10.アンナ自身の望み
アンナがダニエルのもとへやって来てから、もうすぐ一年になろうとしていた。
気づけばアンナは、ダニエルの仕事を手伝うという段階を、とっくに越えていた。
孤児院に送る支援金の配分を考え、物資の不足を洗い出し、職業訓練校では新しく必要になる教材や人員について意見を求められる。
商会時代から続く取引先との書簡に目を通したり、新たに寄付を申し出てきた者の素性を確認することも、今ではアンナの役目の一つだった。
「この件は、アンナはどう思う?」
そう聞かれるのも、当たり前になっていた。
一方、ルカリオはダニエルを後見人として、すでにガルナシア家から正式に籍を抜いていたらしい。
「もう完全に切れてるよ。これであの家と俺はもう一切の関係もない」
本人へ確認した時も、ルカリオは今日の天気でも報告するような淡々とした口調でそう答えただけだった。
ルカリオはこれまでと変わらずにこの屋敷に留まり、求められればダニエルのチェスの相手をしている。
アンソニーにも随分と気に入られ、彼が来訪すれば、必ずと言っていいほど対戦相手として呼び出されていた。
勝ったり負けたり、時には夜更けまで盤を挟んで睨み合っている姿も珍しくない。
屋敷の警備も引き続き手伝っている。
加えて最近は、それだけではなく――。
きっかけは、孤児院で暮らす少年の「騎士になりたい」という一言だった。
ニコラスとルカリオが実際に孤児院へ足を運び、希望する子どもたちに剣を教える。
そんなことが何度か続いたあと、今ではルカリオが時間の空いた時に一人で立ち寄り、自主的に指導しているらしい。
アンナも何度かその場面を目にしたが、子どもたちに囲まれたルカリオは、これまで見たどの時よりも明るく、生き生きとしていた。
今の彼は、自分の意思で選んだ場所に立ち、自分のやりたいことを見つけ始めている。
そう思うと、なぜかアンナの胸には、一人だけ置いていかれたような、小さな焦りが生まれた。
そんなある日のことだった。
話があると改まった表情でダニエル様に呼び出されたアンナは、彼と向き合って執務室の椅子に座る。
すると、お茶を一口飲んだダニエルは、アンナに向かってこう告げた。
「私は、アンナを最後の妻にしたいと思っている」
アンナはてっきり、これまで迎え入れた女性たちと同じように、いずれ自分のことも捨てたことにして、新たな花嫁を迎えるのだとばかり思っていた。
「それは……私の中に、メリッサがいるからですか?」
尋ねると、ダニエルはすぐには答えず、ゆっくりと視線を落とした。
「正直に言えばな、アンナ。君を縛り付けたくはないと思う反面……人生の最後の伴侶として、メリッサの魂を持つ君にそばにいてほしいと思っている私がいるんだ」
……それは、一切の取り繕いのない、ダニエルの言葉だった。
綺麗ごとではない、彼自身の本心。
半世紀もメリッサのことを想っていたのだ。
むしろダニエルのその気持ちは当然のものだろう。
アンナの中のメリッサが、彼の言葉に反応し心を震わせているのが分かる。
ゆっくりと自身の胸に手を置いたアンナは、柔らかく微笑んだ。
「ダニエル様、私は、妻でも、使用人でも、部下でも、形は何でもよいと思っていました。ですが、ダニエル様が望んでくださるのなら、私は最後まであなたの妻でいたいです」
初めてこの屋敷に来たあの日から、アンナの心は変わらなかった。
彼女の言葉に、ダニエルは、「そうか」とぽつりとつぶやいたあと、目尻に刻まれた皺を深くして笑った。
その笑顔を見つめるアンナの胸にも、じんわりと喜びが広がっていく。
メリッサもまた、アンナの中で微笑んでいるようだった。
ただ、そうなると気になることがあった。
これまでと同じ方法で虐げられた女性を救うなら、今後も新たな妻を迎えなければならないのではないだろうかと。
すると、アンナの疑問を察したのか、ダニエルが続けた。
「人助けの方法についてだがな、これからはやり方を変えようと思っている」
そう言って、ダニエルは小さく息を吐きながら苦笑いを浮かべた。
「そもそもこのような方法をとることになったきっかけはだな、目の前で虐げられている令嬢を見たことなんだ。……助けに入ったはいいが、他人の家の事情に口を挟むなと言われてしまって、咄嗟に思いついたのが『多額の金と引き換えに彼女を花嫁にする』という方法だった。それが一番早く、確実だったからだ」
最初に迎えられた花嫁が誰なのか、アンナも知っている。
今もこの屋敷で暮らしている、エリザだ。
「だがそのやり方では、助けられる数にも限界がある。今は人を受け入れる場所も、働き口も増えた。ならば、雇用し、教育を受けさせ、安心して暮らせる居場所を作る方が、よりよい方法になる」
アンナは同意するように、静かに頷いた。
「私もその方法でいいかと思います」
これまでの方法で多くの女性が救われたのは事実である。
それでも、ダニエルがこれ以上いわれのない悪評にさらされることを、アンナは望んでいなかった。
たとえ本人が、どれほど気にしていないと言ってもだ。
「それに、君を最後の妻にしたいのには、もう一つ現実的な理由がある」
ダニエルは、執務机の上に広げられた帳簿と書簡へ視線を向けた。
「アンナはもう、私の仕事を手伝っているという立場ではなくなってきている。分野によっては、私以上に事業の状況を把握しているほどだ。実質、共同経営者のようなものだよ」
「……評価していただけるのは嬉しいですが、それはさすがに言い過ぎではありませんか?」
「何を言っている。私はただ、事実を告げたまでだ。君は今や、私にとってなくてはならない存在だ。それどころか、この事業の要となっている」
「そんな……」
「メリッサの記憶を持つ君なら、私が人を過大評価しないことは分かっているだろう。自信を持ちなさい、アンナ。君は優秀だ。私が全幅の信頼を置けるほどにな」
「っ、ありがとう、ございます」
これまでアンナは、サリバン家でもガルナシア家でも、どれほど努力しても褒められたことなどなかった。
できて当たり前で、できなければ未熟者。
できすぎれば可愛げがないと思われ、ルカリオを除く周囲の者たちから疎まれてきた。
けれど、ダニエルの言葉はまっすぐにアンナへ向けられていた。
これまで積み重ねてきた努力も、今のアンナが成し遂げた仕事も、すべてを見たうえで認めてくれている。
アンナの口元には、抑えきれない笑みが浮かんだ。
それを嬉しそうに見守っていたダニエルは、やがて表情を引き締めた。
「それでだ。もしこの先、アンナがこの事業を引き継ぎたいと思うなら、妻という立場にある方が都合がいい」
「私が、事業を……?」
「私が死んだあと、事業に使っている財産や施設の権利を君へ引き継ぐ際にも、妻という立場ならば話が早い。余計な者からの口出しも防ぎやすい」
「……だから、私を妻の立場に置いておくと?」
「そうだ」
それはメリッサの魂をそばに置くためだけではなく、今を生きるアンナの将来まで考えた提案だった。
ダニエルの事業が、この先も続いてほしいという気持ちはアンナにもある。
すでに最寄りの街以外にも、新たな職業訓練校を建設する話が持ち上がっており、事業の規模は少しずつ大きくなっている。
ただ、どれほど精力的に活動していても、ダニエルはすでに七十一歳だ。
そう遠くない未来に、必ず別れの時が訪れる。
メリッサのものなのか、それともアンナ自身のものなのか分からない。
けれど……分かっていたはずなのに、あらためて突きつけられると、アンナの胸に鋭い痛みが走った。
それでも、アンナはその痛みをいったん胸の奥へ押し込み、ダニエルの事業について考える。
ダニエルのことだから、最終的には自身が立ち上げた商会と同じように、信頼できる誰かへ引き渡すものだと思っていた。
例えば、現在それぞれの孤児院や職業訓練校で、実務を担っている者たちに。
アンナも何度か会ったことがあるが、皆すばらしい人格者で、それぞれの施設を任せるだけならば何の問題もないだろう。
けれどダニエルがアンナへ託そうとしているのは、すべての事業を束ね、その理念ごと未来へ引き継ぐ役目だ。
その後継者として、アンナ自身が望むなら選んでもいいと言ってくれている。
そこに多少の情が含まれていたとしても、これほどまでに評価され、信頼してもらえたことが、アンナは嬉しかった。
ただ――アンナ自身は、この先どうしたいのだろう。
この屋敷に残ることは、アンナ自身が望んで選んだが、その根底には、メリッサとダニエルを幸せにしたいという思いがあった。
けれど、仕事を任され、皆から必要とされるようになった今の暮らしは満たされている。幸せな生活だとも思う。
それでも、それが自分自身の望みなのかと問われると、アンナには答えられなかった。
アンナはいつも、誰かの期待に沿うように生きてきた。
未来の伯爵夫人になるために。
婚約者を支えるために。
家族から認めてもらうために。
そして今もまた、目の前にいる人たちのために動いている。
自分のためだけに、何かを望んだことがあっただろうか。
答えを出せないまま黙り込むアンナを、ダニエルは責めることも、急かすこともしなかった。
「事業の継承について、私は君に強制したいわけではない。だから、今すぐに答えを出さなくていい。ただ、少し考えてほしい」
ダニエルはアンナの目をまっすぐに見つめた。
「――私がいなくなったあと、アンナ自身がどう生きたいのか。どう在りたいのかを」
アンナはまだ答えの見つからない戸惑いを表情に残しながらも、ダニエルの言葉を大切に受け取って、ゆっくりと頭を下げた。




