【下剋上編】 第十四段 三好之長、敗れ去ること
【下剋上編】 第十四段 三好之長、敗れ去ること
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前段で書いた之長、あの執念深い男も、ついに終わりの時を迎えた。しかも、その最期の様子が、我の予想とはまるで違う、何とも言えぬものだった。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
之長、澄元と共に一時は京を奪い返す勢いを見せ候えども、永正十七年五月五日、等持院にて高国方の大軍と激突いたし候。三好方の兵、わずか四、五千に過ぎず、四、五万とも申す高国方の軍勢には、到底敵わず候。夕刻には早くも勝敗定まり~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
之長は澄元と共に一時は京都を奪い返す勢いを見せていましたが、永正17年(1520年)5月5日、等持院で高国方の大軍と激突しました。三好方の兵はわずか4000~5000ほどで、4~5万とも言われる高国方の軍勢には到底敵いませんでした。夕方には早くも勝敗が決まってしまいました。
之長は敗れた後、逃げようとしましたが、これができませんでした。以前から太っていた体で、わずか10歩も歩けないほどの有様だったそうです。こうして逃げ切れずに捕らえられ、助命を条件に降伏したにもかかわらず高国に騙され、6日後の5月11日、知恩寺で斬首されました。息子や甥も、後を追うように命を絶ちました。
あの応仁の乱の頃から何十年にもわたって戦場に立ち続け、数々の敗戦をも乗り越えてきた男の最期が、まさか自分の肥満のせいで逃げ切れなかったこととは、正直、言葉を失う思いです。
伊丹城で待機していた澄元も、之長の敗死を受けて阿波へ戻りましたが、もともと病の身で、翌月には亡くなりました。こうして、政元の死から13年にわたった細川家の争いは、ようやく1つの区切りを迎えました。
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これほど長く戦い続けた男の最期が、刀に討たれてでも、追い詰められての自害でもなく、ただ「歩けなかった」という、あまりに人間くさい理由で捕らえられたというのは、我にとっても意外な話だった。どれほど強い意志を持って戦い続けようとも、最後は己の肉体一つに足を掬われることもある。これもまた、無常というものの一つの形なのかもしれない。次の段では、この之長の孫にあたる者が、いかにして家を再興していくか、書いていこうと思う。




