第4話 1600年1月2日
朝。
俺はまだ薄暗いうちに目を覚ました。目を開けると、いつもの部屋の天井ではなく、見慣れない布地が目に入った。一瞬、自分がどこにいるのか分からず、そのままぼんやりと天井を眺める。
「……ああ、そうか。俺、キャンプしてたんだ」
少しして昨日のことを思い出した。ここは普通のキャンプ場じゃない。1600年の沖縄、大宜味あたりにある山の頂上だ。昨日は海岸から山を登り、周囲を確認したあと、この場所にテントを張った。夕飯にカレーを食い、満天の星を眺めて、そのまま寝袋に潜り込んだのだった。
寝袋の中で軽く体を動かす。外はまだ静かで、遠くから鳥の鳴き声が聞こえ、時折吹く風がテントの布を小さく揺らしている。
「何時くらいだ……?」
スマホを確認しようかと思ったが、その前に別の問題が気になった。
「……トイレ行きたいな」
山の中なんだから、その辺で済ませてもいい。昨日までの俺ならそうしていただろう。でも今は違う。俺にはもっと便利な方法がある。
「わざわざ外でする必要ないよな」
寝袋から抜け出し、テントの中で軽く伸びをする。そして心の中で念じた。
――現在に帰りたい。
その瞬間、目の前の空間が歪み、見慣れ始めた真っ黒な穴が現れた。
「ほんと便利だな、これ」
昨日はあれほど不気味だったブラックホールも、一日使っただけでだいぶ慣れてしまった。俺はそのまま中へ入る。パッと視界が変わり、見慣れた自分の部屋に戻ってきた。
「よし」
1600年の山の上から、ほんの一瞬で2026年の自宅だ。そのままトイレへ向かい、普通に用を足して手を洗う。たったそれだけのことなのに、冷静に考えるとかなりおかしい。四百年以上前の世界でキャンプをしていて、トイレに行きたくなったから現代へ帰ってきたのだ。
「文明最高だな」
わざわざ1600年の山の中で苦労する必要なんてない。使えるものがあるなら使えばいい。俺はトイレを出て、ブラックホールの前へ戻った。
そのまま中へ入る。真っ黒な空間。昨日まで何度も見た場所だ。
そして俺は足を止めた。
「……ん?」
何かが違う。
昨日までは静止画が一枚しかなかった。1600/01/01、それだけだった。ところが今日は、その隣にもう一枚ある。
1600/01/02
俺は二枚の静止画を見比べた。
「……増えてる?」
間違いない。昨日は一枚しかなかったのに、今日は二枚ある。昨日、1600年1月1日を朝から夜まで過ごし、山頂で寝て、目を覚ましたら1月2日になっていた。だから新しい日付が追加されたのだろうか。
「もしかして、1600年で一日過ごせば静止画が増えるのかな?」
あり得る。というより、今のところそれ以外の理由が思いつかない。俺はいったんブラックホールから出て、自分の部屋に戻った。
椅子に腰を下ろして考える。もし本当に日付ごとに静止画が増えていくなら、かなり話が変わってくる。一度過ごした日へ、あとから戻れる可能性がある。
「……試してみるか」
考えていても分からない。こういうものは実際に試すのが一番早い。
俺は立ち上がり、もう一度ブラックホールの中へ入った。二枚の静止画が浮かんでいる。1600/01/01と1600/01/02。
俺はまず、昨日の日付を選ぶことにした。
「1月1日に戻れるのか?」
1600/01/01の静止画へ手を伸ばし、指先で触れる。
パッ。
視界が一気に切り替わった。
「……お」
目の前には海が広がっていた。山頂ではない。昨日、最初に歩き回っていた海岸線だ。俺は周囲を見渡す。波の音、砂浜、木々。昨日見た景色と変わらない。
「マジで戻ってる?」
足元に目を向けた時、あるものが目に入った。
「……あ」
煙草の吸い殻。
しゃがんで見る。昨日、俺がここで煙草を吸った時に捨てたものだ。
「これ、俺のだよな」
見覚えがある。場所も合っている。つまり、適当な海岸に飛ばされたわけじゃない。昨日、自分が実際にいた場所だ。
「本当に1月1日のポイントに戻ってきたのか……」
俺は立ち上がり、もう一度周囲を確認した。景色は昨日と同じ。ただし、これだけでは本当に時間そのものが巻き戻っているのか、それとも昨日の場所へ戻っているだけなのかは分からない。
まあ、今の段階でそこまで考えても仕方ない。まずは戻れるか確認する。
――現在に帰りたい。
心の中で念じると、すぐに目の前へブラックホールが現れた。
「ほんとに何でもありだな」
俺はそのまま中へ入る。パッと視界が変わり、再び自分の部屋に戻る。
真っ先に時計を見る。
AM11時10分。
「……もちろん進んでない」
海岸まで行って、吸い殻を確認して、戻ってきた。向こうではそれなりに時間を使ったはずなのに、現代側ではほとんど時間が進んでいない。この現象については、もう驚かなくなってきた。
「じゃあ次だな」
俺は再びブラックホールへ入る。目の前には二枚の静止画。今度は新しく増えた方を見る。
1600/01/02
「こっちはどこに出るんだ?」
俺はその静止画へ手を伸ばした。指先が触れる。
パッ。
視界が変わる。
「……おお」
山頂。
目の前には昨日張ったテントがある。焚き火の跡、簡易リクライニングチェア、荷物。全部そのまま残っている。ついさっき、俺が寝袋から起きた場所だ。
「戻ったな」
俺は辺りを見回してから、思わず笑った。
「これはもう何でもありだな」
昨日の日付にも戻れる。今日の日付にも戻れる。しかも現代側では時間がほとんど進まない。どういう理屈なのかは全く分からないが、少なくとも自分にとって都合がいいことだけは間違いない。
「まあいいや。とりあえず用は足したし、朝のコーヒーだな」
ブラックホールの仕組みを考えるのもいいが、まだ朝飯すら食っていない。まずは目を覚ましたい。
俺は小さな鍋を取り出して水を入れる。バーナーに火をつけると、静かな山の上に小さな燃焼音が響いた。しばらくすると鍋の底から小さな泡が出始め、やがて湯気が立ち上る。
カップにインスタントコーヒーを入れ、熱湯を注ぐ。ふわっとコーヒーの香りが広がった。
「朝はこれだな」
簡易リクライニングチェアを出し、深く腰を下ろす。山の朝は思ったより冷える。両手で温かいカップを包み、そのまま一口飲んだ。
「ふぅ……」
体の中から温まる。昨日はブラックホールを見つけてから、何が何だか分からないまま一日が終わった。今日は少し落ち着いて考えられそうだ。
俺はコーヒーを飲みながら、さっき見た二枚の静止画について考える。
「ポイントの仕組み、どうなってるんだ?」
1600年1月1日を選んだら、昨日の海岸へ出た。1600年1月2日を選んだら、今朝起きた山頂へ出た。何かルールがあるはずだ。
昨日だけでも、俺は何度もブラックホールを使っている。最初に海岸から現代へ戻った。その後もう一度海岸へ行き、さらに山を登った。山頂から一度現代へ戻り、再び山頂へ戻って、そこで夜を過ごした。
「もしかして、その日の最初のブラックホールの場所がポイントになるのかな?」
昨日の日付を選んだら海岸へ出た。あそこは、俺が1600年で最初にブラックホールを使った場所に近い。そう考えれば筋は通る。
「その日の最初に戻った場所が記録されるとか?」
俺はコーヒーをもう一口飲んだ。
でもすぐに別の可能性が浮かぶ。
「いや……待てよ」
今日の1月2日のポイントは山頂だった。そして昨日は最後に山頂で一日を終えている。
だとしたら、その日の最後のブラックホールの地点が、翌日のポイントとして引き継がれている可能性もある。昨日最後にいた場所がこの山頂で、そこが1月2日のスタート地点として記録されたのかもしれない。
「その日の最後のブラックホールのポイントが、翌日のポイントになるのか?」
俺はカップを持ったまま考え込む。
「最初のポイントなのか、最後のポイントなのか……」
まだ分からない。そもそも、その二つのどちらでもない可能性だってある。日付が変わった瞬間にいた場所が自動的に登録されるのかもしれないし、俺が初めてその日を認識した場所なのかもしれない。
今ある情報だけでは判断できない。
「まあ、これは試していけば分かるか」
今日も何度かブラックホールを使うだろう。その上で明日、1600/01/03が追加された時にどこへ出るのか確認すれば、少しずつ仕組みが見えてくる。
俺はそう考えながら、残っていたコーヒーをゆっくり飲んだ。昨日までなら、こんな現象が起きるたびにいちいち驚いていた。でも今は違う。
日付ごとに戻れるらしい。現代へも自由に帰れる。向こうでどれだけ時間を使っても、現代ではほとんど時間が進まない。
「……本当に何でもありだな」
俺は一人で笑った。
まだ分からないことだらけだ。それでも、このブラックホールの使い方が、少しずつ分かり始めていた。




