【下剋上編】 第二段 明応の政変
【下剋上編】 第二段 明応の政変
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これは正直、我自身まだ頭の整理がついていない出来事だ。将軍が、よりにもよって家臣の手で挿げ替えられるとは。しかも、その企みに加わっていたのが、あの富子殿だったというのだから、我は驚きを隠せない。だが、そこに至るまでの二十年ほどの間にも、色々なことがあった。まずはその移り変わりから書いておこうと思う。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
文明六年より後、義政と富子の子・義尚、九代将軍として世に立ち候えども、長享三年、近江六角討伐の陣中にて病を得、二十五歳にて身罷り候。義政もまた翌年に身罷り、義視もまた程なく世を去り候。世継ぎなき富子、甥にあたる義視の子・義材を還俗させ、十代将軍に据え候えども~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
文明6年(1474年)以降、義政と富子の子である義尚が9代将軍として世に立っていましたが、長享3年(1489年)、近江の六角氏討伐の陣中で病を得て、25歳の若さで亡くなりました。実子を失った富子は、甥にあたる義視の子・義材を還俗させ、10代将軍に据えました。義政もまた翌年に、義視もまた程なく世を去り、この頃には応仁の乱を戦った当事者たちが、ほとんど下界から姿を消していました。
さて、明応2年(1493年)4月、管領の細川政元は、この義材が河内へ出征している隙を狙って、京都で挙兵しました。義材の縁者の屋敷を次々と襲い、代わりに堀越公方の子である清晃を還俗させて、義澄と名乗らせて将軍の位に据えました。
この企ては政元1人の謀ではなく、富子殿もこれに深く関わっていたそうです。義材が政元との対立を深め、政元への依存を減らそうと他の大名を頼るようになったころから、富子殿もまた義材との間に隙間風が生じ、ついには政元方についてしまったようです。実の子を失った後、甥を将軍に立ててまで守ろうとした富子殿が、今度はその甥を見限ることになったとは、何とも皮肉な話です。
河内で孤立した義材は自害を図りましたが果たせず、捕らえられて京都に送られ幽閉されることになりました。こうして将軍の位が、実力によって挿げ替えられてしまいました。家臣が将軍を廃するなど、これまで下界では聞いたことのない出来事です。
私が見るところ、この一件は畠山家・斯波家の内紛や、応仁の乱そのものよりも、さらに恐ろしい意味を持っていると思います。あの時はまだ「将軍」という座そのものは誰も侵さない神聖なものとして扱われていましたが、今回は、その座自体が、力ある者の都合で自由に入れ替えられるものになってしまいました。
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かつて我は、富子殿の蓄財を「幕府の屋台骨を支えるためのもの」と、いくらか好意的に書き記した覚えがある。その見立ては、あるいは正しかったのかもしれない。だが、今回のこの一件を見ると、富子殿もまた、時と場合によっては、力ずくの政に手を染める人だということが分かる。実子を失い、甥を立て、その甥をも見限る。この二十年の富子殿の歩みを思うと、人というのは、一面だけでは語りきれぬものらしい。




