筆箱のおまじない
少し長めです
転校を繰り返す生活には、いつしか慣れてしまった。最初のうちは、机を並べ替えるたびに胸の奥に小さな棘のような痛みが刺さったが、十度目ともなれば痛みは麻痺し、ただ新しい景色を受け入れるだけの習慣に変わっていった。
今回の学校も例外ではなかった。教室の窓から見える川は、どこにでもある川に見えたし、黒板に残る白い粉も見慣れた光景の一つに過ぎなかった。
ただ一つだけ、違うことがあった。
それは「おまじない」と呼ばれるものだった。
教室に入って間もなく、僕はそれを耳にした。昼休みのざわめきの中で、女子の一人が小声で囁くのを偶然聞いたのだ。
――好きな相手の髪の毛を筆箱に入れておくと、いつか必ず結ばれる。
あまりに幼稚で、そしてどこか不気味なその話は、まるで夏の日の怪談のように僕の耳にまとわりついた。信じるには馬鹿げているが、子供たちの間に漂う空気には抗いがたい重みがあった。
標的となっていたのは、一人の男子だった。
顔立ちが整い、背筋は真っすぐ、走れば誰よりも速く、声をかければ誰にでも笑顔で返す。性格まで申し分がなく、先生からも同級生からも好かれていた。皆が彼と仲良くなりたがり、彼と一言でも多く交わそうとする。そんな人物が、転校してきてまだ半年しか経っていないというのだから、不思議なものである。
僕と彼は奇妙な縁で、同じ「転勤族」だった。そのことがきっかけとなり、自然に言葉を交わすようになった。彼は誰とでも友達になれる少年だったが、同じ境遇にある者への親しみは、やはり特別に感じられたのかもしれない。
ところが、僕はすぐに気づいた。
クラスの女子のほとんどが、彼の髪を一本ずつ筆箱に忍ばせていることに。いや、女子だけではなかった。男子までもが、同じことをしているらしいのだ。授業中、ふと目をやると、皆が自然な仕草で筆箱に手を伸ばし、どこか安堵のような笑みを浮かべていた。
その光景は、僕の目には異様なものと映った。
髪の毛一本に縋る姿は、まるで筆箱そのものが神棚であるかのようだった。そして、クラス全体が一つの儀式に取り憑かれているように思えた。
不思議なのは、彼自身が少しずつ傷ついていったことだ。あるときは階段から転げ落ち、あるときはドアに挟まれ、あるときは転んで膝を擦りむいた。些細な怪我が絶え間なく積み重なり、彼の身体は日に日に痛々しい痕に覆われていった。
それでも彼は笑っていた。痛みを隠すように、むしろ誇るかのように。だが、その笑顔の裏にかすかな疲弊の影があることを、僕は見逃さなかった。
僕の頭に浮かんだのは、神社の片隅で見た藁人形だった。
藁に人の髪が入れられ、打ち込まれる五寸釘。筆箱にしまい込まれた髪の毛が、何故かそれと重なった。
小学生の筆箱など、すぐに角が擦れてほころぶ。布地も破れ、ファスナーも壊れる。もしこれが藁人形だとすれば、筆箱が傷つくたびに彼の身にも傷が増えるのかもしれない。
ある日、帰り道の川辺で、僕はボロボロになった筆箱を見つけた。水を吸って沈みかけていたその姿は、まるで屍のように見えた。僕が手を伸ばそうとすると、風が吹き、筆箱は川の流れに攫われて消えてしまった。
翌日、彼の身体には新しい痣がいくつも増えていた。誰もそれを不思議に思っていないかのように振る舞ったが、教室の空気は明らかに違っていた。皆が彼に視線を向けていたのだ。それは憧れや好意の光ではなく、もっと不気味な、暗い光を帯びていた。まるで彼が少しずつ削られていくのを、全員で共有しているかのようだった。
僕は恐ろしくなった。
これは恋のおまじないなどではない。もっと別の、得体の知れない儀式のように思われた。
放課後、昇降口で靴を履き替えていたとき、彼が急に声をかけてきた。
「なあ……お前、俺の髪。筆箱に入れたりしてないよな?」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
「入れてないよ」と即座に答えた。だが、自分の声が頼りなく震えているのが分かった。彼はじっと僕を見つめ、その瞳はどこか探るようだった。僕の返事を計るように、しばし沈黙が続いた。やがて彼は小さく「ならいい」とつぶやき、視線を逸らした。
その瞬間、僕は今朝のことを思い出した。
母にせがんで新しい筆箱を買ってもらい、古いものは机の引き出しに放り込んだのだった。角は擦り切れ、布地は破れ、ファスナーは動かなくなった、ボロボロに疲弊した筆箱。――嫌な想像が頭をよぎる。
けれど、いま僕の手元にあるのは新品だ。黒地に赤い縁取りの、まだ匂いすら新しい筆箱。僕は無意識のうちにファスナーを開いた。
中には、鉛筆や消しゴムと並んで、細い一本の黒い毛が横たわっていた。
――誰のものなのか。
考えるより早く、背筋に氷の刃を突き立てられたような戦慄が走った。
僕は慌ててファスナーを閉めた。だが、耳の奥には彼の問いが残響のようにこびりついていた。
「お前、俺の髪……筆箱に入れたりしてないよな?」
その声が、まるで筆箱そのものから漏れてくるように思えた。




