第25話 あなたの名前
第25話 あなたの名前
夜、さくらは静かな森の夢の中に立っていた。
風のない空間からふわりふわりと舞う光の粒たちが集まり形を成す。
目の前には、白髪の男――シルヴァス。
「こんばんは、さくら」
いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「今日は少しだけ、“切り口”を変えようか」
さくらは小さく頷いた。
「……切り口?」
もう何度も見てきた夢。
それでも、慣れきることはできない。
シルヴァスは少しだけ目を細める。
「ただし、これはあの子の“全部”じゃない」
「……はい」
そのやり取りのあと、世界が揺れた。
景色が歪み、森が消えていく。
代わりに現れたのは、小さな村だった。
乾いた土の道。
古い家。
静かで、どこか閉じた空気。
その中に、一人の少年がいた。
それは幼いセレン。
ボロボロの服。
無造作に伸びた髪の毛。
痩せた体。
彼は手にした小さな食べ物を、ゆっくりと口に運んでいる。
さくらの胸がきゅっと締まる。
でも、今回はいつもとどこか違う気配があった。
村の空気そのものが、重いのだ。
そこへ、遠くから声がした。
「……あの子のこと、聞いたか?」
「魔力が異常に強いとか」
「名前もわからない、親もいない」
「関わるな、危険だ」
さくらは眉をひそめる。
「……周りの人はセレンの名前も、知らないんですか」
シルヴァスは淡々と答える。
「必要ないからだよ、誰も呼ばない、だからいらない……」
セレンは何も反応しない。
ただ、食べている。
その静けさが、逆に痛い。
その時だった。
空気がわずかに変わる。
村の外れ。
黒いローブの集団が、ゆっくりと歩いてくる。
統一された足音。
無駄のない動き。
感情のない気配。
村人たちがざわつく。
「え……?」
「何だあいつらは」
さくらは息を呑む。
「あれは」
シルヴァスは短く言った。
「そう、教団だよ」
その瞬間、空気が冷たくなる。
教団の男たちは村人に視線を向けることもなく、まっすぐ前を見る。
その視線の先は――セレン。
教団の者たちはセレンの前に立つ。
見下ろす視線。
一人の男が、淡々と口を開いた。
「対象を確認」
セレンはゆっくりと顔を上げる。
「……なに?」
小さな声。
だが返ってくるのは、言葉ではなかった。
「回収する」
そう言って痩せたセレンの腕を掴み立ち上がらせる。
さくらは一歩前に出ようとして、止まる。
当然、届かない。
引っ張られたセレンに村人は誰も目を合わせない。
セレンは少しだけ周囲を見る。
村人たちは誰も助けないし誰も止めない。
沈黙。
それが答えだった。
「来い」
短い命令。
セレンは数秒だけ止まる。
でも――
抵抗はしなかった。
ただ、小さく頷く。
その瞬間、さくらの胸が締めつけられる。
(また、誰にも……)
その時だった。
教団の列の中。
一人の男が、ほんの一瞬だけセレンを見た。
他とは違う視線。
冷たさの中に、わずかな“興味”。
さくらはそれに気づく。
「……今の人」
シルヴァスは静かに言った。
「若い幹部だ」
さくらは息を呑む。
男は何も言わず、すぐ視線を戻した。
だがその目だけは――
確かにセレンを“見ていた”。
そうしてセレンは村を出る。
振り返らない。
誰も呼ばない。
風が、後ろから吹くだけだった。
さくらは拳を握る。
「……どうして……」
声にならない問い。
シルヴァスは答えない。
ただ、静かに見ている。
---
気がつくと、また森に戻っていた。
夜の静けさ。
淡い光。
さくらはしばらく動けなかった。
「名前を、呼ばれないんですね」
やっと出た言葉。
シルヴァスは頷く。
「必要ないからね」
あまりにも当然のように。
「誰も連れ去られるセレンを助けないし……」
さくらは唇を噛む。
「……セレンはそこにちゃんといるのに」
その言葉に、シルヴァスは少しだけ目を細めた。
「そうだね」
静かな返答。
さくらは何も言えなくなる。
ただ、胸の奥が痛い。
(あの子は……)
(最初から“いなかったこと”にされてる)
シルヴァスは少しだけ空を見上げる。
「次は、もっと“形が変わる”話だ」
その言葉に、さくらの背筋が冷たくなる。
「……はい」
それでも目は逸らさなかった。
知りたい。
そう思ってしまったから。
---
朝。
目を覚ましたさくらは、しばらく動かなかった。
「……セレン」
小さく呟く。
いつも通りに笑うあの人と。
名前を持たない過去の影。
その差が、胸に残る。
外に出ると、セレンがいた。
「おはよう、さくら」
変わらない声。
変わらない笑顔。
「セレン」
無意識に彼の名前を呼んでいた。
「どうしたの?」
呼べば当然のように返事をしてくれる彼。
「ぐっすり眠れたのでなんだかお腹が空いちゃいました」
セレンは笑いながら食卓にお皿を並べる。
「少し待ってて、もうすぐ出来るよ」
「いつもありがとうセレン、頂きます」
そう言ってさくらは食事を盛り付けるのを手伝う。
セレンはいつものように穏やかな笑顔を見せてくれる。
でもさくらは、少しだけ違う目で見てしまう。
(この人は……)
名前を、与えられなかった子。
さくらは小さく息を吐く。
誰も読んでくれなかった名前。
だったら私は何度でも呼ぼう。
私が知る。
優しい、この人の名前を。
「そうだ、おはようございますセレン」
その声は、確かに昨日よりも――
やさしかった。




