狼男
私は街の影に棲んでいる。
高架の下、廃れた倉庫の屋根、誰も足を踏み入れぬ裏路地。そこが私の眠る場所であり、飢えを耐える場所だった。
人々は気づかない。ネオンに酔い、笑い、吐き捨てるように言葉を交わしながら、そのすぐ脇を獣が這っていることに。
私は人間ではない。けれど、ただの獣でもない。
喉の奥に牙を隠し、胃袋に空洞を抱え、血と肉と骨を欲するもの。
夜ごとに私は人を喰った。
酒に酔った者を。終電を逃した者を。公園に沈んだ老人を。
肉は柔らかく、血は温かく、骨は甘美に砕ける。
だが、満たされることはなかった。喰えば喰うほどに、胃の内側は虚しく広がるばかりだった。
その夜も同じはずだった。
人気のない裏道に、ひとりの男がふらついていた。手にコンビニの袋、口には酒の匂い。私は影から飛びかかった。
首筋に牙を立てる――その寸前、鉄が唸りをあげた。
工事現場で拾ったのだろう、金属バットの一撃が脇腹を打ち砕いた。
骨が軋み、私は低く呻いた。続けざまに顔を狙った一撃が鼻梁をかすめ、視界に火花が散った。
私は呻きながらも離さなかった。
喉から唸りを洩らし、腕を掴み、牙を深く食い込ませる。
男は短い悲鳴を残して崩れ落ちた。
血を啜り、肉を裂き、骨を砕く。
静かな裏道に、咀嚼の音だけが響いた。
喰らい終えたとき、夜は依然として沈黙していた。
だが脇腹には鈍い痛みが残り、歩くたびに軋んだ。
「……痛てぇな」
口の端から低く笑いが洩れた。命に関わる傷ではない。だが、体はふらつき、夜の舗道に影を落とした。
私は影を選びながら歩いた。
壁に片手をつき、もう片手で傷口を押さえ、血の滴る音を聞きながら。
まだ動ける。だが、牙の奥で唾液に混じる鉄の味が妙に重く、歩幅はいつもより短かった。
やがて、街灯の届かぬ壁際に腰を下ろした。
背中をコンクリートに預け、脇腹を押さえながら息を整える。
「……ちょっと、フラフラするな」
夜気は冷たく、血の匂いがそれに混じった。
そのとき、靴音が近づいた。
雨に濡れた小さな足音が、静かな路地に響いた。
私は顔を上げた。そこに女が立っていた。
普通の人間なら怯えて逃げるはずだ。
だが女は足を止め、しばし私を見下ろした。
そして、ためらいがちに鞄を探り、白い布を取り出した。
――ハンカチだった。
彼女はそれを私の脇腹に押し当てた。
布はじわりと赤に染まった。
止血には程遠いが、その指先の温度は確かに伝わった。
「……大丈夫ですか」
女はそう呟いただけだった。
私をただの倒れた人間と勘違いしたのだろう。
だが、私にとっては違った。
それは、生まれて初めて与えられた温もりだった。
女はハンカチを残したまま立ち去った。
残されたのは血に濡れた布と、指先の温もりだった。
その瞬間から、私は彼女を忘れることができなくなった。
それからの日々、私は人を喰った。
だが、すべて灰の味だった。
肉は紙屑のようで、血は水のようで、骨は砂のようだった。
舌は味を失い、喉を通しても虚しさばかりが残った。
どれほど牙を立てても、あの夜の温度には及ばなかった。
街を歩くたび、私は彼女の姿を探した。
ガラスの反射に幻を見る。電車の窓に影を見出す。広告の白地に横顔を思い描く。
幻であると知りながら、胸は疼き続けた。
胃袋の飢えではなく、皮膚の下に残った温もりこそが私を焦がした。
欲する心だけが、私を生かしていた。
数日後、私は再び彼女を見つけた。
大通りの信号待ち。赤に照らされた横顔。
その瞬間、胸が裂けるほどに震えた。
――やっと、会えた。
心臓は早鐘を打ち、喉は鳴った。
だが、今までの飢えとは違う。
彼女を喰らいたいのか、抱きしめたいのか、自分でも分からなかった。
手を伸ばせば届く。だが、その手で彼女を掴めば、骨が砕けることを私は知っている。
私の掌は温もりを与えることができず、ただ奪うことしかできない。
信号が青に変わり、群衆は歩き出した。
私は影のように彼女を追った。
背中が近づくたび、胸の奥で相反する声が響いた。
――このまま見つめるだけにしておけ。
――いや、もう一度あの温度を確かめろ。
私は笑った。どちらも正しく、どちらも間違っていた。
駅裏の暗い路地に入ったとき、彼女は振り返った。
その瞳に私は映った。
ああ、やはり彼女は私を見ている。誰もが私を見ぬふりをするこの街で、彼女だけが。
それだけで私は歓喜した。
だが同時に、喉の奥で牙が疼き、唾液が滴った。
近づきたい。触れたい。
だが、触れた瞬間に壊すだろう。
愛おしさと渇きが渦を巻き、胸を引き裂いた。
「……やっと、会えた」
声が漏れたのは、自分でも意識せぬことだった。
だが次の瞬間、私は彼女の肩を掴んでいた。
細い骨が掌で軋む。女の瞳が見開かれる。
――ああ。やはり私は奪うしかできない。
涙が頬を伝う中で、私は彼女を喰らった。
血は炎のように熱く、肉は蜜のように甘く、骨は清らかに砕けた。
これまでの誰よりも、彼女は美味であった。
だからこそ、涙は止まらなかった。
街は何事もなかったかのように続いていた。
ネオンは瞬き、車は走り、人々は笑っていた。
その中で、私は彼女を胃の底に抱え、再び影へと沈んでいった。
噛み砕いた瞬間から、後悔は胸を焼いていた。
あの指先の温もりを、私は自ら壊したのだ。
与えられたものを返すどころか、ただ奪い尽くした。
残されたのは、血に濡れた記憶と、取り返しのつかぬ空虚だけだった。
だが同時に、私は知っていた。
――これほど鮮烈な味は二度と訪れぬ、と。
骨の軋む音、肉の甘美、血の熱。すべてが胸の奥で混じり合い、私を縛りつけていた。
忘れたくとも忘れられぬ。
それは後悔であり、悦楽であり、呪いであった。
これから先、誰を喰らおうと同じだろう。
肉は紙屑に、血は水に、骨は砂にしか思えまい。
私の舌は、もはや彼女の味以外を拒むのだ。
夜の街を徘徊し、幾度牙を立てても、私は再びあの味を探すだろう。
見つからぬと知りながら。
取り返せぬと知りながら。
ふと、懐に重みを感じた。
そこには、あの夜、女が置いていった血に濡れたハンカチがまだあった。
乾いた布地は鉄の匂いを残し、指先に触れるたび、あの温もりを呼び戻す。
私はそれを捨てることができなかった。
捨てれば自由になれたのかもしれぬ。
だが私は、永遠にその布切れに縛られて生きていくだろう。
――欲する心だけが、確かに私を生かしていた。
だが、その心が何であったのか。
答えを知る術は、もはやなかった。




