1章 高い塔で巫女は歴史と真実を知る。
王城の外れ、北の城壁に作られた高い塔。かつて高貴な身分の罪人を閉じ込めておくためのものだったそこは、ここ数十年使われることなく置きざられたままになっていた。
幼い頃には、怖い話を聞かせてやると言われ、塔にまつわる話を聞いたものだ。
ある時は冷酷な王妃。ある時は賤しい心の王女。民を思わぬ王位継承者。心正しいものに成敗された彼らは、ここに閉じ込められ失意のうちに亡くなる。あるいは、自分の不幸を嘆き、かつての栄誉を思い、それを奪ったものを憎んだのだろうか?
空を仰ぎ上ったばかりの陽の光の温かさを。草と土の匂いを運ぶ風に、かつて当たり前のものだったものが何より尊く思える。遠くからは早朝働き出した人たちの声がかすかに聞こえる。目の前の錆の浮いた、けれど頑丈な扉を潜ればもう、それらを感じる事は出来なくなるだろうから。
「ノーザンス。王妃様よりの温情だ。」
神従騎士の声に、騎士の方に目をやると、ところどころにもみ殻の付いた麻の穀物袋が足元に投げられた。どさりと重い音のそれは、祝いの折に貴族より贈られた本や即位前、まだ王子であった頃に国王その人より他国遊行の土産にと貰った、古い伝承やおとぎ話や紀行本が詰められたもの。
最後の願いは聞き届けられたようだ。
半日と少し前。未来の王妃という少女の演説を聞いている中、疲労と空腹で意識を失い目が覚めると再び城の牢獄に戻されていた。
鉄格子の窓の外は暗く、廊下の壁に掲げられた松明の火を見て夜だと分かる。
やがて遠くから徐々に近くなる足音に誰かと思っていると、先導の神従騎士に連れられた、あの少女が来た。花嫁衣装は脱ぎ、纏うのは青いドレス。髪にさした小さなティアラ。裾に小花の刺繍を散らしたそれは、王より贈られ、けれど着る機会がなくしまわれていたままだったものだ。
(あぁ・・・本当に全部この人のものになってしまった・・・)
ぼんやりとドレスを見ていると、騎士が剣で柵を打つ音ではっとする。
「大罪人、頭を下げろ。礼を取れ。王妃様のおこしだ」
「もう、やめて下さい。私はまだ王妃ではないんですから。それに乱暴はやめて。罪を犯した人にも人権はあるんですよ」
「はっ、申し訳ありません。しかし、民の前で婚姻の儀は御済です。闇払えの儀が滞りなく済むまでは王妃の座にはつかないというご立派なご意志は尊重いたしますが、貴女様は万民が認めるこの国の王妃様です」
誇らしげに語る騎士に、照れたように微笑む少女。何をしに来たのだろう?この人たちは。これ以上、私から何を奪うんだろう。もう、何もありはしないのに・・・
何も言うことは無く、黙ってじっと2人を見ていると、視線に気が付いたのか少女が少しだけ前に進み出る。
騎士が己の職務を思い出したのか、厳めしい顔で剣に手を掛ける。無礼を働けば、首をはねるという意思表示だろう。
「カルと話して決めました。明日、貴女を北の塔に送ります。歴朝の罪人の為の物だそうです。整える事もしません。掃除の為の道具は渡します。自分でして下さい。しながら、反省して下さい。今まで空腹や病に苦しむ民衆を助けもせず、安楽に豊かに暮らしてきた自分を恥じて下さい。私は、闇を払い民を救います。王をお助けします。成すべき事をします。あなたとは違い、選ばれし本物の巫女ですから」
数度会ったことしかない少女に侮蔑的な眼差しで、辛辣な言葉を言われる。話している言葉の合間合間に浮かぶのはなんだろう?私が知らない感情だ・・・
「命尽きるその時まで。塔の中で反省して下さい。最後に、何か願いはありますか?一つだけ、私の出来る範囲で叶えてあげます。長い時間一人きりで過ごす慰みに。」
「・・・」
騎士が急かすように、槍で地面をどんと突く。少女との会話を思い出しながらぼんやりとしていた私は急いで重い袋を半ば引きずるように扉を潜る。
直後、身体と扉の隙間から投げられるように床に音を立て木の桶や布、ブラシのようなものが転がる。背中にどんと押されたような衝撃を感じ2歩3歩と進み、後ろでガンと聞こえた音にびくりと身をすくめ、目を閉じ。
そのまま背後で扉が閉まるのを感じる。扉を動かす音だったようだ。
遠ざかる足音に静寂が訪れると口から少しづつ息を吐き、鼻で吸い込んだ空気は湿ったカビと埃のような臭いがした。
目を開けると薄暗くはあるが、辺りの様子はわかる。
上を見上げると高い所に小窓があった。天井が半分で壁に石で階段が組んである。
なんだろう?
荷物はそのままにそろそろと歩きだし、1歩1歩確かめるようにしながら階段を上がる。ずいぶん古い建物だから注意しないと怪我をしても薬も何もないのだから。
怪我を負っても。死んでしまっても。悲しむどころか心配する者もないのにそう思う自分に小さく笑う。
数十段の階段を上がり、着いた2階の古い木の床は軋む音もなかった。頑丈に作られているようだ。小窓の反対側の壁は崩れそこからも陽の光が細い線のように床を照らしていた。両側から照らされ、2階は本が読めるほど明るい。中央に置かれたベッドは白く埃をかぶっていた。
小窓の下には古い木の机と椅子。したこともない掃除をしなければ眠る場所もない。絹のシーツも、刺繍の天蓋も、羽の枕も布団も。ここには何もないけれど。
1週間、牢獄の硬い石床の上だったので、汚れたベッドも素晴らしく思える。
急いで1階に下りると、扉の前の床に木の板が置かれていた。先ほどはなかったように思う。青い所々虫の食った林檎と、焦げたパン。真鍮のコップに入った水。しゃがみ込み見ると、木の扉の下に小さな窓が付いていた。食事を差し入れる場所の様だ。
板を持ち上げ食事を2階に置いてから、1階に戻り辺りを見渡す。
階段下は棚が組んであり、いくつか小さな木箱やガラス瓶が並んで置いてあった。
入口の扉を背に右手にご不浄用だろうか腰ほどの高さの木枠で隠された両手で作れるほどの輪の穴がむき出しで開いていた。穴の底からは水の流れる音が聞こえる。下水の真上なのだろうか?
左手には大きめの木箱が3つ。中をのぞくと古びた衣装、冬に床に敷く乾燥した草の束。欠けた食器、空いたワイン瓶。縄、割れたランプ。まるでいらないものをまとめて置いたかのような有様だ。
木箱の陰に石の竃に水汲みの為の石組みを見つけた。竃から上に伸びる石の枠には煤が付いており、2階の崩れたところには煙を逃がすためのものだと思った。
長く手入れをしていなかった為煙突の部分が崩れてしまったんだろう。
火種はないので使えないが、水はどうだろう。掃除をするにも、コップ1杯の物では喉を潤すのもやっとだ。
観察すると石組の中、底に穴が開いており、目の前の石組には人差し指ほどの大きさの木の杭がさしてあった。
経年より傷んだ木の杭は軽く引くと潰れ、穴からちょろちょろと水が流れ出した。
どのくらい閉じてあったのかわからないので、暫く流したままにしておき、棚からガラス瓶を持ってきて軽く埃を洗い流した後水を汲む。
2階に上がり瓶を陽にかざすと透き通って臭いもなかった。1口含み恐る恐る嚥下する。飲めるようだ。
必要な荷物を2階に運ぶことにした。
木の桶に水を汲み、ブラシと本の入った袋。兵士が投げた抱えるほどの大きさの布包み。何度も往復し、全てを運び上げると食事をとる。
林檎は酸いし、パンは固く苦い。
あまり咀嚼はせず、水で柔くし喉に流し込む。
2日前、牢獄で初めて出された時は、1口ほども食べられなかったが、空腹も手伝ってか、あっという間に全て平らげた。食べ終えてから、満たぬ腹にもう少しゆっくり咀嚼すればよかったと後悔する。
気を取り直し、荷物を見てみる。
私に与えられたものは、木の桶。ブラシ。本が16冊。布包みの中身は数着の肌着、着替えのシャツとスカート。木に巻かれた布が5巻。糸と針、鋏。櫛。手鏡。皮の靴。小さな陶器の瓶。開けてみるとツンとした匂いがする。傷に塗る軟膏の様だ。罪人に薬とは騎士や役人が用意するわけがないだろうから、王妃様の温情はこの世界の基準とは違い高いのだろう。牢獄でも罪人にも人権はあると言っていたし。
人権とは何のことだろう?人の権利?人の権力?
異世界より呼ばれたというあの少女。10日ほど前初めて会ったときは、怯えたようにおどおどしていたように思う。見知らぬ世界で、親しい人もなく怖がっていたのだろうか?巫女や神官でもない者を教会に置くわけには行かず。かといえ保護も与えないというわけにもいかず。結局城に保護され教育をという話だった。
次に会ったのは、3日前に城で開かれた国王主催の茶会。春の訪れを祝ぐ催しに私も出席すると、国王の傍らには、あの少女がいた。親しく言葉を交わし、神官たちも少女を気遣う様子を見せた。そして、最後に会ったのが昨夜の牢獄・・・。
考えながらも、もくもくとブラシで埃を掃き、切った布で床を拭く。初めてのことで、濡らした布をうまく絞れなかった。半分も拭くころにはだいぶ慣れ、布も上手く絞れるようになった。
ベッドに掛けられていた布はぼろぼろで穴も開いていたので剥がして1階に降ろしてしまう。代わりに、布包みに使われていた大きな布を掛けた。
雑貨は机に並べて置いた。すっかり片付け終えるとベッドに腰掛ける。
遠くに聞こえる鐘で15時だと分かった。
この国では、早朝の6時東西南北4つの門の開門の知らせと15時の閉門の知らせ。深夜0時日付が変わる知らせの3回鐘がなる。
牢獄から出された時鐘の音が聞こえたから、8時間ほどここにいる。これからずっと、ここにいなくてはならない。
罪の重さを思い知れと騎士と民は罵り、反省しろと少女・・・王妃は言った。
何を?
何を反省すればいいの?
私は、どんな悪いことをしたの?
この1週間の色々なことが頭に浮かぶ。
聖女の名をかたり民衆を偽り――――――、私の名前は、リルーシェ・スノウシェード・クロノス。建国の聖女様の生まれ変わりだと私は思っていた。そう、神官に教えられたから。
王権を汚そうとした大罪人――――――、婚約も、婚姻も定められていると思っていた。違う生き方など知らなかった。神官にそう言われ、国王・・・貴方も否定しなかった。
生まれは分かっておりません。生まれの土地も親の名も、自身の真名すら。近親者も己は知らぬ存ぜぬを繰り返すばかりです――――――、生まれはこの国の教会。聖女として生を受けたと。でも、聖女でも親はいるのではないの。なぜ疑問に思わなかったの。信徒の中から選ばれたものから生まれた。故にあなたはまごうことなき神の巫女。尊い方なのです。繰り返しそう言われ、いつしか尋ねなくなった。私の母様と父様は?
神官様方が不便ゆえノーザンス-名も無きもの-と呼ぶようにと――――――なら私は、誰なの?
目尻にじわりと涙がにじむ。なんといっていいのか。悔しい?憎らしい?悲しい?気持ちがごちゃごちゃしていて自分でもわからない・・・
辺りが薄暗くなってきた。小さく除く空がうっすらと赤い。夕方か・・・。下で物音がした気がして降りると、また床に木のトレーが置かれていた。掃除をしていて気が付かなかったが、1つしかトレーがない所を見ると、ここでは朝と夕に食事が出るようだ。
両手程の丸い器に、どろどろした白い何かが入っている。コップには水。2階に上がり、ついていたスプーンで恐る恐る掬う。
乳を薄めたような匂いだ。粒々したものは麦だろうか?
「ポッジ粥・・・?」
病人や怪我人が食べる、ポルジ麦と木の実を牛の乳と蜂蜜で甘く煮たものに見た目は似ている。一匙食べてみる。
「・・・・・」
お湯で牛の乳を薄くし、ポルジ麦を煮ただけの物のようだ。すっかり冷めたそれに眉間にしわがよる。とても美味しくなかった。味がない。
ため息をつき黙々と食べる。他には何もないのだから。
食事を終えると一階に下り二つのトレーと食器を扉の前の床に置いておく。明日の朝には回収されるだろう。流れる水で濡らした布きれで身体の汚れをざっと拭うと傷口を洗い軟膏を塗る。やがて徐々に部屋の暗さが増してきたので二階に戻った。
太陽が完全に落ちてしまうと目を開けているのに、自分の手すら見えなくなった。星明りや月明かりが見えないので今夜は曇りの様だ。
する事もなく、今日は寝てしまおうとベッドに横になる。掛けるものはなかった。初夏で良かった。冬ならば凍えてしまっていたろう。
疲れていた。だから、横たえると同時に意識は眠りに沈んだ・・・
耳元で何か身じろぎしていた。まぶたに陽の光が届く。もう朝だ。夢すら見ることなもなかった。眠ったのに体が動かない。疲れが消えてくれない。ゆっくりと意識が覚醒する。
目を空けると白い塊が目の前にあった。小さな丸い目と目が合う。
「きゃぁ」
驚いてはねのけるとバサバサ羽音をさせ飛び立ってしまった。
「鳩・・・。あぁ、あそこから入ってくるの」
崩れた部分や窓に止まる鳩や小鳥の姿に、首をかしげ思いつく。
「もしかして、君たちの布団を私がとってしまったのかな・・・」
やがて響きだす鐘の音に鳥たちが飛び去ってしまうと、一階に下り昨日おろしてしまったベッドに掛けられていた布を再び二階に上げる。とはいえ、自身が使っている物に掛ける事は少し嫌だったので、部屋の隅。苔生していない部分、おそらく雨に濡れないであろう部分に四角くたたんで広げた。
それが済むと食事の時間。床のトレーには、小さな器に入った煮た野菜。薄い肉の浮いたスープに焦げた丸いパン。一人で黙々と食べる。孤食には慣れていた。
大勢の女官や神官に囲まれ、温かく贅沢な食事を一人食べるのも。ここで、冷たい食事を一人とるのも同じことだ・・・
2階の掃除は昨日終えたので、今日は1階を掃除する事にした。木桶とブラシ。数枚布きれを持ち、埃を掃き拭き清める。
隅には埃をかぶった大きな木箱が5つあった。箱の中も目を通し、一番上の箱に入っていた乾燥した草の束は2階に運んでおくことにした。中身を出してから箱を先に運び、何往復かし草も運ぶ。再び元に戻すと上から布きれを掛けた。これで濡れたりなどしないだろう。冬には、これで寒さを凌ごう。
2つ目の箱には、古びた衣装が数着。男性の物だったので箱に畳み入れた。欠けた食器、空いたワイン瓶。割れたランプ、縄などもそのままにした。
3つ目の箱には、古い本が15冊、日記帳。中をぱらぱらと見て使われている文字の古さに驚く。神官文字だ。この箱の中の者の持ち主は神官か巫女だったのかな。自身と重なり暗い気持ちになる。だから箱の底で数個の蝋燭の箱と火打石が見つかった時にはより嬉しかった。昨夜のような暗さは少し怖かったからだ。
火打石など使ったことは無いが、慰問した小さな子供を育てている施設で使用している姿を何度か見たことがあるので、練習だ。とても小さな子がやっていたので、きっと私にもできるはず。
階段下の棚のガラス瓶は綺麗に洗い棚を拭いた後で並べて置く。比較的大きな瓶は2階に持っていった。火をともした蝋燭を中に入れれば風が拭いたり身じろぎしたなどで、消えたりしないだろう。残りの箱2つは空だった。
片付けを終え、さっそく火打石の練習に入る。
ほとんどの時間、練習に費やした。見事火が・・・!
付かなかった。どうしてだろう。火花も散らない。壊れているのかな?
夕食に昨夜と同じお湯で牛の乳を薄くし、ポルジ麦を煮ただけの物。ポッジ粥もどきを黙々と食べやがて訪れた夜に、おとなしくベッドに横になる。練習のし過ぎで手首と指がずきずきと痛んだ。慣れない事をしてさらに疲れていた。だから、横たえると同時にまた意識は眠りに沈んだ・・・
昨日と同じ。夢も見ないまま気が付いたら朝になっているに違いない。一人きりで身体を自分で抱くように。丸くなり。
けれど、どうしてだろう。一人のはずなのに、そばに誰かを感じた。誰かはわからない。でも、あたたかい誰かの声を聞いた気がした。
耳元で何か身じろぎしていた。まぶたに陽の光が届く。もう朝だ。目を開けると白い塊。もう驚かない。目が合い、首をかしげ鳩はまた眼を閉じた。
なぜここにいる?君たちの布団はどうした?ゆっくりと寝返りを打ち、昨日置いた布に目をやる。固まって鳩がいた。
(はみ出したのか・・・キミは)
ほっそりとした鳩の中で、まん丸いこの白い鳩は。もう少し一緒に寝ていようか。2度寝するのは初めてだ。
少しだけ幸せな気持ちになった。
鐘の音にふと意識が覚醒した。辺りはまだ明るい。
「15時か・・・寝過ぎた」
背伸びし辺りを見ると何もいなかった。餌でも啄みに行ったのか・・・
「置いてきぼりだ」
小さく笑う。1階に行くとトレーには焦げたパンに、萎れた葉野菜。薄く切ったハム。手で割り中に野菜とハムを挟むと、トレーをその場に置いたまま食べながら2階に戻る。行儀が悪いがここには注意する者は誰もない。それに早く食べて練習しないと。
夜が来た。ポッジ粥もどきを黙々と食べ、真っ暗の中横になる。今日も火は付かなかった。手首と指が痛い。力いっぱい打ち付け、けれど火花も散らず、自分の指を打つこともあり、ところどころ皮膚に血がにじんでいる。
「明日にはうまくいく。」
呟いて眠る私を、誰かが小さく笑っていると感じた。誰もいないのに。不思議と怖さは感じなかった。
耳元で何か身じろぎしていた。まぶたに陽の光が届く。もう朝だ。目を開けると白い塊と灰色の塊。増えている。
「おはよう。白、灰色。」
挨拶する私に首ををかしげる2羽。人馴れしているのか、ゆっくりと行動すると驚いたり逃げたりすることもなかった。
朝食を食べ、火打石の練習をし、2階に運び込んだ物を整理し、練習をし、夕食を食べ、身ぎれいにしてから横になる。闇が訪れ、眠り・・・。
同じことを繰り返し5日目の朝。やっと火が灯った・・・