10 キライの向こう側…での旅
夏の夕暮れ。渡り廊下に響いていた彩花と陽人の賑やかな声がふっと途切れた時、足元の影から「にゃあ」と透き通った鳴き声が上がった。
振り返ると、夕陽を浴びて黄金色に輝く一匹の三毛猫が座っていた。鍵型に曲がった尾をゆっくりと揺らし、大きな瞳でふたりをじっと見上げている。
「うわっ……! 猫……? いつからそこにいたんだよ」
陽人が驚いて目を丸くすると、彩花は真っ赤な顔のまま膝を落とした。
「かわいい……。どこから入ってきたんだろう」
三毛猫は警戒する素振りもなく、彩花の手元にトコトコと歩み寄ると、自分の頭を「ごん」と彩花の指先に押し付けてきた。
「ふふっ、すごく懐っこい……。冷たい影の中にいたのに、すごく温かいな」
「本当だな。……ってか、俺たちが真剣に話してるの、ずっと聞いてたのか? 『不倫してるんだって思い込んでたの』とか『嫌いじゃない』とか、全部?」
陽人が顔を赤くして頭を抱えると、三毛猫はどこか可笑しそうに「にゃあ」と短く鳴いた。
「おい、笑ってないかこの猫! 理由もわからず嫌われてた俺の切なさをバカにしてるだろ!」
「そんなことないよ、陽人。この子、ふざけてるんじゃないよ」
彩花は胸の奥がすーっと軽くなった温もりを感じながら、三毛猫の背中を優しく撫でた。
「お名前、なんていうのかな?」
彩花が問いかけると、三毛猫は胸を張り、はっきりと答えた。
「ミャア」
「えっ……? いま『ミャア』って言った?」
陽人が身を乗り出して猫の顔を覗き込む。
「ミャア」
もう一度、誇らしげに鳴く三毛猫。
「あはは! ミャアちゃんっていうんだ! すごいね、自分で名前が言えるんだね!」
彩花が嬉しそうに微笑むと、ミャアは「ゴロゴロ……」と喉を鳴らしながら、陽人の制服の裾にもすりりと体を寄せた。
「ミャア……か。なんか不思議な奴だな。俺たちの気まずい空気を消しに来てくれたみたいだ」
陽人が照れくさそうに鼻の頭をかきながらミャアを撫でると、ミャアは二人の手を交互に鼻先でちょんとつついた。
「ねえ、陽人」
「ん?」
「私、ずっと誤解で陽人のこと避けてて……自分の勝手な決めつけで傷つけてごめんなさい。でも、陽人が『今こうして話してくれたの、俺は嬉しいよ』って言ってくれて……すごく救われたの」
彩花の瞳に、夕陽を映した小さな涙が浮かぶ。
「だからさっきの……陽人が言ったこと」
「え? ……あ、『そのうち“好き”って言わせてみせる』ってやつ?」
陽人がニヤリといたずらっぽく笑うと、彩花はぽっと顔を赤くしながらも、まっすぐに陽人を見つめ返した。
「うん。……負けないからね」
「なっ……! 負けないってどういう意味だよ!」
「ふふっ、ひみつ!」
ふたりの弾けるような笑顔と笑い声。
ずっと胸を縛っていた「キライ」という誤解の壁が壊れ、ゼロ距離へと縮まった甘酸っぱい空間を、ミャアは満足そうに目を細めて見つめていた。
「にゃあ」
ミャアがひと声力強く鳴くと、スッと立ち上がり、夕空が広がる渡り廊下の先へと歩き出した。
「あれ……? ミャアちゃん、行っちゃうの?」
「そっか。お前も『旅の途中』なんだな」
陽人が悟ったように優しく微笑む。
「ミャアちゃん、ありがとう! 私たちの誤解を解く背中を押してくれて!」
彩花が手を振ると、ミャアは足を止め、鍵型の尻尾をフリフリと振りかえした。
そのまま、茜色のグラデーションが広がる校舎の影へと吸い込まれるように去っていく。
ふたりはそっと肩を並べながら、ミャアの小さな後ろ姿を愛おしそうに見送った。
「……行ったね、陽人」
「ああ。……さてと、彩花。これから毎日、放課後は一緒に帰るぞ」
「えっ……! ど、どうして急に!」
「『嫌いじゃない』んだろ? ゼロ距離なんだから、遠慮すんなって!」
渡り廊下に、ふたりの新しい日常を告げる足音が心地よく響き渡っていった。
校門を出たミャアは、夕暮れの街を軽やかに走り抜けた。
中学生たちの素直な「好き」の芽生えを見届けたミャアの足は、いつしか冷たい雪が舞い散る、国も時代も違う古い下町の路地へと引き寄せられていく。
そこは煤煙と生の熱気が交差する場所——。
「さすらいのロザリー」たちの、温かな帰る場所が待つ物語の舞台へと、ミャアは静かに足を踏み入れていくのだった。




