【下剋上編】 第八段 出雲・尼子経久、月山富田城を奪還すること
【下剋上編】 第八段 出雲・尼子経久、月山富田城を奪還すること
-------------------
伊豆で早雲が謀をもって城を奪ったという話を書いたが、西国にもまた、それに劣らぬ知略をもって城を取り戻した男がいる。しかも、その手口が実に人を食ったものだったので、書き記しておこうと思う。
________________________________________
篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
出雲国、京極家の守護代を務め候尼子経久なる者、寺社領の押領などの罪により、文明十六年、月山富田城を追われ、代わりて塩冶掃部介なる者、城主の座に就き候。経久、我が身の母の生家に潜み、雌伏の日々を送り~~~~~
________________________________________
現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
出雲国で京極家の守護代を務めていた尼子経久という人物は、寺社領を横取りするなどの罪によって、文明16年(1484年)に月山富田城を追われ、代わって塩冶掃部介という者が城主の座に就きました。経久は自分の母の実家に身を潜めて、雌伏の日々を送っていたそうです。
文明18年(1486年)の正月、経久は鉢屋一党という芸能の集団に扮して、70人ほどを引き連れ、新年の宴に乗じて城の中に忍び込みました。「万歳楽」という舞を演じると偽って城兵の油断を誘い、太鼓や囃子の音に紛れて長屋に火を放ち、その混乱に乗じて塩冶掃部介を襲いました。掃部介はなす術もなく、まず妻子を手にかけてから、自分も命を絶ったそうです。
こうして経久は、わずか2年の雌伏を経て城を取り戻しました。芸人に扮して敵を欺くというのは、我が知る武士の作法とはまるで違うものですが、これもまた、力を失った者が力を取り戻すための一つの知恵と言うべきなのでしょうか。
________________________________________
城一つを奪い返すために、二年もの間、身を潜めて機を待つ。その執念深さには、我も舌を巻く思いがする。だが、その最後の手口が、正々堂々の合戦ではなく、芸人に扮しての奇襲だったというのは、何とも複雑な気持ちにさせられる。塩冶掃部介の妻が、我が子を手にかけてから自ら果てたという話も、あまりに痛ましい。下剋上とは、こうして誰かの城を奪う裏で、必ず誰かの家族が犠牲になるものらしい。




