【下剋上編】 第十段 名もなき子のこと
【下剋上編】 第十段 名もなき子のこと
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これまで、将軍の廃立だの、管領の暗殺だのと、京の大事ばかり書いてきた。だが今回は、そういう華々しい出来事の陰で、誰の目にも留まらず生まれた、ある子について書いておこうと思う。もっとも、これを書き記す意味があるのかどうか、我自身、正直まだよく分かっていない。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
永正五年六月、かねてより西国へ逃れておりし前将軍・義尹、大内義興・細川高国らに擁され、ついに京へ立ち戻り候。将軍・義澄はこれに敵わず近江へと逃れ、義尹、再び将軍の座に就き候仕儀と相成り候。かの一件よりこれまで幾年も経ち候えども、ついに雪辱を果たし~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
永正5年(1508年)6月、以前から西国へ逃れていた前将軍・義尹が、大内義興や細川高国らに擁されて、ついに京都へ戻ってきました。将軍の義澄はこれに敵わず近江へ逃れ、義尹が再び将軍の座に就くことになりました。あの一件からこれまで何年も経ちましたが、ついに雪辱を果たしたことになります。
この将軍復帰の噂で下界が持ちきりの年のことです。
畿内のどこかの地――阿波とも、山城の西岡とも、摂津の五百住とも、下界の噂は定まりませんが――に、1人の男の子が生まれたそうです。名を久秀というそうですが、その父母の素性、出自、いずれもはっきりしませんでした。
この子は寺子屋のような所で文字を学び、その才を見込まれて、ある武家に右筆として拾われたそうです。どこの子かもわからないのに、才能だけで武家に拾われるというまさに何が起こるかわからない世の中だと思い知らされました。
この時代、こういう素性の知れない者たちが、いずれ思わぬ形で歴史の表舞台に立つことも珍しくなくなってきたと、これまで見てきた早雲や経久の例からも、少し思い当たる節があります。
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出自すら定かでない子の話など、本来ならば篁様への報告に値するものではないのかもしれぬ。それでも、あえて書き留めておいたのは、これまで見てきたこの時代の性分――名もなき者が、いつしか大きな力を持つようになる、あの流れが、我の中でどうしても引っかかったからだ。もっとも、これはただの気まぐれかもしれぬ。この子がこの先何をするでもなく、一介の土豪の子として生涯を終えるかもしれぬのだから。次の段では、また京の政に戻り、細川家の後継争いがどう転んでいったか、書いていこうと思う。




