【下剋上編】 第七段 越前・朝倉家の下剋上
【下剋上編】 第七段 越前・朝倉家の下剋上
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ふと越前国に目をやると、いつのまにか、あの応仁の乱の頃から続く争いの果てに、一つの家が実質的にこの国を治めるようになっていた。朝倉家という。守護でもないのに、守護のごとく振る舞うこの家について、少し詳しく調べてみようと思う。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
越前国、もとは斯波家の守護国にて候えども、かの応仁の乱の折、斯波家の被官たりし朝倉孝景なる者、西軍より東軍へと寝返り、その功により、越前一国の支配を事実上任さるる由の御内書を幕府より得候。以来、朝倉家、守護代の身分のままにて、実質は一国の主として振る舞い~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
越前国は、もともと斯波家の守護国でしたが、あの応仁の乱の際、斯波家の家臣だった朝倉孝景という人物が、西軍から東軍へ寝返り、その功績によって越前一国の支配を事実上任されるという内容の書状を幕府から得ました。以来、朝倉家は守護代という身分のまま、実質的には一国の主として振る舞うようになりました。
孝景は亡くなる前、息子の氏景に宛てて家訓を書き残しました。その中に「朝倉家では、重臣の地位を固定してはならない。その者の能力と忠節によって役目を申し付けるべきだ」という一条があります。家柄や血筋にかかわらず能力のある者を用いよという教えで、これはまさに下剋上の世にふさわしい考え方だと思いました。
孝景の後、息子の氏景、孫の貞景と代を重ね、現在の当主・貞景は、今回の明応の政変では細川政元に協力して、義材を捕らえる働きをしました。ですが、義材が後に越中・越前へと逃れて来た際には、これを丁重にもてなしつつも、上洛のための兵は貸しませんでした。どちらの陣営にも肩入れしすぎず、越前一国の安泰を第一に考える、実に抜け目のない身の処し方だと見受けられました。
主家の斯波家は、今では名ばかりの守護になってしまい、実権はことごとく朝倉家の手にあります。こういうことを見ると、下剋上というのは必ずしも一戦で主家を討ち滅ぼすことだけを言うのではなく、こうして緩やかに、しかし確実に力の所在が入れ替わっていくものもあるのだと、改めて知りました。
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京で将軍が挿げ替えられ、伊豆で一国が奪われる。そういう派手な事件ばかりに気を取られていたが、越前のように、誰も血を流すことなく、静かに力が移り変わっていく例もあるのだと知った。むしろ、こちらの方が長続きするのかもしれない。朝倉貞景という男の、どちらの陣営にも深入りしない身の処し方は、したたかな知恵に思える。




