第5話 1600年1月2日 その2
俺はコーヒーを飲み終えると、キャンプ一式を片付け始めた。
寝袋、マット、テント、調理器具を順番にまとめてリュックへ押し込む。
「よし、こんなもんか」
最後に忘れ物がないか確認してから、双眼鏡を取り出した。
山頂から海岸線の方をゆっくり見回していく。
昨日は誰も見つけられなかった。
「……ん?」
何か動いている。
双眼鏡を少し戻して、もう一度見る。
「人か?」
遠いのでよく分からないが、確かに人影に見える。
しかも小さい。
「子供かな?」
しばらく見ていたが、やっぱり人に見える。
昨日から一度も人に会っていない。
「やっと見つけたな」
俺は双眼鏡をリュックにしまった。
右手にはナタを持つ。
「行ってみるか」
昨日登ってきた道をそのまま下っていく。
登る時は草や枝を切り開きながら進んだのでかなり時間がかかったが、今日はすでに道ができている。
しかも下りだ。
「昨日より全然楽だな」
足元だけ気をつけながら、どんどん下っていく。
昨日自分で切った枝や草が残っているので、道を間違える心配もほとんどない。
途中、何度かナタで邪魔な枝を払う程度で済んだ。
しばらく歩くと、木々の隙間から海が見え始める。
波の音も少しずつ大きくなってきた。
「もうすぐだな」
そのまま下り続ける。
約一時間。
ようやく森を抜けた。
目の前に海岸線が広がる。
「着いた」
昨日は山頂まで二時間ほどかかったが、下りはやっぱり早かった。
俺は一度立ち止まり、さっき双眼鏡で人影を見つけた方向を見る。
「まだいるかな」
リュックを背負い直し、俺はその方向へ歩き始めた。
海岸線をしばらく歩くと、少し先の浅瀬に小さな人影が見えた。
しゃがみ込んで、何かを籠に入れている。
「やっぱ子供か」
近づいていくと、裸足で浅瀬に入り、岩の間から貝や小さなカニを拾っているのが見えた。
俺は少し離れたところから声をかける。
「おーい」
女の子が振り向いた。
一瞬、動きが止まる。
俺の服装や背負っているリュック、それに右手のナタを見ているのか、少し警戒しているようだった。
「大丈夫、大丈夫」
俺はナタを下に向け、敵意がないことを見せる。
見た感じ、十歳くらいだろうか。
髪は少し乱れていて、手には小さな籠を持っている。裸足の足元には、拾った貝やカニがいくつか入っていた。
俺は女の子に手招きする。
「こっちおいで」
言葉が通じているのかは分からない。
それでも女の子は俺の様子を見ながら、少しずつ近づいてきた。
俺はリュックを下ろし、中を探る。
「そうだ、これならいいか」
個別包装されたチョコレートを一つ取り出した。
女の子に差し出す。
当然、女の子はそれが何なのか分からないようで、受け取ったあとも不思議そうに眺めている。
「食べ物だよ」
そう言っても、やっぱり伝わっているかは分からない。
俺はもう一つチョコを取り出した。
封を切り、そのまま口に入れる。
「ほら」
女の子は俺の動きをじっと見ていた。
そして手元のチョコを見る。
しばらくして、俺と同じように包装を開けた。
中から出てきた茶色いものを少し見つめ、それから恐る恐る口に入れる。
次の瞬間。
女の子の目が大きく見開かれた。
「……!」
しばらく口の中で味わったあと、表情が一気に明るくなる。
「凄く甘ーい!」
「はは、うまいだろ」
どうやら言葉は通じるらしい。
それだけでもかなり安心した。
俺は女の子の前にしゃがみ込む。
「名前、なんていうの?」
女の子は少しだけ首を傾げたあと、自分の胸に手を当てた。
「マカト」
「マカト?」
女の子はこくんと頷いた。
「うん。マカト」
俺はもう一度名前を確認するように口にした。
「マカトか」
女の子――マカトは、まだ少し警戒しながらも、さっきよりは明らかに表情が柔らかくなっていた。
手には、チョコの包み紙を大事そうに持っている。
どうやら俺は、1600年に来て初めて現地の人間と話すことができたらしい。
「俺は悠真って言うんだ」
俺が自分を指さしながら言うと、マカトは少し首を傾げた。
「ユウマ?」
「そう、悠真」
マカトはもう一度俺の名前を口にすると、急に笑った。
「ユウマ? 変な名前」
「変って……」
思わず苦笑する。まあ、向こうからすれば聞いたことのない名前なんだろう。
「マカトは、どこに住んでるんだ?」
俺がそう聞くと、マカトは海岸線の奥の方を指さした。
そっちに集落があるらしい。
「大人の人いる?」
マカトは頷く。
「じゃあ、俺を大人の人に紹介してくれないか?」
そう言うと、マカトは少し考えるような顔をしたあと、俺のリュックをちらっと見た。
「いいよ。でも、さっきの一個ちょうだい」
「チョコか?」
マカトはすぐに頷いた。
「はいはい」
俺はリュックから個別包装のチョコを一つ取り出して渡す。
受け取った瞬間、マカトはさっきとは違って迷わなかった。
すぐに封を開け、そのまま口の中へ放り込む。
「うまい?」
マカトは口を動かしながら、満足そうに大きく頷いた。
どうやら完全に気に入ったらしい。
そのままマカトを先頭にして、俺たちは海岸線を歩き始めた。
波打ち際を横目に進んでいく。
マカトは時々振り返って、ちゃんと俺が付いてきているか確認している。
俺はその後ろを歩きながら、周囲を見回した。
人が住んでいる場所に向かっている。
1600年に来てから、初めてまともに集落を見ることになる。
それだけでも少し緊張した。
五分ほど歩いた頃だった。
「……あれか?」
海岸線の先に、いくつか建物らしきものが見えてきた。
近づくにつれて、その形がはっきりしてくる。
「家……だよな?」
正直、最初はそう思った。
かなり簡素だ。
というより、現代の感覚で見れば、家というよりボロ小屋に近い。
木と草を組み合わせて作ったような建物が並んでいる。
立派な柱も壁もない。
屋根も草や葉を重ねたような作りで、風が強ければ飛んでいきそうに見えるものもある。
数えてみると、大体十五軒くらい。
本当に小さな集落だ。
「こんな感じなのか……」
俺は思わず呟いた。
近づいていくと、人の姿も見えてきた。
女の人と子供ばかりで、見える範囲では十五人くらい。
大人の男は見当たらない。
漁にでも出ているのか、それとも畑仕事か。
詳しいことはまだ分からない。
俺たちの姿に気づいた人たちが、一斉にこちらを見る。
当然だ。
見たことのない服を着て、大きなリュックを背負った男が、村の子供と一緒に歩いてくる。
怪しまない方がおかしい。
するとマカトが急に走り出した。
「おーい!」
集落の中へ駆けていき、一人の女性のところへ向かう。
年齢は三十前後くらいだろうか。
雰囲気からして、たぶんマカトの母親だ。
マカトはその女性の前に立つと、俺の方を指さしながら何かを早口で話し始めた。
時々、手に持っていたチョコの包み紙まで見せている。
「俺のこと話してるんだろうな……」
何をどこまで説明しているのかは分からない。
俺は少しゆっくり歩きながら、集落へ入っていった。
視線が集まる。
警戒している人もいるし、単純に珍しそうに見ている子供もいる。
俺はマカトの母親らしき女性の少し手前で立ち止まった。
「こんにちは」
軽く頭を下げる。
少し間があった。
それから女性も、周りにいた人たちも、それぞれ挨拶を返してくれた。
少なくとも、いきなり追い払われるような雰囲気ではなさそうだ。
俺は少し安心した。
「俺は旅人です」
自分を指さしながら、できるだけ分かりやすく話す。
「海の向こう側から来ました」
もちろん大嘘だ。
未来から来ました、なんて言えるわけがない。
そんなことを言ったところで信じてもらえるとも思えないし、下手をすれば余計に面倒なことになる。
とりあえず今は、遠くから来た旅人ということで通した方がいい。
女性たちは俺の話を聞きながら、まだ少し不思議そうな顔をしていた。
「これ、お近づきのしるしです」
俺はリュックを下ろす。
中から個別包装のチョコを取り出した。
一人一個ずつ。
女の人にも子供にも順番に渡していく。
受け取った全員が、ほぼ同じ反応をした。
「……?」
ポカンとしている。
そりゃそうだ。
透明な袋に包まれた、小さな茶色い物体。
見たことがあるはずがない。
何人かは匂いを嗅ごうとしているし、子供は袋ごと眺めている。
俺は説明しようとしたが、その前にマカトが動いた。
「こうするんだよ」
得意そうな顔で、自分がさっきやったのと同じように封を切る。
中身を見せ、そのまま口に放り込んだ。
「食べるのか?」
誰かがそう言う。
マカトは満面の笑みで頷いた。
それを見た一人の子供が、恐る恐る封を開ける。
中からチョコを取り出し、口に入れた。
その瞬間。
「……!」
目を見開いた。
「甘い!」
その声をきっかけに、他の人たちも次々に封を切り始める。
そして口に入れる。
「うわ!」
「なにこれ!」
「甘い!」
「すごい!」
集落のあちこちから声が上がる。
さっきまで俺を警戒していた女性たちまで、驚いた顔で口元を押さえている。
子供たちは完全に大騒ぎだ。
「そんなにか……」
俺はその様子を見ながら苦笑した。
現代ならコンビニでもスーパーでも普通に買える、小さなチョコ一個。
それだけで、ここでは全員がこれほど驚く。
改めて、自分がいる時代の違いを実感する。
そしてその中心で、マカトだけは少し得意そうな顔をしていた。
まるで自分が最初からこの食べ物を知っていたみたいな顔で、周りに食べ方を教えている。
俺はそんなマカトを見ながら、少し笑った。
俺はマカトの母親らしき女性に、集落の空いている場所へ泊まらせてもらえないか頼んでみた。
すると女性は少し困った顔をした。
「私じゃ決められないさ。長老に聞かないと」
「長老?」
女性は頷き、そのまま俺を集落の奥へ案内した。
連れて行かれたのは、周りとほとんど変わらない簡素な小屋だった。むしろ少し古く見えるくらいだ。
「ここで待ってて」
そう言われ、俺は小屋の前でしばらく待つ。
やがて入口からマカトの母親が顔を出し、手招きした。
「入って」
俺は軽く頭を下げて中へ入る。
室内は薄暗く、中央付近に一人の老人が座っていた。
かなり痩せている。頬はこけ、腕も細い。ただ、目だけはしっかりしていて、こちらをじっと見ていた。
俺も勧められた場所に腰を下ろす。
「悠真と言います。はじめまして」
老人は少し間を置いてから頷いた。
「ワシはウシマルという」
「ウシマルさんですね」
老人――ウシマルは、俺の服装や荷物をゆっくり眺めてから、静かにこちらを見返した。
どうやら、ここからが本当の話になりそうだった。
俺はさっきと同じ説明を繰り返した。
「海の向こう側から来た旅人です。しばらくの間、この集落の空いている場所に寝泊まりさせてもらえませんか?」
ウシマルは黙ったまま俺の顔を見ていた。
もっと色々聞かれると思っていたが、しばらくすると小さく頷いた。
「よかろう」
「え?」
思わず聞き返してしまった。
「空いておる場所なら使えばよい」
あまりにもあっさりしていて、逆に肩透かしだった。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げる。
それから、少し考えて右手に持っていたナタを見る。
「それじゃ、これ。お近づきのしるしに」
俺はナタをウシマルへ差し出した。
ウシマルは少し驚いた顔をしたが、ゆっくり受け取る。
刃の部分を何度も眺め、指で触れないよう慎重に角度を変えながら観察している。
「ほう……」
柄を握り、軽く振ってみる。
そして満足そうに笑った。
「これは、よう切れそうじゃの」
「使ってください」
ウシマルは嬉しそうに何度も頷いた。
どうやら、泊まる場所だけじゃなく、少しは信用も得られたらしい。
そこへ、小屋の外から足音が聞こえてきた。
入口の布がめくられ、一人の男が入ってくる。
年齢は三十代後半くらいだろうか。
男は俺の姿を見るなり、足を止めた。
「……誰だ?」
かなり驚いている。
するとウシマルが、さっきまでの経緯を簡単に話してくれた。
海の向こうから来た旅人で、しばらく集落に泊まることになったこと。
俺がナタを渡したこと。
話を聞くうちに、男も大体事情を察したようだった。
ウシマルは手元にあったナタをその男へ差し出す。
「見てみい。悠真殿からもろうた」
男は受け取ると、すぐに刃をじっくり眺め始めた。
「これは……すごいな」
柄を握り、重さを確かめるように何度か持ち替える。
明らかに嬉しそうだ。
俺は軽く頭を下げた。
「悠真と言います。よろしくお願いします」
男もこちらを向き、少し表情を緩めた。
「俺はタルガニだ。ウシマルの息子だ」
「タルガニさんですね。よろしくお願いします」
タルガニはもう一度ナタを眺めながら、満足そうに頷いた。
どうやら、こっちとも悪くない関係で始められそうだった。




