路地裏
どうしてあの日、私はあの路地へ足を踏み入れたのか。理由は思い出せない。ただ人混みが鬱陶しくなり、濡れた石畳に誘われるように歩いた――それだけのことだ。だが凡庸な一歩は、凡庸でない場所へ私を導いてしまった。
石畳は薄い水膜をまとう。そこに映る月光は刃の背のように冷たく光り、両脇の壁は煤け、窓という窓は板で塞がれている。耳を澄ませば、先刻まで背後にあった商店街のざわめきも消えていた。残っているのは、自分の靴底が石を叩く乾いた音だけであった。
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最初の角を曲がったとき、壁に一枚の板が打ち付けられていた。
――《人面犬》徘徊注意。咬傷については一切の責任を負いません。
――咬まれた場合は速やかに自己処理を行ってください。
――食べ残しの持ち込みは禁止されています。
私は立ち止まった。掲示の無機質な文言が、かえって血の気を奪う。笑えなかった。背後で爪の擦れる音がしたからである。
振り返ると、一匹の犬がいた。痩せこけ、濡れた毛並みが皮膚に張りつき、眼は濁っている。だがその首に据わっているのは人間の顔だった。唇がひくつき、犬の声で唸りながら涎を垂らしている。
「……腹が減った。少しでいい、噛ませろ。……お前も見ただろう、首無しの奴ら。拾った物は全部自分の物だと喚き散らす。規則だ規則だとうるさくて仕方がない」
愚痴を漏らしながら、獣じみた唸りを重ねる。私は踵を返し、闇の奥へ駆け出した。
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走る拍子に、ポケットから小物が飛び出し、石畳に転がった。慌てて拾い上げた瞬間、背後から声がした。
「……それ、落としたのはあなたですか」
一人の青年が立っていた。夏だというのに分厚いマフラーをぐるぐる巻き、喉から首にかけての線が妙に曖昧である。声は穏やかだが、発せられる場所が定まらない。胸の奥から漏れているような、不自然な響きだった。
「その石畳に落ちた時点で、それはもう我々のものだ。所有権は、落ちた瞬間に移るんだよ」
私は喉を詰まらせた。手の中の小物が異様に重い。青年はなお続ける。
「だが人面犬は規則を守らん。涎を垂らして拾い食いばかりだ。あれでは秩序も何もない」
壁に貼られた掲示が目に入った。
――《首無し人》の通路に近づいています。落とし物を拾わないでください。所有権を主張されます。
「……返してくれ」
マフラーの下の空虚を悟った瞬間、私は息を呑み、石畳を蹴った。背後から「返して……」という声が、首のない闇の奥から追ってきた。
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さらに進むと、すすり泣きが路地に滲んだ。女の嗚咽である。
「……待って。あなたも置いていかれたのでしょう?」
声はあまりに人間的で、胸を打つ。
掲示が告げる。
――《嘆き女》の出口が近接しています。泣き声に応答しないでください。返答すると同行を求められます。
彼女が振り向いた瞬間、背後を嗅ぎ回っていた人面犬が怯え、尻を巻いて逃げた。弱者の泣き声が、別の異形には捕食者の声に聞こえるのだ。私は耳を塞ぎ、返答を飲み込んで走り抜けた。
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掲示が新たに現れた。
――《影喰い》が活動中。立ち止まる者は捕食対象となります。走行を推奨します。
私は読み終える前に悟った。石畳に貼りついた自分の影が、遅れて動いている。輪郭は崩れ、蜘蛛の脚のように這い寄ってくる。走れば走るほど影は濃くなり、靴音に合わせて蠢いた。
息は焼け、心臓は肋を打つ。だが止まれない。止まったが最後、影に呑まれる。
角を曲がると、さらに掲示があった。
――《単眼鬼》出没注意。体躯は大きく、周囲の存在に無差別に攻撃します。巻き込まれないようご注意ください。
熊ほどもある巨体が路地を塞いでいた。胸の中央にひとつだけ光る眼があり、懐中電灯のように闇を裂く。その眼が私を射抜く。
巨腕が振り下ろされた。石畳が爆ぜ、破片が飛ぶ。私は身を翻した。だが背後から、影喰いが私の足首に伸びる。
轟音。
単眼鬼の掌が影喰いを鷲掴みにした。黒と毛むくじゃらの腕が絡み合い、咆哮が路地を満たす。壁が軋み、漆喰が雨のように崩れた。
私は粉塵を浴びながら這うようにしてすり抜けた。異形同士の闘争は、唯一の逃げ場であり救いだった。
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角を抜けた先、前方に人影が立っていた。月明かりに浮かび上がったその姿は、肩幅も、腕の角度も、指先の線まで妙に整っていた。まるでそこに誰かが待っているかのようだった。
だが壁の掲示が目に入った。
――《羽虫群れ》発生区域。眼を閉じて通過してください。視線を合わすと吸い込まれます。
私はその文字を読み終えるより早く、慌てて視線を逸らした。
すぐに、ざわりと空気が揺れる。羽音が押し寄せ、擦れる音が耳の奥を満たした。人影の形を保ちながら、無数の翅が蠢いている――見なくても分かってしまう。
私は視線を地面に固定し、歯を食いしばって走り抜けた。羽音は頭上を覆い、頬をかすめる風が生き物めいて触れてきた。だが決して顔を上げず、ただ石畳を蹴り続けた。
しばらくして羽音が遠のき、私は瞼を開けた。前方に提灯の灯が揺れている。
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前方に提灯の灯が揺れた。人影に掲げられているわけではなく、灯りそのものが宙に浮かんでいる。布に描かれた顔がにたりと歪み、口から長い舌が垂れ下がった。
だが声は、意外なほど丁寧であった。
「暗い道は危ないですよ。どうぞ、この灯りについてきてください。出口までお連れしますから」
壁に掠れた掲示が貼られている。
――《提灯お化け》接近中。声に従うと迷走します。決して後を追わないでください。
私は顔を伏せ、足を速めた。親切な声に安堵しかけた自分を恥じた。
そのとき、背後でざわめきが蘇る。羽虫群れが光に惹かれ、黒い影の人形となって押し寄せる。
「やめろ……私の灯に近寄るな! 触れるな、壊すな!」
提灯お化けは舌を振り乱し、灯を激しく揺らした。だが群れは黒い塊となって覆いかぶさり、光ごと呑み込んだ。
破ける布の音と羽音が溶け合い、路地を震わせる。
「寄るな……まだ道を……」
最後の言葉は、親切を装った口調のまま掻き消えた。
私はその隙に石畳を蹴り、走り抜けた。
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さらに進むと、右の壁が裂け、白い手がにょきりと突き出した。骨ばった指が「こちらへ」とでも言いたげにくねる。次の瞬間、その手はすっと闇に引っ込み、角の向こうへと消えた。
追うように角を曲がると、また別の壁から同じ手が突き出している。今度は左。指が揺れ、月光を受けて湿った爪が光った。まるで人間が先を案内するかのようだが、姿は一度も現れない。常に角の向こうから、ただ手だけが現れるのだ。
掲示が二枚並んでいた。
――異形の利用する出口を発見しても、決して立ち入らないでください。帰還は保証されません。
――代替出口をご利用の際は、案内者の指示に従ってください。途中離脱は禁止されています。保証は一切いたしません。
私は思わず足を止めかけた。
「……着いて行けば、戻れるのではないか」
そんな考えが頭をよぎる。掲示の文言も、それを裏付けているように思えた。最後まで従えば帰れるかもしれない、と。
その瞬間、先行する手はまた角を回り込み、次の壁からすっと現れた。見失えば最後――そう直感した私は、慌てて石畳を蹴り、手の示す方へ走った。
だが胸の奥で、墨字の一行が燻り続ける。――保証は一切いたしません。
冷ややかなその響きが、角を追うたびに濃くなり、息を詰まらせる。私は顔を伏せ、光の差す方角を必死に探しながら、その見えない案内人の後を追い続けた。
やがて前方に淡い光が差し込んだ。月明かりが路地を照らし、出口が近い。
最後の角に、一枚の板が打たれていた。
――この先、人間にご注意ください。
――人間は不安定で、危険を伴います。
私は息を呑んだ。これまでの掲示は異形の名を挙げ、規則を並べていた。だがここでは逆に、「人間」に注意が促されている。つまり、この先に待つのは異形の領域ではなく、人の世界。
背後では人面犬が唸り、裂け目からは眼と腕がなおも誘う。異形たちは互いを軽蔑し、喰い合いながら、なお私を追い詰めていた。
「……出口だ」
そう心で呟き、ただ前方の光へ駆け抜けた。




