石畳の下
黒い影は、夕暮れの石畳に舞い降りた。
影の眼は常に冷ややかであった。往来を行き交う人々の動きを、余さず観察している。その眼には、善も悪も映らない。ただ落ちてくる一片の肉片、捨てられる皮袋、こぼれ落ちる果実の芯。それだけが、価値のすべてであった。
影は首をかしげ、時折嘴を鳴らした。乾いた音は、風に紛れて人間の耳には届かぬ。しかし、それは彼の腹を満たす予兆のように響いていた。
人間という器は、いともたやすく欠ける。
ふとした隙に財布を落とし、空腹の子供が握り飯を取り落とす。酔漢が座り込み、懐の食い物を道端に散らす。影はただ、それを待つだけでよい。
その日、影は見つけた。
石段の下に、布切れのように横たわるものを。
それは老いた人間であった。
皮膚は乾き、痩せた頬は骨の形を露わにしている。わずかに開いた口からは、かすれた呼吸が洩れていた。その衣服はぼろぼろに擦り切れ、もはや色も分からぬほどに汚れている。
影はゆるやかに男の周囲を歩んだ。歩みといっても、地を這うのではない。広げた翼で、石畳を撫でるように移動するのだ。影の眼には、この老いた肉体が、今まさに崩れ落ちようとする朽木のように映っていた。
男は生きていた。
だが、それは生命と呼ぶにはあまりに脆い。
――餌が見つかった。
影は嘴を鳴らした。その音は夕闇の中で微かに響き、誰に気づかれることもない。影はただ、その崩れかけた器が完全に砕け散るのを待つだけであった。
往来をゆく人間たちは、ちらりと視線を投げるにとどまった。
若い娘は唇を歪め、あからさまに嫌悪を示した。
商人は顔を逸らし、忙しげに足を速める。
中には、軽蔑を露わに吐き捨てるような眼差しを残す者もいた。
誰ひとり、布切れと化した男に手を差し伸べる者はいない。
彼らにとって、それは同じ人間ではなかった。
影はそれを観ていた。
彼らの冷淡を、冷淡に観察していた。
ただ、腹を空かせた影にとって、無関心と軽蔑のあいだに差などなかったのである。
老いた男の胸は、浅い潮のように上下していた。
その波は、今にも途絶えそうに弱々しい。影はその様を、石畳に張りつくような静けさで見下ろしていた。
男の眼はすでに閉じられていた。まぶたの下に宿る意識は、夢か現かも分からぬ。時折、喉の奥から洩れる呻きは、言葉にはならなかった。ただの風音に近いそれは、誰にも届かない。
通り過ぎる人々の眼差しは、ますます冷ややかになっていく。
若者は足を止めず、嘲笑のように口笛を吹き去った。
女は振り返りもせず、ただ裾を翻して歩を速めた。
老いぼれた乞食の呼吸など、彼らには塵芥に等しかった。
しかし影は、違った。
影はその男を凝視していた。
骨ばった腕の震え、乾いた唇の痙攣、痩せこけた胸がわずかに上下するのを飢えた眼で、執拗に追っていた。
影は飢えていた。
だが、ただ飢えているだけではなかった。
その崩れゆく人間の姿に、どこか説明のつかぬ哀れみを抱いてもいた。
――己だけがこの最期を見るのか。
それが哀れみでなくて何であろう。
いや、ただ死肉を待つ獣の心に過ぎぬのかもしれぬ。
影自身にも、その区別はつかなかった。
やがて、男の呼吸が途切れた。
胸の波は完全に止まり、口元から吐き出された最後の息が、冷たい夜気に散った。
その瞬間、往来の人々は誰も気づかなかった。
誰も振り返らず、誰も立ち止まらず、ただ足音と車輪の響きが石畳を震わせていた。
影は一度、翼を大きく広げた。
そして、嘴をカチリと鳴らした。
乾いたその音は、死者への鎮魂でもあり、獲物への祝辞でもあった。
影はもう一度鳴らし、闇に沈む男の傍らへ静かに歩み寄った。
その動きは、夜の帳に紛れるように滑らかであった。
往来を行き交う誰もが、もはや気に留めることはない。
彼らの無関心と軽蔑をよそに、影だけがただひとりその死を見届け、次の瞬間を待ち構えていた。
人は己の同類を軽蔑し、見捨てる。だが、影は飢えのままに、せめてその死を見届けた。
――果たして、どちらが……
石畳の上に広がる沈黙の中で、影の黒い眼が、冷たくも飢えた光を宿していた。




