、的な。俄然、燃える、的な。」
「あはは、冷たくするの逆効果だ?」
面白がっている連中の顔を冷たい目で見まわすと、全員がすんっと黙って目を逸らした。
気安い仲間内の態度は多少安心するが、意見が全然要の味方ではないのが残念だ。
「件の新年会のお陰で、政略目的での要への縁談はご法度になった。打算だった者たちは一斉に手を引いたが、ならば恋愛結婚だったら良いと発想を転換した不屈なファイターたちが残った。あれはしぶといだろうな。」
「他人事だと思って…。」
さらっと言ったのは部屋の奥の大きな執務机にいた頼優だった。秘書課を当主執務室と繋げたのは頼優だ。当主になってから、利便性を優先して色々と変えた。頼経の時代とは随分変わった。
「あの娘は、社会勉強と言う名目で臨時で入ったのではなかったか?秘書課の仕事なんか出来るのか?」
書類から目を上げずに雑談する頼優に、要は嘆息した。
「出来る訳が無いでしょう。父親のコネで無理矢理バイトに来ただけで、目的は婚活ですよ。端からまともに働く気が無いんですから邪魔なだけの給料泥棒ですよ。」
親のコネを使って、社会勉強とか行儀見習いとか適当な理由付けで短期バイトに来る女性は、まぁ少なくはない。ただ、その殆どが婚活目的だ。真面目に働くつもりならば、そのまま正規に雇う場合もあろうが、要は過去そうした事例を見た事が無い。女性だって真面目に懸命に働いている人は沢山いるのに、一部のそういう者の所為で誤解されるのだろうと思う。胡桃のように、優れた女性もいるのに。
「本気で要を獲物だと定めたならば、真面目に働いた方が好感度が上がるだろうにな。あれでは恋愛結婚以前に、恋愛に発展する見込みが無さ過ぎる。」
「自分に自信があるんでしょう。」
若くて美しいから。
けれど、茉莉より美しいはずも無い。それに要からしたら、胡桃の方が余程可愛らしい。子リスみたいで、愛でたくなる。
同じように好意を向けられても、胡桃ならば全然嫌じゃない。とても嬉しい。きっと、胡桃には打算も何もないからだろう。
いくら要が先述の理由でモテても、胡桃の立場を思えば、胡桃が要と交際する事で得る利益など無い。胡桃は奥州藤原氏当主・幸衡の義妹だ。望めばより良い結婚が手に入る。紫微星様の専属秘書で、紫微星様の信頼も厚い。立場も地位も上である胡桃が、要を選ぶ打算など、どう考えてもありはしない。だから信じられると言うのも、大きい。
理詰めで考えても嘘が無いと思えるから、胡桃の好意を素直に喜べる。
「あの娘が諦めても、同じようなのが現れる。あまりかまっていると、疲れるだけだ。適当に流しておけ。」
打算しかない婚活女子たちは、紫微星様から政略結婚禁止を公言されている要をゲットするために、どうしても恋愛結婚をしないとならない。要を落とさないとならないのだ。だから面倒くさく関わって来る。
新年会から時が経っていくと、様子を見ていた者たちが動き出す。残念ながら、これからもあの手合いは増えていく見込みなのだ。
いちいち相手にしているとキリが無く、要の精神が疲弊するだけだ。
「私の賞味期限はもう切れているんですけどね。」
物好きだな。要がどうでも良さそうに嘆息したら、部屋中の視線が訝し気に向けられた。
多少年嵩でも、今の要は優良物件に相違ない。自覚しないのは、これまでの不遇の所為で自己評価能力が著しく低い所為なのだろう。
なんだかなぁ、と哀れんだ目をした頼優は、ぞんざいに書類を要に向けた。
「司法局から、櫓家の財産についての報告通知だ。」
受け取って目を落とすと、そこにはとんでもない額が記載されていた。
「世間的には晦冥教案件は終了したと思われているが、事後処理はまだまだ終わっていないからな。血祭鋭介と屍家家臣らの聴取が進み、櫓家の蔵から略奪した財の全貌が明らかになりそうだ。要は所有権を放棄する意思を伝えていたが、詳細を知る権利があるだろう。それを見てから改めて相続するか検討すればいい。」
あまりにも非現実的な数字なので、要は何も言えなかった。こんな財産を手にしたら、一体どうなってしまうのだろう。どうもならないが、どうにかなりそうだ。
直視できない気持ちになった要は、書類を小脇に挟んで保留とし、別の事を言った。
「頼優様、例の有給申請はどうなりましたか?」
「ああ、大丈夫だ。調整しておくから、心置きなく休め。」
要は心の中でガッツポーズをした。日程は去る事ながら、参加メンバーも開示して、頼優に了承を得た。これで何の疚しさも無く、胡桃に誘われた北海道旅行へ行けそうだ。
正直、人生初めての旅行かも知れない。そう思い至った時、頼優が要の腕時計を小突いた。
「時間。大丈夫か?迎えに行くんだろう?」
「あ、そうですね。では、これで失礼します。」
いかんいかん。今日はこれから胡桃が来るのだ。例の屋敷の図面を口実としたデートに。
◆
「北海道行けるんですか?」
やったぁ!と顔面に書いてある胡桃の表情が可愛すぎた。
「ええ。頼優様から許可を頂きました。是非ともご一緒させてください。」
「もっちろんです。よろしくお願いします!」
地龍本家にある転移扉から、源氏本家は徒歩圏内だ。小さな胡桃の歩幅に合わせると、いつもよりも時間がかかる。要はその速度が愛おしかった。
「しっかし、よく許可おりましたね。誘った私が言うのもナンですけど、結構アウェイですよ?」
北海道旅行の面子は、奥州所属が多いし、源氏所属は少なくて、要はちょいアウェイだ。要の立場に政治的なものを排除できる訳も無く、許可は下りないかも知れないと、要自身も思った。
「私と紫微星様の繋がりが強固となるのは、源氏の為になると、頼優様が。」
「ああ~…。でも紫微星様は頼優様の事が大好きですし、敢えて要様でパイプ繋ごうとしなくても大丈夫ですよ。」
つまり、その理由は要を北海道旅行に行かせてあげるための言い訳だろう、と。胡桃の暗に含ませた意図を察して、要は笑った。
「そうかも、知れませんね。」
小さいなぁ。と思いながら見下ろすと、胡桃はにっこりと笑顔を向けた。
「ま、要様はもう北辰隊ですし!ある意味ではこっちの人ですよ!紫微星様と茉莉様の夫婦喧嘩の仲裁だって華麗にやってのけますしね。そんなの他の誰にも出来ませんから、要様は北辰隊になくてはならない力です!きちんと誇って良いと思います!あの事、紫微星様とっても感謝してますよ!」
「はは、光栄です。」
「源氏で嫌な事があったらいつでも来てください。私たちは味方ですから、ウェルカムですよ。」
「ありがとうございます。」
癒される。
胡桃の小さな顔面の半分以上を占めるまん丸の眼鏡が、胡桃の得意げな感情を映してキランと光った。
ずっと見ていられるな。いや、ずっと見ていたい。要はそう思いながら、胡桃を源氏本家の一室へ案内した。
部屋は簡単な客間で、普段は事務的な話をする為に使う。そう広さは無く、和室だがテーブルと椅子が置かれている。要はそこに、例の屋敷の図面を広げた。
「うわぁ、想像よりも立派な御屋敷ですね。」
胡桃は隅々までチェックしながら言った。
「家人や家臣を住み込みで雇い入れる高位の武家屋敷って感じですね。格としては紫微星様に見合うんでしょうけど、紫微星様ご自身は恐縮しちゃうでしょうね。」
「本来必要の無いものですから、余計に受け入れ難いと思うかも知れません。その辺の攻め方も、ご教授頂ければありがたいのですが。」
「う~ん…わっかりましたぁ。ちょっと考えてみます。」
在仁を意図した方向へ動かすのは、流石に胡桃でも難しいらしく、少々口ごもった。それでも了承してくれた胡桃に、要は頭を下げた。
「無理を強いるつもりはありません。どうぞよろしくお願いいたします。」
頷いた胡桃はしばらく図面を見てから言った。
「これって部外秘です?出来たら写しを頂けませんか?普請前に紫微星様にお見せした方が話がスムーズかも知れません。」
「分かりました。胡桃様であれば大丈夫です。データを持ってきますので、お待ち頂けますか?」
「お願いします。」
この後出かけるので紙よりもデータの方が有難い。胡桃は丁寧に礼を取って、部屋を出ていく要を見送った。
◆
要が出て行って、胡桃は一旦部屋を見回した。
凄く簡素な部屋だ。お客様というより気を遣う必要の無い目下の者を入れる部屋みたいな感じだ。事務レベルで終わる話をする為の、打ち合わせ用の部屋。
ここへ来るのに誰も興味を向けて来なかったし、接待にも来ない。おそらく要は敢えてこの部屋を選んだ。今日の胡桃は北辰隊員として正式に来訪したのではない。仕事に託けてやってきて、この後はプライベートとして出かける。後で喫茶店に行くので、ここではお茶も無し。話は手短に済ませて、さっさと出かけよう。と言われているような気がして、ちょっとソワソワした。
周囲は静かで源氏サイドからの接触が無いのはストレスフリー。要の気遣いに感謝した。一応仕事に見えるような私服をチョイスしたのだが、これなら誰にも会わないし、ちょっとおしゃれしても良かったかも知れない。でも要は北海道旅行へ行ける事になったのだし、おしゃれはその時にとっておこう。
そして要が戻るのを待ちながら、再び図面に視線を落とした。
胡桃が図面に集中していると扉が開く音がした。要が戻ったのだろうと思い、胡桃は顔を上げずに言った。
「要様、お庭の設計はどうなさるおつもりですか?」
在仁は雅を愛する人だ。庭にもこだわった方が喜ばれるだろう。そう思ってした問いに、返答が無い。どうしたのだろうと思い顔を上げると、そこには見知らぬ女性が立っていた。
「なぁんだ。ちんちくりんじゃない。建築会社の事務の人ですかぁ?」
あきらかに馬鹿にした表情で胡桃を見下ろす女性に、胡桃はびっくりした。誰だ?
「要様がこそこそしてるから、特別な相手かと思ったんですけど。杞憂でしたねぇ。だって、こんな子どもじゃあね。」
部屋は簡易打合せ室で、机には図面。建築関係の事務員との打ち合わせだと思われたのだと察する。部屋のランクからして、見下してオッケーな取引先と思われたのだろう。だとしても、突然現れて嫌味を言うのはオッケーラインを越えている無礼では?
「どなたですか?失礼ですよ。」
ここは他家だ。毅然と対応せねば。胡桃の中には、北辰隊としても女としても奥州藤原氏としても舐められたらいけないと言う自負がある。在仁や幸衡の顔に泥を塗れないし、迷惑をかける事は出来ない。堂々と正しい応対をせねば。
その誇りに、女性は少し気圧されて狼狽した。
「勘違いしないことね。要様は誰にでもお優しいの。イケメンだからって、お前程度の者が惚れたら痛い目を見るわよ。私は親切で言っているのよ。高望みしてお前が傷付かないように。」
胡桃はなんとなく察した。きっと要狙いのハイエナだ。在仁が新年会で牽制してから、こういう手合いはいなくなったと思っていた。けれどあれから半年以上が経つ訳だから、不屈の精神で動き出したのだろう。そりゃあ要は素敵なのだから、モテるに決まっているのだ。
ただ、目の前の相手がライバルかと言うと、全くそうは思わない。恋愛は当人同士のものであるから、敢えて恋敵を牽制する者は焦っている者だ。敵がいなかったら消去法で自分が選ばれるとでも思うのだろうか。変な考え方だな。
胡桃が冷めた目で女性を一瞥してから、無視して図面に戻ろうとした。
その態度がムカついたのか、女性が胡桃に近付いて、手を伸ばして来た。暴力をふるう気は無いだろう。おそらく肩を掴んで顔を向けさせる程度の意図。けれど胡桃はたいへん小柄なので、少し恐かった。
丁度そのタイミングで、扉が開いた。
◆
要は胡桃から頼まれた屋敷の図面データを持って、急いで打合せ室へ戻っていた。途中で庭の図面を忘れていた事に気付いて戻っていたので遅くなって、思ったより胡桃を待たせてしまった。
いそいそと部屋に向かうと、打合せ室の扉が少し開いているのが見えた。
誰かいる。
扉はぴっしゃり閉めたと記憶しているので、胡桃が開閉したのでなければ、誰かが入った事になる。
この部屋はエリア的にも人の往来が少ない。気遣う必要のない来訪者用の部屋であるから、気を利かせてお茶を出す者があるはずもない。諸々好都合で、誰も来ないと思ったからこの部屋を選んだのに。
訝しみながら近付くと、例の女性の耳障りな声がした。
「勘違いしないことね。要様は誰にでもお優しいの。イケメンだからって、お前程度の者が惚れたら痛い目を見るわよ。私は親切で言っているのよ。高望みしてお前が傷付かないように。」
胡桃に絡んでいると察した要が慌てて扉を開くと、女性の手が胡桃に触れる寸前だった。
「何をしているのですか?」
自覚するより低い声が出た。
びっくりした女性が慌てて手をひっこめた。要からしたら、暴力をふるおうとしたのを誤魔化したように見えた。
「要様…。違います。私はお客様にお茶をと思って…。」
「誰がそんな指示をしたんですか?私の客人に無礼を働くと、許しませんよ。」
「無礼だなんて。私はちょっと話しかけただけです。この方が私を無視なさる方が無礼ではありませんか。」
女性は父親のコネで源氏本家に入り込める身分だ。日々の態度からそれを鼻にかけているのは明らかで、人を見下す癖は身に着いていた。こんな部屋にしか通されない相手だからとして、胡桃を見下しているのは明白だ。家の格を盾に相手に上下関係を分からせ、自分優位に人間関係を構築しようとするのは、政治だ。けれど、政治とはそんな単純なものではない。子どもの遊びではないのだ。
「こちらのお客様は本来ならば貴女が口を利いて良い御方ではありません。相手の氏素性を知りもせず、不用意に関わる事は貴女のみならず、御生家を危険にさらしますよ。もっと思慮深く行動なさらねば。」
要の表情が硬く冷たいのに気付いて、女性は驚いた。
「は?え?何をおっしゃっているのですか?このちんちくりんが?ただの出入り業者でしょう?だってこんな部屋に招いているじゃありませんか。嫌だわ、要様。変な御冗談を…。」
言い訳を続けようとする女性に、胡桃が尋ねた。
「貴女の名前をまだ聞いておりませんでした。」
「は?」
「貴女の名前です。家名が分からなければ正式な抗議が出来ませんから。」
「抗議?馬鹿な事言わないでよ。私の家に?お前程度の分際で生意気なっ。逆にこっちから抗議してやるわ。名前を名乗りなさいよ!」
声を荒げた女性に対し、胡桃はとても毅然としていた。要はその背筋の伸びた居住まいに見惚れた。
「私は北辰隊は紫微星様の専属秘書・藤原胡桃と申します。抗議を下さるならば兄・奥州藤原氏当主・幸衡へ送ってください。」
「…ぇ?」
奥州藤原氏は地龍三大筆頭家門トップ。現在の源氏は三位であるから奥州より格下だ。しかも紫微星様の専属秘書と言う事は、紫微星様と言う巨大な後ろ盾を持つ。
「うそ、でしょ?」
まさか他家所属とは思わなかったのだ。源氏傘下内の下級商家の雇われ事務員だと軽んじていた。それがまさか遥か格上の存在とは。
女性は狼狽して胡桃ではなく要を見た。要は絶対に助けてくれないと分かる冷たい目を向けていた。
「この事は頼優様に報告いたしますので。」
「や、やめてください。ごめんなさい。お許しください。」
頼優に睨まれたら家が没落する。
「どのみち奥州藤原氏から抗議が来ればどうしようもありません。頼優様は不要な火種を厭いますから、容赦なく切り捨てるでしょう。」
女性が真っ青になって追い縋ろうとしたが、要はテーブルの図面を畳んで胡桃を促した。
「参りましょう。データは持って来ましたので、もうここには用はありません。」
「わかりました。」
胡桃は少々申し訳なさそうな顔をしたが、女性を振り返る事なく部屋を出て、要と並んで源氏屋敷を後にした。
◆
外は炎天下だった。
胡桃は要と歩きながら、源氏屋敷の方を振り向いた。
「御館様まで引き合いに出したりして、ちょっと性格が悪かったですかね?」
「まさか。甘いくらいですよ。胡桃様に手をあげようとしたんですよ?本当にお怪我をさせていたら、打ち首では済みません。」
「いやぁ、多分暴力を振るおうとしたんじゃないと思いますけど。」
やんわりと庇う胡桃を見ていたら、要は後で徹底的にぶっつぶそうと思った。胡桃を害そうとした者に、胡桃に庇われる価値など無いのだ。
「ああ言う身分を傘に着た者は、常に政治を持ち出して生きている自覚を持つべきです。単純な事では済みませんよ。責任を自覚せず優越感だけ味わいたいなんて、組織を腐敗させる種になります。頼優様はそういう者を見逃しません。二度と本家の敷居を跨ぐ事は出来ないはずです。」
普段はこういう事は思っていても口にしない。要だって立場があって、口は災いの元だ。頼優しかいない場所だったら言いたい放題言えるが、その他では口を噤んでいるのが賢明だ。
けれど、さっきのは許せなかった。胡桃を侮辱されるのは、物凄く腹が立った。
「それか、本当に幸衡殿から正式な抗議を下さっても構いません。」
家を引き合いに出して優位性を得ようとしたのは女性の方だ。胡桃が家を使って反撃したって何が悪い事があろうか。奥州から抗議が来たら多少源氏に不利な事案だが、序列は元より下位であるから何も変わるまい。要は苛立ちを隠しもせずに胡桃を見下ろした。
「珍しいですね。要様が怒るの。」
面白そうに笑う胡桃に、要は足を止めて深々頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。私の不手際で、胡桃様に御不快な思いをさせてしまいました。」
順番を間違えた。まずは謝罪すべきだったのに。要は頭に血が上っていた事を自覚して、少し恥ずかしくなった。当事者の胡桃はこんなにも冷静なのに。
「いいえ。全然。私は何も問題ありません。要様の方こそ、ああした御方が職場におられると、気苦労が耐えませんね。」
寛大に許すどころか、要を気遣うだなんて。要は胡桃が良い子過ぎると感動した。
「そう、ですね。諸々の事情で、私と恋愛結婚に漕ぎつきたいと言う者たちがいるようです。ただ、どの方も私の好みとは真逆の行動をなさるので、邪魔どころか、たいへん迷惑を被っています。」
「要様の好みとは?」
胡桃の眼鏡に夏空が映っていた。
「主の公私に渡る二十四時間秘書を勤める、とても優秀な方です。」
「…要様、詐欺師みたいですよ。それは。」
照れて俯く胡桃のうなじを眺めながら、要は眉を下げて微笑んだ。少し踏み込むと、ロマンス詐欺師だと言われる。子リスは距離感が難しい。
「さっきの胡桃様、素敵でしたよ。毅然としていて、やはり奥州藤原氏の姫なのだなと思いました。」
女性に怯まなかった時の態度は格好良かった。要は胡桃の強さを評価する。けれど弱さも知りたいと思う。
「まさか。私は庶子です。姫などと言う身分ではありません。」
「ですが幸衡殿は胡桃様を大切になさっておられる。」
「御館様は弟妹を粗末にしませんから。」
胡桃は一度言葉を区切ってから、小さく言った。
「御館様には、感謝してます。」
きっと、経歴上で知る事実よりも、複雑な気持ちがあるのだ。要は胡桃のバックボーンを想像しながら、それでも今こうして感謝を持って生きている事が、立派だと思った。胡桃から感じる安心感は、その善良さ故だと思った。だから紫微星様の腹心たるのだろう。
紫微星様が信頼する星影である事が、胡桃の内面を保証する。
打算も無く、善良さが保証されている。胡桃の好意に、何の疑う余地も無い。だから素直に受け取れる。これまでの要の環境からすると、それが本当にありがたかった。警戒も疑いもいらない安全な人物、その特別さが要の心を癒した。
ただ一つ、胡桃が奥州人である事は、大きな障害だが
それは要が頼優の側近秘書である事と同じように、今後もずっと変えようの無い事実だ。
「胡桃様は、私のどこを好ましいと思ってくださるのでしょうか?」
これからも胡桃の好意を欲するならば、胡桃が好む要であり続けねばならない。参考情報を得ようとすると、胡桃は笑った。
「要様は、良い人です。だから好きです。」
胡桃の返答の意味が、要には全く分からくて途方に暮れた。
思わず仰いだ空には、胡桃の眼鏡に反射する得意げな光よりも激しい真夏の太陽があったのだった。




