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雨宿り

雨宿り――言葉としてはあまりに凡庸である。ふりしきる雨を避け、庇や木蔭でじっとやむのを待つ。ただそれだけの習慣。だが、凡庸な言葉ほど、ときに人の想像をかき立てる。雨宿りに集まるのは、果たして人間だけなのだろうか。


 その日の午後、私は偶然見つけた商家の軒に駆け込んだ。石畳は刃のように白く光り、瓦を叩く雨は、空の裂け目から溢れた血潮のように絶え間なかった。湿った土の匂いが鼻孔を突き、肩から滴る水が衣服を重くする。私はそれを払おうとして、ふと横に立つ影へ目をやった。


 マスクをつけた女であった。黒い傘を閉じ、白い布で口元を覆っている。目だけが涼しげに笑んでいるように見える。――いや、見えただけかもしれぬ。だが私の癖は、理屈を立てた直後に、それを踏みにじる。布の下で、その口は耳まで裂けてはいないか。雨を避けるふりをして、私の頬の皮膚の張りを量っているのではないか。もしこちらを振り向けば、薄紅の裂け目がゆっくりと開き、笑いながら歯列を晒すだろう。


 私は視線を逸らした。こうした妄想は、昔からの持病である。子供の頃、祖母が「雨の日の軒下には狐が棲む」と言った。その言葉に囚われて以来、私は雨のたびに土間に座り、軒を見張るようになった。そこに据えられた石や置物、時には通りがかる人影までもが、皆狐に見えて仕方なかった。傘の骨すら尻尾に思え、数えるごとに狐の群れに囲まれている気分になった。――以来、私の目に映るものは、決してそのままの形を保たない。皮膚の下には別の皮膚が、言葉の下には別の声が潜んでいる。人は人の顔を持ちながら、心は必ずしも人の形を取らない。そう思い始めると、私の内側の雨は、決してやむことがない。


 やがて、帽子を目深にかぶった男が駆け込んだ。傘はなく、肩幅は不自然に広い。濡れた上着の襟は獣の鬣のように逆立っている。顎を少し上げた拍子に、帽子の生地が突っ張った。――あれは角だ。帽子というものは、もし角を隠そうとすれば、これ以上ない道具である。もし彼が帽子を脱ぎ、こちらを振り向けば、黒曜石のような二本の突起が額から覗き、雨に磨かれて妖しく光るに違いない。そしてその目には、炎ではなく、むしろ濁った慈悲が宿っているだろう。角のある者は、案外、優しいのだ――そう想像して、私は苦く笑った。


 妄想は勝手に秩序を整える。裂けた口は笑い、角の男は慈悲深い。では、老人はどうか。軒の端で膝を抱える白髪の老人がいる。袖は濡れ、手の甲には斑が浮いている。老人は雨の向こうに遠い時代を見ているようで、胸の奥で長い溜息を育てていた。だが、壁に映る影は老人のものではなかった。犬とも狐ともつかぬ高い獣影が、老人の背から伸びている。――影は持ち主の心を映すと、誰かが言った。ならば、この軒に来たのは老人ではなく、その獣の方ではなかったか。言葉を抑えすぎた末に、獣を連れてしまったのだ。


 そこへ子供が駆けてきて、私の足もとに立ち止まった。掌には蛙が一匹、ぬめりとした緑が雨に磨かれて光っている。子供は見せびらかすように差し出すが、私が目を向けぬのを見て、不満げに唇を尖らせた。――だが、それは本当に蛙だろうか。あれは雨そのものの化身ではないのか。空から落ちるごとに形を変える水滴が、たまたま今は蛙を象っているだけではないのか。もし手を開けば、それはすぐにただの水へ戻り、石畳へ散るだろう。子供は泣くに違いない。だが泣くのは蛙を失ったからではない。かたちというものが、いとも容易く崩れると知るからだ。


 私はつくづく滑稽だと思った。人を見れば怪物を疑い、怪物を見れば理屈をこしらえる。怯えているのは誰でもなく、妄想に囚われた自分自身である。だが、眼を閉じる勇気もない。眼を閉じれば、妄想は闇の中でますます肥え太るからだ。


 雨音は絶えず針のように落ち、人々は無言のまま事情を抱えて立っていた。マスクの女は画面を覗き込みながら、布の下の裂け目と自分の顔の均衡を測っているように見える。帽子の男は角の付け根が痒いのか、肩を揺する。老人の影の獣は濡れた石畳を嗅ぎ、子供の蛙は息を潜める。――これほど多くの存在が、ひととき同じ庇を借りている。この偶然を「雨」と呼び、私たちは「宿る」と言う。宿るとは、束の間、他者の時間に自分の時間を挟み込む作法にほかならない。


 だが私は他者に宿ることができない。目に映るものはすぐに異形へ変わり、耳に届く声は内なる雑音にかき消される。私が恐れているのは彼らではなく、己の偏見である。偏見は雨後の竹の子のように生え、地面から私を突き上げる。私はその上に不安定に立ち、足を滑らせれば、すぐに土へ沈む。そう思うと背筋を冷たいものが這った。


 女がふいにマスク越しに言った。「よく降りますね」

 私は曖昧に頷いた。声は柔らかかった。柔らかいものほど、裂けているのではないかと私は想像する。裂け目の両端から声が湧くさまを思うと、笑いもぎこちなく歪む。


 帽子の男は小さな紙袋を老人に差し出した。「温かいのがいい」――袋から湯気が立った。角のある者はやはり慈悲深い、と私は勝手に納得した。都合よく頷く自分を、私はとがめない。反省すれば、何も見えなくなるからだ。私は見たくもないものばかり見ているくせに、見えないことはもっと嫌う。


 子供が蛙を差し出した。「触ってみる?」

 私は首を振った。指先にぬるりとした感触を想像しただけで、腹の底がむず痒くなる。「雨がやんだら放してやるといい」と答えると、子供は妙に大人びて頷いた。人は雨の下で、少し早く歳を取るのだ。


 やがて雨脚は細り、屋根の縁から滴る水は糸のように途切れがちになった。濡れた木の匂いの奥に、乾いた土の匂いが混じる。――やむ、と胸の内で呟いた。


 私は思い切って振り向いた。

 女も、男も、老人も、子供も。裂け目も、角も、影も、蛙も。――誰ひとりいなかった。庇の下には、最初から私ひとりしかいなかった。


 血の気が引いた。耳の奥で雨音が遠のく。石畳に残る靴跡は、私のものばかりだった。私は自分の靴先を見つめた。泥は濃く、形は私だけのものだった。柱に手を置くと、雨の冷たさが掌に沁みた。

 ――妄想だ、と私は言い聞かせた。妄想は濡れた衣服に似ている。着ている間は重く、肌に貼りつくが、脱げばただの布である。私は布を剝ぐように像を外していった。女の眼、男の肩、老人の影、子供の掌。像は足もとでぬらぬらと光り、やがて形を失って水に戻り、石畳の目地に沿って音もなく流れていった。


 それでも私は立ち尽くした。安堵と虚無が同時に胸を満たす。両者は混じり合い、境目を持たぬ液体になる。私は胸に境を引こうとしたが、指は濡れていて線はすぐ滲む。滲む線を眺めながら、ふと考えた。――もし雨宿りに来ていた「人でないもの」が、実は私だったとしたらどうか。人の群れに混じったつもりで、軒に迷い込んだ余計な影が私自身だったのではないか。余計な影だからこそ、他の影に交われず、最後に残ったのはこの影だけだった。


 私は笑ってみた。笑いは声にならず、唇の片端がひりりと裂けた。布はしていなかったが、その裂け目の感触は私にしか分からぬ確かな現実だった。


 「……やんだな」


 そう呟いて庇を離れた。石畳には私の靴跡だけが並ぶ。振り返れば誰かが立っている気がし、振り返らなければ誰もいない気がする。どちらも私には都合が悪かった。


 路地を曲がると、商家の表に赤い紙札が貼られているのが目に入った。「雨宿り可」と丸い字で書かれていた。確かに人の手の字だった。だが私は足を緩めなかった。雨宿りはもう終わった。終わったものを振り返るのは、いつだって少し遅い。


 街路樹の葉の先から最後の雫が落ち、私の肩に冷たい点を打った。私は肩をすくめ、何も言わずに前を向いた。


 雨宿り――やはり凡庸な言葉である。だが凡庸の裏には、いつも余計な影がぶら下がっている。私がそれを振り切る日は、おそらく来ない。来ないと知りながら、私は次の雨をどこかで待っている。次こそは誰かがいるうちにうまく話しかけられるかもしれない。あるいは、誰もいないうちにうまく黙っていられるかもしれない。いずれにせよ、雨が降れば、私はまたどこかの庇にちゃっかりと宿るだろう。――そのとき隣に立つものが人であれ人でなかれ、私の妄想は必ずその肩に雨粒を一つ置くに違いない。そしてその雨粒がすぐ乾いてしまうことを、私はいつも少し惜しく思うのである。


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