第9話 泥水をすする子羊たち
目覚まし時計の電子音も、取り立て屋からの怒号混じりの着信もない。
築四十年、四畳半のボロアパートに差し込む朝日は穏やかだった。
「……借金が、ない」
万年床の上で天井を見上げ、しみじみと呟く。
二千万円。俺の二十代前半を食い潰した呪縛が、昨日完全に消滅したのだ。
今日くらいは泥のように眠り、生姜焼き定食を食って銭湯に行く。そんな人間らしい休日を過ごす権利があるはずだった。
だが、神は――いや目の前の菩薩は、俺に安息を許さなかった。
「おはようございます、レイさん! 素晴らしい朝ですね!」
枕元で、金髪の聖女が燦然と輝いていた。背後の光輪が蛍光灯より眩しい。
「うおっ眩し……! 朝から発光ダイオードになるのやめろ……」
「レイさんの寝癖もとてもエモいですよ。ですが二度寝している場合ではありません。ほら、ご覧になってください!」
カノンが突きつけてきたスマホ画面には、探索者SNSの急上昇トレンドが表示されていた。
――【急増する偽ポーション被害:水増し粗悪品で初心者の死亡事故多発】
「生き延びたい一心で粗悪な泥水を買い求めてしまう健気な新人さんたち……なんて切実で、胸を締め付けられる魂の叫びなのでしょう!」
カノンの碧眼が朝露のような涙で潤んでいる。嫌な予感しかしない。
「おい待て。まさか」
「はい! 今日は絶好の救済日和です! 参りましょう!」
「俺の有給休暇はどこ行ったんだよぉぉぉ!!」
借金完済の翌朝。俺の悲痛な叫びは青空へ虚しく吸い込まれた。
*
連れてこられたのは、低ランクダンジョン『代々木地下迷宮』の地上入口広場だ。
駅前広場の一角には、安物装備や怪しい手作り護符を並べた無数の露店がひしめき合っている。
金のない底辺探索者や駆け出しが、なけなしの小銭を握りしめて集まる露店街だ。
「懐かしいな。俺も新人の頃は正規ポーションなんて買えなくて、ここで安物を漁ってたっけ」
「限られた希望を持ち寄り、生きるために知恵を絞る市場……なんて健気な光景でしょう」
カノンが微笑む。俺は周囲を警戒してカノンにフードを深く被せた。登録者五十万人の今、顔がバレれば大騒ぎだ。小型の配信用ドローンカメラは手元で待機させてある。
その時だった。
「誰か……回復薬をくれ! あいつが死んじまう!!」
ダンジョンの改札口から血まみれの少年三人が転がり出てきた。
背負われた少年の右脇腹から、おびただしい血が噴き出している。
「救護所はどこだ!? 正規のポーションは一本三万円!? そんな金ないぞ……!」
取り乱す彼らの前に、小太りな露天商がぬらりと歩み寄った。
「お困りのようだねえ! それならウチの『ライフエイド製薬特製・速効回復ポーション』だ! 本来一万五千円のところ、特別に八千円でいいぞ!」
「八千円……!? 買います!」
少年がポケットの小銭をかき集めて男に押し付け、青い小瓶を受け取った。
「タクミ、飲め! 助かるぞ!」
青い液体を流し込まれた瀕死の少年。
だが次の瞬間――。
「――がはッ!? げほっ、ごほっ……!!」
少年が激しく痙攣し、口からどす黒い血を吐き出した。傷口は塞がらず、激痛に顔を歪めている。
「血が止まらない……それどころか吐血してるぞ!?」
「おい親父! 全然効いてねえじゃねえか!!」
詰め寄る仲間に、露天商は平然と鼻で笑った。
「ああん? 効かねえのはそいつの魔力適性が低いせいだろ。飲む側の器量が足りねえのをこっちのせいにされちゃ困るねえ」
「金を返せ! 別の薬を買うんだよ!」
「買い切り商品の返品は不可! ダンジョン探索は自己責任だろ? 金が惜しくて死ぬなら、それまでの命だったってこったな!」
男はせせら笑い、唾を吐き捨てた。
仲間たちは絶望に打ちひしがれ、地面に膝をつく。
カチリ、と頭の中で何かが切れた。
金がなく、粗悪ポーションで化膿した傷を抱えて三日三晩高熱にうなされた過去が蘇る。持たざる者の弱みに付け込み、命が消えかけている前で「自己責任」と言い放つ浅ましさ。
「おい……てめえ……」
俺が拳を握った瞬間、白金の光がすり抜けた。
「まあ……」
フードを脱いだカノンが血溜まりに膝をつき、少年の冷たい手を包み込んでいた。
怒りではない。瞳に浮かんでいたのは、溢れんばかりの慈愛と感動だった。
「こんなにも痛く恐ろしいのに、仲間を信じて必死に生きようとしているのですね。なんて健気で、エモい魂なのでしょう……!」
露天商がぎょっとする。
「な、なんだこの女……!?」
「【千光慈救掌】」
ゴオォッ……!
カノンの背後から数十本の光の手が一斉に展開した。広場が温かな昼光色に染まる。
柔らかな光の手が少年の脇腹に触れた瞬間、裂けた肉が瞬く間に結合し、皮膚が滑らかに再生した。仲間の擦り傷や野次馬の疲労まで一瞬で消え去る。
「いたく、ない……?」
「傷が消えた……!? 本物の奇跡だ……!」
少年たちが抱き合って泣く横で、カノンは転がっていた青い小瓶を光の手でつまみ上げた。
俺は配信用ドローンを即座に起動する。登録者五十万人の通知が一斉に飛び、数万人の視聴者が雪崩れ込んできた。
《突発配信きたあああ!?》
《聖女様!? 光の手が生えてる!》
コメントの濁流を背負い、カノンは澄んだ声で告げた。
「この薬には傷を治す成分など入っていません。ただの水道水に着色料と魔石の屑、中枢神経を麻痺させる安価な鎮痛成分を混ぜただけの泥水です。『治った気』にさせて体内の魔力を狂わせる毒物を希望と偽るなど、哀しい迷い子さんですね」
「ひっ……! お、俺は知らねえぞ! 『ライフエイド製薬』から卸してるだけだ!」
露天商はワゴンを捨てて脱兎のごとく逃げ出した。
《ライフエイド製薬!? あの大手か!?》
《鎮痛剤で誤魔化す泥水ポーションとか殺人未遂だろ!》
《聖女様、鑑定スキルまでカンストしてて草》
コメント欄が炎上する中、俺のスマホが激しい警告音を鳴らした。ダイレクトメッセージに真っ赤な文字が届く。
『カノン救済チャンネルへ。直ちに配信を停止し発言を撤回しろ。さもなくば命の保証はない。ライフエイド製薬回収班』
画面を覗き込んだカノンが微笑む。
「まあ。もっと大きな闇に囚われた迷い子さんがいるのですね?」
「迷い子じゃねえ、脅迫だ! 完済初日から相手が製薬会社って、人生の難易度バグり散らかしてんだろ……!」
秋晴れの空の下、俺の絶叫が広場に木霊した。




