第6話 呼出と二千万円の約款
都心の一等地にそびえ立つ、ガラス張りの高層オフィスビル。
その最上階へ向かうエレベーターの中で、俺はポケットの中の胃薬を指先で強く握りしめていた。
胃の奥が、氷の塊を呑み込んだように冷たく重い。
「レイさん、ご覧なさい。エレベーターの隙間から街が一望できますよ。まるで蟻の巣窟のようにせわしなく蠢く人々の営み……実にエモいです!」
「頼むから今は静かにしてくれ……」
ガラス越しに景色を眺めて目を輝かせるカノンに、俺は消え入りそうな声で返した。
彼女の背後に浮かぶ光輪は、オフィスの間接照明に合わせて淡いシャンパンゴールドに光っている。
どこへ行ってもこの聖女はマイペースだ。
だが、俺の心境はそれどころではなかった。
ビルの壁面に掲げられたエンブレム。
鎖で繋がれた猟犬の紋章――探索者ギルド《ハウンドライン》。
かつて俺が所属し、危険な未踏破区画へ肉壁として突入させられ、型落ちの欠陥装備を相場の十倍のローンで買わされ、最終的に二千万円の借金を背負わされて使い捨てられた元凶だ。
チーン。
無機質な電子音とともに、最上階の扉が開いた。
目の前に広がるのは、大理石の床と高級革張りのソファが並ぶ役員応接室。
奥の巨大な執務デスクには、仕立ての良いイタリア製スーツに身を包んだ男が座っていた。
恰幅の良い体躯、ポマードで撫で付けたオールバック、そして冷酷に光る豚のような細い目。
株式会社ハウンドライン代表取締役――遠山だ。
「やあ、よく来てくれたね、黒岩レイ君。四年ぶりかな?」
遠山は脂ぎった笑みを浮かべ、葉巻の煙をふわりと吐き出した。
「用件は何ですか、遠山代表。メールにはカノンの専属マネジメント契約と書かれていましたが」
俺が警戒を露わにして問い詰めると、遠山は机の上の分厚いファイルを指先でトントンと叩いた。
「単刀直入に言おう。君たちの『カノン救済チャンネル』、実に素晴らしいコンテンツだ。昨日の牙崎ガルドをハメた公開成仏劇、ネットは大盛り上がりじゃないか」
「ガルドをハメてなんかいません。あいつが勝手に自滅しただけです」
「ハハハ、謙遜しなくていい。どちらでも同じことだ。金になるならね」
遠山は立ち上がり、ゆっくりとカノンの方へ近づいてきた。
品定めするように、頭のてっぺんから足の先まで舐め回すような視線を送る。
「未登録の野良探索者にしておくには惜しい素材だ。我がハウンドラインの巨大資本とメディア網を使えば、彼女を世界一の宗教系メガインフルエンサーに仕立て上げられる。年間売上は五十億を下らない」
遠山は胸ポケットから万年筆を取り出し、机の上に一枚の書類を滑らせてきた。
【専属マネジメント契約約款】。
中身に目を走らせた瞬間、俺の視界が怒りで真っ赤に染まった。
・配信収益および投げ銭の九十五パーセントはギルドの管理手数料とする。
・カノンの治癒奇跡は、ギルドが指定する政財界VIPへの特別診療を優先とする。
・黒岩レイは裏方アシスタントとして月給十五万円でギルド専属とする。
・本契約を破棄する場合、違約金として金三億円を支払うものとする。
「……ふざけるな」
俺の喉から、絞り出すような低い声が漏れた。
「なんだこれは……! 奴隷契約じゃないか! カノンの善意を独占して、自分たちの金儲けの道具にする気か!?」
「おや、心外だな」
遠山は不快そうに目を細め、机の引き出しからもう一枚の茶色い紙束を取り出した。
俺の署名と指印が捺された、見覚えのある借用書だった。
「君は忘れたのかね? 君が我が社に背負っている借金――元金と利息、機材破損の損害賠償を合わせて、ちょうど二千万円だ。この契約を結ぶなら、その借金をチャラにしてやると言っているんだよ」
「……ッ!」
「もし断るなら――今すぐ全額一括で返済してもらう。払えないなら、協会のブラックリストに登録し、探索者資格を剥奪した上で、法の許す限りの回収手段を取らせてもらうがね」
遠山の目が、冷酷な脅迫者のそれに変わった。
過去のトラウマが蘇り、俺の膝がガクガクと震え始める。
二千万円。
底辺探索者の稼ぎでは、一生かかっても返せない絶望の数字。
その時だった。
「まあ……!」
応接室のガラス扉の向こう、オフィスフロアを見つめていたカノンが、突然小さく息を呑んだ。
視線の先には、パーテーションで区切られた薄暗い一角があった。
そこでは、泥と血で汚れた安物の探索者スーツを着た十数人の若い男女が、机に突っ伏して倒れ込んでいた。
包帯を巻いた腕、青ざめた顔、点滴を打たれながら書類を打ち込む手。
ハウンドラインの新人探索者たちだ。
「レイさん、あの方々をご覧ください」
カノンが琥珀色の瞳を潤ませ、胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
「ボロボロに擦り切れ、倒れる寸前まで命を削りながらも……明日のためにペンを握り続けておられます! なんて健気で、泥臭い勤労意欲なのでしょう……!」
「……え?」
遠山がポカンと口を開け、カノンの奇行に目を丸くした。
「重い借金と過酷なノルマに押し潰されそうになりながら、それでも生きようともがく魂の灯火……エモすぎます!」
「いや、カノン、あれは単にブラック労働で使い潰されてるだけで――」
「素晴らしいです、遠山さん!」
カノンがくるりと振り返り、遠山の手を両手で優しく包み込んだ。
聖母のような、純度百パーセントの微笑み。
「こんなにも尊い迷い子さんたちを一箇所に集めてくださるなんて。おかげで、一度に全員を救済できますね」
「は……? 救済……?」
遠山の額に、嫌な汗がツーと流れた。
同時に、カノンの背後の光輪が、ボワッとオフィス全体を白昼のように照らし始めた。
宙に浮かぶ俺のスマホが、ピコンと乾いた電子音を鳴らす。
【配信開始:カノン救済チャンネル】
【最高画質:4K / 60fpsで中継中】
【同時接続者数:五万人 突破】
カノン救済チャンネルが、遠山の密室を全世界へ生中継し始めたのだ。
「おい、何を勝手に配信して――」
遠山が叫んだ瞬間、カノンは慈愛に満ちた声で世界へ告げた。
「皆さん、こんばんは。本日は大手ギルドさんのオフィスから、とっても丁寧な契約解除をお届けしますね」
俺の胃薬が、口の中で完全に砕け散った。




