3話 ダシ…カツオブシ
朝。
王宮の厨房から、妙な音が聞こえていた。
ぐつぐつ。
ことこと。
そして――
「……まだですの?」
「殿下、もう少々お待ちください」
鍋を覗き込みながら、王女ミューシは腕を組んでいた。
「昨日、日本の料理人から教えていただいたのです。味噌汁の美味しさの秘密は、味噌だけではないと」
「はい」
「そして、その秘密が……」
料理長が鍋の蓋を開ける。
ふわり。
温かな香りが厨房いっぱいに広がった。
「この、ダシなのですね?」
「はい。今回は、昆布と鰹節を使っております」
「カツオブシ……」
ミューシは首を傾げた。
「魚を乾燥させたものから、こんな香りが出るのですか?」
「不思議でございますな」
「ええ……」
ミューシは興味津々だった。
小さな器に出汁を注ぐ。
「では……」
一口。
「…………」
ミューシの目が大きくなる。
「……美味しい」
「おお!」
「味噌を入れていないのに、こんなに美味しいのですか?」
料理長は嬉しそうに頷いた。
「これが、出汁の力でございます」
「なるほど……」
ミューシは器を見つめる。
「素材そのものの味を引き立てる……」
「はい」
「前に出すぎず、それでいて料理全体を支える……」
しばらく考えた後。
「……まるで、優れた騎士のようですわね」
「騎士?」
「ええ。自分が目立つのではなく、主君を支えるのです」
料理長は感心した。
「なるほど……」
「出汁とは、縁の下の力持ちなのですわ!」
ミューシは満足そうに頷いた。
しかし――。
「では、この出汁を使えば、もっと美味しい料理が作れるのですね?」
「もちろんです」
「……ふふ」
ミューシの顔に笑みが浮かぶ。
「料理長」
「はい」
「今日は一日、日本料理を作りましょう」
「……一日中ですか?」
「ええ!」
その日。
王宮の厨房は戦場になった。
「カツオブシを削ります!」
「昆布はこちらへ!」
「お米を炊いてください!」
「野菜を切ります!」
「殿下、次は何を?」
「天ぷらですわ!」
「天ぷら!?」
料理人たちが慌ただしく動き始める。
ミューシは日本で買った料理本を片手に、厨房を駆け回っていた。
「まずは衣を作って……」
「はい!」
「そして、この野菜を――」
「殿下!」
「何ですの?」
「油が跳ねます!」
「きゃっ!」
ミューシが飛び退く。
「……危ないですわね」
「ですから申し上げたのです」
「ええ。次から気をつけますわ」
しかし五分後。
「料理長! 次は私が揚げます!」
「殿下!?」
じゅわあああっ!
衣が油の中で弾ける。
「まあ……!」
ミューシは目を輝かせた。
「なんて綺麗なのでしょう!」
「殿下、油から離れてください!」
「大丈夫ですわ!」
ミューシは菜箸を握りしめた。
そして、揚がった野菜を皿へ移す。
「完成ですわ!」
さっそく一つ。
「……いただきます」
さくっ。
「…………!」
ミューシは固まった。
「殿下?」
「……これは」
もう一口。
「……これは、危険ですわ」
「危険?」
「ええ」
ミューシは真剣な顔で天ぷらを見つめる。
「美味しすぎますもの」
料理人たちから笑い声が起こった。
昼食。
王宮の食卓には、天ぷら、炊きたてのご飯、味噌汁、焼き魚が並んだ。
父王も驚いていた。
「ミューシ。これは本当にお前が?」
「はい、お父様」
「料理など、今までほとんどしたことがなかっただろう」
「日本の料理を知れば、作りたくなるのです」
父王は天ぷらを一つ取る。
「では……」
さくっ。
「……!」
父王も黙った。
「どうですか?」
「……美味い」
「でしょう?」
ミューシは嬉しそうに笑った。
「日本という国は、本当に素晴らしいですわ」
父王は味噌汁を飲む。
「しかし、最近のお前は日本へ行くたびに何かを持ち帰ってくるな」
「はい!」
「味噌、海苔、料理道具……」
「まだありますわ」
「まだあるのか?」
「はい!」
ミューシは嬉しそうに指を折る。
「お米。昆布。鰹節。醤油。それから――」
「もうよい」
「まあ、お父様!」
「王宮の倉庫が日本の食材で埋まるぞ」
「それは……」
ミューシは少し考えた。
「良いことではありませんか?」
「良くない」
その日の夕方。
ミューシは再び日本へ向かった。
目的は、新しい調味料を探すこと。
だが、街を歩いていると――。
「……?」
どこからか、香ばしい匂いが漂ってきた。
「この匂いは……?」
ミューシが振り返る。
そこには、小さな店があった。
店先から、醤油を焼いたような香りが漂っている。
「……これは、もしや」
ミューシの足が自然と店へ向かう。
店員が声をかけた。
「いらっしゃい。焼き鳥どうですか?」
「焼き鳥……?」
ミューシは串に刺さった料理を見る。
肉が香ばしく焼かれ、甘辛いタレが輝いている。
「……一本、いただけますか?」
「はいよ」
ミューシは受け取る。
そして、一口。
「…………」
数秒後。
「もう一本くださいませ」
「はい?」
「もう一本ですわ」
「ありがとうございます」
「……あと五本」
「五本!?」
「ええ」
ミューシは真剣な顔で頷いた。
「研究ですもの」
日本から戻ったミューシ。
王宮の厨房では、さっそく焼き鳥の研究が始まった。
「肉を串に刺して……」
「はい」
「醤油と砂糖を合わせて……」
「はい」
「火で焼く!」
じゅううううっ。
香ばしい匂いが厨房に広がる。
「おお……!」
料理人たちが歓声を上げる。
ミューシは焼き上がった串を持った。
「……いただきます」
ぱくっ。
「…………」
そして。
「うむ!」
ミューシは満足そうに頷いた。
「これも実に良いですわ!」
料理長が微笑む。
「殿下、日本料理がお好きなのですね」
「ええ」
ミューシは串を掲げた。
「日本の食文化、奥が深すぎますわ!」
その言葉の最後。
ほんの少しだけ、口調が変わっていた。
本人は気づいていない。
料理長も、まだ気づいていない。
だが――
ミューシの日本文化への傾倒は、食事だけでは終わらなかった。
翌朝。
ミューシは王宮の庭で、日本から持ち帰った木刀を振っていた。
「せいやっ!」
護衛騎士が目を丸くする。
「殿下……何をされているのですか?」
「日本の武士という方々の鍛錬ですわ」
「なぜ急に武士を?」
「料理だけではなく、日本の文化も学ぶべきでしょう?」
ミューシは木刀を構え直す。
「こうして……」
一振り。
「せいやっ!」
もう一振り。
「たあっ!」
護衛騎士は困惑した。
「殿下……」
「何ですの?」
「最近、少し変わられましたか?」
「そうでしょうか?」
「はい」
ミューシは首を傾げる。
「まあ、気のせいですわ」
そして木刀を肩に担ぐ。
「では、朝食にいたしましょう」
「何を召し上がるのです?」
ミューシは振り返った。
「決まっているでしょう?」
にっこりと笑う。
「白米と味噌汁ですわ」
――このとき、王女ミューシはまだ知らなかった。
自分の口調が、少しずつ変わり始めていることを。




