【下剋上編】 第十三段 細川家の後継争い
【下剋上編】 第十三段 細川家の後継争い
-------------------
政元亡き後の細川家、澄之が討たれた後も、争いはまだ終わらなかった。今回は、澄元と高国、二人の養子の争いがどう転んでいったか、書いておこうと思う。
________________________________________
篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
澄之討たれし後、いったんは澄元が家督を継ぎ候えども、前段に申し上げ候通り、義尹、大内義興・高国と結び上洛を果たし候折、澄元・義澄はこれに敵わず近江へと逃れ、代わって高国、細川京兆家の家督に就き候仕儀と相成り~~~~~
________________________________________
現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
澄之が討たれた後、いったんは澄元が家督を継ぎましたが、前回書いた通り、義尹が大内義興・高国と結んで京都に戻ってきた際、澄元と、かつて政元が擁立したあの将軍・義澄は、これに敵わず近江へ逃れ、代わって高国が細川京兆家の家督に就くことになりました。
ただ、澄元はこれで諦めるはずもなく、家臣の三好之長を将として、翌永正6年(1509年)、京都の奪還を試みました。如意ヶ嶽で合戦になりましたが、高国・義興の反撃に遭い、澄元・之長は阿波へ敗走しました。
その2年後の永正8年(1511年)、澄元は再び兵を挙げ、義澄・赤松義村らとも結びましたが、運悪く義澄がこの最中に病で亡くなってしまいました。大将を欠いた澄元方は、船岡山で大内義興の反撃を受けて大敗しました。
こうして、細川政元の死からこれまで4年あまり、養子たちの争いはまだ決着がついていません。高国は一応の勝者となりましたが、澄元・之長はなお阿波で健在で、いつまた京都に攻め上るか分かりません。本当に、この家の争いはいつ終わるとも見えない長いものだと思います。
________________________________________
一人の男が実子を持たなかったばかりに、三人もの養子が家を巡って争い、それが幾年にもわたって京の内外を巻き込んでいく。細川政元という男の死は、もうとうに済んだはずのことなのに、その余波はまだ全く収まっていない。次の段では、この澄元方の家臣として奮戦してきた、三好之長という男に焦点を当てて書いていこうと思う。この一族が、これから先、下界の政に大きく関わってくることになりそうな気がしてならない。




