【下剋上編】 第十五段 三好元長、家を再興すること
【下剋上編】 第十五段 三好元長、家を再興すること
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之長討たれ、澄元も病に斃れた後、三好家はどうなるかと思いきや、之長の孫にあたる元長という若者が、家を継ぎ、粘り強く再興を図っていった。今回は、その顛末を書いておこうと思う。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
三好元長、文亀元年の生まれにて、之長の孫にあたる者に候。父・長秀、元長九歳の折すでに討死いたし候ため、之長の跡を継ぐべき身は元長一人となり候。永正十七年、之長処刑され候折、元長二十歳。以来、澄元の遺児・六郎(後の晴元)を阿波にて庇護しつつ、雌伏の日々を送り~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
三好元長は文亀元年(1501年)生まれで、之長の孫にあたる人物です。父の長秀は元長が9歳の時にすでに討死していたため、之長の跡を継ぐべき身は元長1人となりました。永正17年(1520年)、之長が処刑された時、元長は20歳。以来、澄元の遺児である六郎を阿波で庇護しながら、雌伏の日々を送っていました。
大永6年(1526年)、高国の家中に内紛が起きたのを好機と見て、元長は晴元を奉じて挙兵しました。翌大永7年(1527年)2月、桂川原で、高国と、義澄の死後に高国が擁立していたその子・将軍義晴の連合軍と激突し、これを打ち破りました。
高国と義晴は近江へ逃れ、京都にはしばらく幕府がない状態になりました。
この混乱に乗じて、元長は11代将軍義澄の子である義維を擁立し、和泉国堺で、いわば新しい幕府とも言うべきものを打ち立てました。下界では「堺公方」と呼ばれました。祖父の之長が何度も敗れ続けた京都の地を、孫の代でついに制したことになります。
元長にはすでに幼い男の子がいて、千熊丸というそうです。之長から数えて3代、この一族の執念がようやく実を結んだ様子に見えます。
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祖父が肥満のために逃げ切れず処刑され、父も若くして討死した。それでもなお、孫の代でこれほどの地位まで這い上がってくるとは、この一族の粘り強さには驚かされる。三代かけてようやく積み上げたものが、この先どうなっていくのか、我にはまだ見当もつかない。だが、之長の代からこれまでを見てきた身としては、この一族から目を離せなくなってきた。




