9.少年の帰る場所(ダニエル視点)
分厚いカーテンの隙間から漏れる月光が、ダニエルの机の上の書類を淡く照らす。
屋敷の夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
二日前から滞在していたアンソニーが昼過ぎに帰ったためか、今夜はいつも以上に静けさが際立っていた。
その静寂を破ったのは、控えめなノックの音だった。
「……入れ」
ダニエルの声に応じて扉が開くと、ルカリオが姿を現した。
「夜分遅くにすみません。少し、いいですか?」
「こんな夜更けにどうした?」
ダニエルは手にしていた書類を机へ置き、ルカリオへ座るよう促した。
チェス盤を挟んでいる時には生意気な笑みさえ浮かべる少年が、今夜はやけに張り詰めた顔をしている。
ルカリオは椅子へ腰を下ろすと、一度深く息を吸い、まっすぐにダニエルを見つめた。
「今、俺はこの家に一時的に身を寄せているだけで、書類上はガルナシア家の人間だと思うんですけど」
そこで一度、ルカリオは言葉を切った。
膝の上に置かれた両手が、固く握り締められる。
しばらく俯いていたルカリオは、やがて意を決したように顔を上げた。
「……俺、ガルナシア家から正式に籍を抜きたいんです。それで、ダニエル様には俺の後見人になってもらえないかなって」
その言葉に、ダニエルの瞳がわずかに揺れた。
だが、驚いたわけではない。
こうなることを、ダニエルは予感していたのだ。
ルカリオがこの屋敷に来て、自分をここに置いてほしいと言った日からずっと。
それでもダニエルは尋ねる。
「理由を聞いてもいいかな」
「俺は、アンナを助けたいと思ってここに来ました。でも、あの家に籍がある限り、何かに巻き込まれて、アンナに迷惑をかけるかもしれない。俺を使ってアンナへ助けを求める可能性もある。俺があの家の人間でいるせいで、アンナがまたあの人たちに関わることになるのは嫌なんです」
これまでルカリオが、ガルナシア家からほとんど顧みられずに育ったことは、すでにダニエルも知っていた。
だが、今後さらにガルナシア家の状況が悪化すれば、これまでと同じように放置されたままでいられる保証はない。
いつか家の混乱や都合に巻き込まれるかもしれない――そんな不安が、ルカリオの胸をずっとよぎっていたらしい。
ダニエルはしばらく黙ってルカを見つめた。
彼には子供はいないし、歳も息子と言うにはかなり離れている。
けれどダニエルにとってルカリオは――この屋敷にいるすべての人間が、守るべき大事な子どもたちだ。
「ルカリオ。籍を抜くということは、二度と戻れないということだ。家族として扱われることもなくなる」
「構いません。あの家に、俺の居場所なんて最初からありません」
ルカリオは、一片の迷いも見せずに言い切った。
家族との縁を断つという言葉を、十五歳の少年がこれほど迷いなく口にできる。
それは決して喜ばしいことではない。
迷うだけの愛情も思い出も、あの家では与えられなかったということなのだろう。
その事実に、ダニエルの胸は鈍く痛んだ。
「未成年である君が、自分の意思だけで家を離れることはできない」
「はい」
「まず、家長であるガルナシア伯爵から正式な同意を得なければならない。君自身の意思確認に加えて、爵位や財産に関する継承権の放棄、新たな後見人の選定と審査、そして王家の認可も必要になる」
先日届いた返事だけでは、正式な同意とは認められない。
あらためて必要な書類を送り、ガルナシア伯爵本人の署名と家印をもらわなければならないのだ。
「それなりに時間はかかる。それに、一度手続きが認められれば、都合が悪くなったからといっても戻ることはできない。本当にいいんだな?」
最後の確認とばかりにダニエルが尋ねると、ルカリオは迷わず頷いた。
「はい。悪縁は、さっさと断ち切りたいんです。ただ、ダニエル様に面倒をかけることだけが申し訳なくて」
ダニエルはゆっくりと椅子から立ち上がり、机を回ってルカリオの前まで歩み寄った。
そして、不安そうにこちらを見上げる少年の頭へ、大きな手を置いた。
「そんなことは、子どもが気にすることではない。君はもっと私を頼っていいんだ」
ルカリオは驚いたように目を見開いたあと、何かを堪えるように唇を引き結び、やがて小さく頷く。
「分かった。私が君の後見人になろう。必要な手続きもこちらで進める。アンソニーにも証人を頼むとしよう。こういう時のための、元最高権力者だ」
「っ、ありがとうございます、ダニエル様! このご恩は忘れません! これからもダニエル様のために精一杯仕えさせていただきます」
ルカリオが勢いよく立ち上がって深々と頭を下げる。
あまりに必死な様子を見たダニエルは、少年の中に残る申し訳なさを吹き飛ばすように、豪快に笑った。
「仕える必要などない。私は君を使用人として引き取るわけではないのだからな」
「ですが、それでは俺の気が済みません」
「そう深く考えなくてもいい。これまでどおり、私のチェスの相手をしてくれれば、それで十分だ」
「いや、でもさすがにそれだけじゃ……」
「私だけでなく、アンソニーの相手もお願いすることになる。それに、屋敷の警備もしてくれておるだろう? それだけで十分だ」
「……分かりました。ですが、いつか必ず恩は返しますから」
「ならば気長に待つとしよう」
そう言って、ダニエルはもう一度手を伸ばすと、今度はルカリオの濃紺の髪をくしゃりと撫でた。
……もし自分に息子がいたなら、こんな心地だったのかもしれない。
ダニエルは不思議な感慨を覚えながら、照れくさそうに髪を整えるルカリオを見つめていた。
それから二カ月後、王都から、すべての手続きが完了したことを知らせる書状が届いた。
ガルナシア伯爵は、ルカリオに何の未練もないと言わんばかりに、ダニエルが送った書類へあっさりと署名し、家印を押して返送してきたのだ。
王都の担当官によるルカリオ本人への意思確認と、ダニエルに対する後見人としての審査も問題なく終わった。
アンソニーが証人となり、現国王の認可も下りたことで、ルカリオは正式にガルナシア家を離れ、伯爵家の爵位と財産に関する継承権を放棄した。
そして、成人するまでの後見人は、ダニエルが務めることになった。
書状を読み終えたルカリオは、しばらく紙面を見つめていたが、やがてほっと安堵の息を吐いた。
「これからは、この屋敷が正真正銘、君の家だ」
ルカリオの夕焼け色の瞳が大きく揺れ、やがて薄い涙の膜が張る。
それを隠すように一度俯いたあと、ルカリオは照れくさそうに顔を上げた。
「……はい。ありがとうございます」
その顔には、ようやく十五歳の少年らしい、晴れやかな笑みが浮かんでいた。




