第3話 1600年1月1日 その3
昼飯を食べ終えた俺は、食後の一服をすることにした。
ポケットからタバコを取り出し、火をつける。
「ふぅ……」
白い煙を吐きながら、あらためて周囲を見回した。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえる程度で、人の話し声も、何かを叩く音も、家畜の鳴き声すら聞こえてこない。
俺はリュックを引き寄せ、中から双眼鏡を取り出した。
レンズ越しに周囲をゆっくりと見渡していく。
山の斜面。
木々の隙間。
遠くに見える海。
海岸線。
何度か場所を変えて確認してみるが、やはり人影らしいものは見つからなかった。
「誰もいないな……」
双眼鏡を下ろす。
今日中に無理して人を探す必要もない。
そもそも、ここが本当に1600年の沖縄なら、現代のように道路沿いを少し歩けばすぐ誰かに会える、なんてことは期待しない方がいいだろう。
「まあ、今日はいいか」
俺は双眼鏡をリュックに戻した。
それよりコーヒーだ。
小さな鍋に水を入れ、携帯コンロで湯を沸かす。
やがて湯気が立ち始める。
インスタントコーヒーをカップに入れ、湯を注ぐ。
香ばしい匂いが鼻に届いた。
「これだよ、これ」
俺は折り畳み式の簡易リクライニングチェアを広げ、深く腰を下ろした。
温かいコーヒーを少しずつ飲みながら、ぼんやり空を見る。
昨日まで正月だった。
酒を飲んだり、ダラダラしたり、夜更かししたり。
そのまま今日はいきなり山を歩き回っている。
しかもただの登山ではない。
1600年の沖縄だ。
緊張していないつもりでも、知らないうちにかなり神経を使っていたらしい。
コーヒーを飲み終えた頃には、まぶたが重くなってきた。
「ちょっとだけ寝るか……」
椅子に体を預ける。
風が木々を揺らす音が心地いい。
そのまま俺は、いつの間にか意識を手放していた。
――寒っ。
体を震わせながら目を覚ます。
「うわ……何時間寝てたんだ俺」
沖縄とはいえ、一月だ。
昼間はそれなりに暖かくても、夕方が近づけば山の上は一気に冷える。
俺は椅子から起き上がり、両腕をこする。
「焚き火だな」
周囲から乾いた枝や落ちている薪になりそうな木を拾い集める。
適当な石を並べ、その中央で火を起こした。
しばらくするとパチパチと音を立てながら火が大きくなっていく。
俺は焚き火の前にしゃがみ込み、両手をかざした。
「ふぅー……暖かい」
生き返る。
やっぱり火は偉大だ。
空を見ると、太陽もだいぶ傾いていた。
「そろそろ夕方か」
今のうちに夕飯を作ってしまおう。
今日はもう動かない。
明日から本格的に周辺を調べるつもりだ。
俺は食材を取り出した。
「キャンプといえば……カレーだろ」
異論は認めない。
鍋を用意し、適当に切った野菜と肉を次々放り込んでいく。
水を入れ、火にかける。
あとは待つだけだ。
焚き火の前で時々鍋をかき混ぜながら三十分ほど煮込む。
肉にも野菜にも十分火が通ったところで、カレールーを投入した。
ゆっくり混ぜると、見慣れた茶色いとろみが出てくる。
漂ってくる匂いだけで腹が減ってきた。
「完璧」
さて。
次は飯だ。
米を炊こうとして、ふと手を止める。
「……いや、待てよ」
炊く必要あるか?
俺は現代に戻れる。
しかも現代側では、ほとんど時間が進まない。
「レンチンご飯持ってくればいいじゃん」
文明最高。
俺はカレー鍋を火から下ろし、蓋をした。
それから立ち上がる。
心の中で念じた。
――現在に戻りたい。
次の瞬間。
目の前の空間が歪み、見慣れ始めた黒い穴が現れた。
「はいはい、毎度どうも」
もう三回目ともなると驚きもしない。
俺はそのままブラックホールの中へ入った。
視界が一瞬暗転する。
そして――
「戻った」
自分の部屋だ。
俺はすぐ時計を見る。
AM11時。
「やっぱり進んでない」
ほぼ出発した時のままだ。
1600年では昼飯を食って、休憩して、昼寝して、夕方近くまで過ごした。
少なくとも数時間は経っている。
なのに現代ではほとんど時間が進んでいない。
改めて考えると、とんでもない能力だ。
だが今は考察より飯。
キッチンへ行き、パックご飯を一つ取り出す。
電子レンジに放り込み、スイッチを押す。
数分後。
ピッ。
温まったパックご飯を手に取る。
戻る前にもう一度時計を見る。
AM11時03分。
「三分か」
俺はパックご飯を持ったまま、再び1600年へ戻った。
景色が切り替わる。
焚き火。
テント。
椅子。
そしてカレー鍋。
全部そのままだ。
「よし」
パックご飯を開けて皿に移す。
その上から、たっぷりカレーをよそう。
湯気と一緒にカレーの匂いが立ち上る。
俺はスプーンですくって一口食べた。
「うっま!」
思わず声が出た。
山を歩き回ったあとだからなのか。
焚き火の前だからなのか。
それとも1600年の沖縄で食っているという異常な状況のせいなのか。
理由は分からないが、とにかく美味い。
俺は完全に無言になって、がつがつ食べ続けた。
「やっぱカレー最強だな」
気がつけば皿は空になっていた。
食べ終わる頃には、太陽はほぼ沈んでいた。
空が藍色へ変わっていく。
俺はふと顔を上げた。
「……おお」
思わず声が漏れる。
星だ。
とんでもない数の星が出ていた。
現代なら街の明かりでほとんど消えてしまうような小さな星まで、はっきり見える。
周囲に人工の明かりが一つもない。
街灯もない。
車もない。
家の灯りもない。
空一面が星で埋まっている。
「すげえな……」
満天の星空。
本当にその言葉通りだった。
しばらく俺は焚き火の前に座ったまま、空を眺めていた。
だが、だんだん体が重くなってくる。
今日は山頂を目指してかなり歩いた。
背負っていた荷物も軽くはない。
知らない土地で周囲を警戒し続けてもいた。
思っていた以上に疲れていたようだ。
「今日はもう寝るか」
明日は周辺をもう少し詳しく調べる。
できれば人の住んでいる場所も見つけたい。
俺は焚き火を安全な状態まで小さくしてから、テントへ入った。
寝袋に潜り込む。
「明日からが本番だな……」
そう呟いたところまでは覚えている。
その数秒後。
俺は、まるで電源を切ったように眠りへ落ちた。




